第68話 金の雫
ひとしずくが、まつげを離れた。
頬を、伝っていった。
熱かった。
地下で、何度も、何度も頬を伝っていったものとは、違った。
あれは、いつも、伝い落ちる途中で、ひやりと冷たくなった。
固くなって。
重くなって。
――からん、と。
石の床で、小さな音を立てた。
でも、これは。
冷たくならなかった。
頬を伝って、顎の先で、ほんの一瞬だけ、止まった。
それから、落ちた。
わたしの手の甲の上に。
あの人の手のひらに重ねた、わたしの手の上に。
とん、と。
小さな、やわらかい感触がした。
それから、手の甲を滑って、絨毯の上へ、転がり落ちた。
――石。
身体が、凍りついた。
落ちた。
石が、落ちた。
あの人の、目の前で。
わたしは、あの人の手から、自分の手を、はじかれたように引いた。
ボタンを握ったまま、絨毯の上を、両手で探った。
――隠さなきゃ。
見られる前に。
拾われる前に。
お母さまが、いつも、そうしたように。
ドルフさんが、いつも、そうしたように。
光にかざされて。
一粒いくらと、値をつけられて。
――その夢、また見てちょうだいね。
わたしの涙は、いつも、そうやって、わたしの手から離れていった。
この人の前でだけは、それを、見られたくなかった。
この人にだけは、拾われたくなかった。
この人が、お母さまと同じように、石を光にかざすところを、見たくなかった。
指先が、絨毯の上で、何か小さなものに触れた。
わたしは、それを、両手で包みこんだ。
胸に、押し当てた。
背中を丸めて、隠した。
「……見ないで」
声が、震えた。
「見ないで、ください。お願いです」
息が、うまく吸えなかった。
「わたし、泣かないって。この人の前でだけは、石を落とさないって、ずっと」
言葉が、ばらばらに崩れていった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。すぐ、どこかへ、捨てますから。誰にも、渡しませんから。だから」
「――リシェル」
あの人の声がした。
低くて、静かな声だった。
わたしは、顔を上げられなかった。
「隠さなくていい」
あの人は、言った。
すぐそばからだった。
手を伸ばせば届くところから。
でも、あの人は、手を伸ばさなかった。
「それは、お前のものだ」
「……」
「俺は、拾わない。誰にも、拾わせない。光にかざしもしない。値もつけない」
あの人の声は、少しも揺れていなかった。
「勅令を、覚えているか」
――わたしに涙を求めることは、皇帝に剣を向けるのと、同じ。
「あれは、俺にも適用される。俺が書かせたものだ。俺が、真っ先に守る」
わたしは、両手で胸を押さえたまま、動けなかった。
「だから、隠さなくていい」
あの人は、もう一度、言った。
「捨てなくてもいい。お前が持っていたければ、持っていればいい。お前のものだ」
わたしは、ゆっくりと、息を吐いた。
胸に押し当てた両手の中に、小さな、硬いものがあった。
ボタンと、もうひとつ。
――あれ。
わたしは、まばたきをした。
手の中が、温かかった。
ボタンは、ずっと握っていたから、温かいのは分かる。
でも、もうひとつのほうも。
温かかった。
石は、いつも、冷たかった。
落ちた瞬間から、氷のように冷たくて、握っていると、手のひらから熱を奪っていった。
覗きこむと、吸いこまれそうなほど、冷たくて。
でも、これは。
温かかった。
まるで、日向に置いてあった小石のように。
ずっと、陽の光を浴びていたみたいに。
それに。
――光っている。
胸に押し当てた両手の、指のすきまから。
燭台の灯りではない光が、かすかに、こぼれていた。
やわらかい、金色の光が。
わたしは、震える手を、ゆっくりと、胸から離した。
指を、一本ずつ、ほどいた。
手のひらの上に、ボタンがあった。
黒くくすんだ、縁の欠けた、銀のボタン。
そして、その隣に。
小さな、雫の形をした結晶があった。
青黒くなかった。
夜の底を切り取ったような、あの色ではなかった。
金色だった。
陽の光を、そのまま、ひとしずくの中に閉じこめたような。
林檎の木の葉のあいだから差しこんでくる、春の午後の光のような。
内側から、ほんのりと、輝いていた。
燭台の灯りよりも、やわらかく。
温かく。
わたしは、息をするのを忘れていた。
「……なに、これ」
声が、かすれた。
「わたしの、涙、ですか」
答えは、分かっていた。
さっき、わたしの頬を伝って、落ちたもの。
それが、今、手のひらの上で、光っていた。
でも、信じられなかった。
わたしの涙は、いつも、青黒い石になった。
七年間。
ううん、もっと前から。
離れの部屋にいたころから。
ハンナの布に吸いこまれなかった涙は、いつも、青黒く、冷たい石になった。
一粒の例外も、なかった。
それなのに。
◇ ◇ ◇
