第69話 消えた傷
あの人の指先が、ゆっくりと、近づいてきた。
わたしの手のひらの上の、金色の雫に。
ひどく、ゆっくりだった。
まるで、触れたら壊れてしまうものに、近づいていくように。
あるいは、触れたら消えてしまう夢に。
あの人の人差し指の先が、雫に、触れた。
ほんの、かすかに。
その瞬間、雫が、ふわりと光った。
燭台の灯りよりも、ずっと明るく。
でも、眩しくはなかった。
春の日向のような、やわらかい光だった。
その光が、あの人の指先から、手の甲へ、ゆっくりと流れていくのが見えた。
水が、乾いた土に染みこんでいくように。
あの人の手が、震えた。
「……っ」
あの人が、息を呑んだ。
でも、指を離さなかった。
光は、あの人の手首を伝って、袖の中へ、消えていった。
それから、雫の光が、すうっと元に戻った。
手のひらの上で、また、静かに、ほんのりと輝いているだけになった。
ほんの、数呼吸のあいだのことだった。
わたしは、あの人の手を見ていた。
雫に触れたままの、右手。
その拳の上に。
――ない。
わたしは、目を見開いた。
机にぶつけたという、あの傷の跡。
あの夜から、ずっと、うっすらと残っていた傷。
花冠を編んでいたときも。木に登ったときも。さっき、わたしが手を重ねたときも。
拳の上に、白く、細く、残っていた傷の跡が。
どこにも、なかった。
なめらかな皮膚だけが、そこにあった。
まるで、最初から、何もなかったみたいに。
「……傷が」
声が、震えた。
「アルフレッド、手の、傷が」
あの人は、自分の手を見下ろした。
雫から、ゆっくりと指を離した。
それから、右手を、燭台の灯りにかざした。
長いあいだ、黙って、自分の拳を見つめていた。
何度も、指を握って、開いた。
左手の指先で、傷のあった場所を、そっとなぞった。
何も、引っかからなかった。
「……ない」
あの人が、低い声で言った。
かすれていた。
それから、あの人は、ふいに、左手を自分の右肩に当てた。
シャツの上から。
あの日、井戸のそばで見た背中の、丸く引きつれた痕のあたりに。
あの人の顔が、固