アルフレッドは、動けなかった。
あの子の手のひらの上で、金色の光が、揺れていた。
――何だ、これは。
《魔脈感知》が、肌の内側で、ざわめいていた。
あの青黒い石を手に取ったとき、感じたものとは、まるで違った。
あれは、冷たかった。
凍った水の底で、何かが細い息を繰り返しているような。
苦しげで、怯えていて、何かを堪えているような。
胸の奥を、ひやりと冷やすような脈だった。
これは、違う。
温かかった。
とくん、とくん、と。
ゆっくりと、穏やかに、脈打っていた。
まるで、眠っている子どもの心臓のように。
春の日向で、うたた寝をしている誰かの、寝息のように。
アルフレッドは、その光から、目を離せなかった。
――あの子の、涙。
地下で、あの子の涙は、すべて青黒い石になったと聞いた。
七年間、一粒の例外もなく。
あの子の母親は、それを集めて、首飾りにした。闇の競売に流した。西の反乱の軍資金にまでなった。
あの冷たい石の一粒一粒に、あの子が、暗闇の中で、ひとりで流した夜が詰まっていた。
それが、今。
自分の手の上で、自分を見上げて、こぼれた涙が。
こんな色をしていた。
アルフレッドは、自分の手のひらを見下ろした。
さっきまで、あの子の手が重ねられていた手のひら。
重ねられたあの子の手の甲に、雫が落ちて、転がっていったとき。
小さな手越しに、その一瞬の熱が、伝わってきた。
その熱が、まだ、手のひらに残っていた。
◇ ◇ ◇
「……金色」
わたしは、呟いた。
「どうして、金色なんですか」
あの人を見上げた。
あの人は、首を振った。
「分からない」
短い答えだった。
嘘のない声だった。
「俺も、初めて見る」
わたしは、手のひらの上の結晶を見下ろした。
金色の光が、ゆらゆらと揺れていた。
見ていると、胸の奥が、ふわりと温かくなった。
青黒い石を見ていたときとは、まるで逆だった。
あの石は、見ているだけで、胸の奥が冷えていった。
この石は、見ているだけで、胸の奥に、陽が差しこんでくるみたいだった。
――さっき。
わたしは、思った。
さっき、涙がこぼれる前。
胸の奥で、何かが、温かく、溶けていった。
冷たくなかった。
痛いのに、温かかった。
苦しいのに、ひとりではなかった。
地下で流した涙は、いつも、ひとりだった。
暗闇の中で、誰にも見られずに。
見られるとしたら、拾われるときだけ。
お母さまの、値踏みする目に。
でも、この涙は。
ひとりではなかった。
あの人が、目の前にいた。
わたしの手を、握っていてくれた。
――もしかして。
ふいに、そう思った。
でも、その先は、うまく言葉にならなかった。
わたしは、もう一度、金色の結晶を見つめた。
「……きれい」
気がつくと、呟いていた。
自分の涙を、きれいだと思ったのは、生まれて初めてだった。
青黒い石は、お母さまが、いつもきれいだと言った。
わたしは、一度も、そう思わなかった。
あれは、わたしから奪われていくものの色だったから。
でも、これは。
わたしの手のひらの上にあった。
誰にも、奪われずに。
わたしの、ものとして。
「……リシェル」
あの人の声がした。
顔を上げると、あの人が、わたしを見ていた。
燭台の灯りの中で、その黒い瞳が、金色の光を映して、揺れていた。
何の表情も浮かんでいない、とは、もう思えなかった。
あの人の顔は、何かを、ひどく大切そうに、見つめている顔だった。
わたしの手のひらの上の、小さな光を。
それから、わたしを。
「泣かせて、すまなかった」
あの人が、低い声で言った。
わたしは、首を振った。
「……謝らないで、ください」
声が、まだ少し、震えていた。
「泣かされたんじゃ、ないです」
わたしは、結晶を、手のひらでそっと包んだ。
温かかった。
「泣けたんです」
――泣けた。
口に出してみて、自分でも、少し驚いた。
泣かされたのではなく。
泣けと言われたのでもなく。
十年ぶりに。
ううん、生まれて初めて。
わたしは、自分の涙を、自分で流した。
誰のためでもなく。
何かと引き換えにでもなく。
あの人は、何も言わなかった。
ただ、わたしの手の中の光を、じっと見ていた。
それから、ゆっくりと、自分の右手を持ち上げた。
わたしの手のほうへ。
でも、途中で、止まった。
宙に浮いたまま。
あの日、廊下で転んだわたしに伸ばしかけて、止まった手のように。
「……触れても、いいか」
あの人が、訊いた。
わたしの手にではなく。
わたしの手の中の、金色の雫に。
「拾うのでは、ない。取るのでもない」
あの人の声は、ひどく、かすれていた。
「ただ、確かめたい。それが、本当に、そこにあるのか」
わたしは、あの人の顔を見上げた。
それから、手のひらを、ゆっくりと開いた。
金色の雫が、燭台の灯りの中で、静かに輝いていた。
わたしは、小さく、頷いた。




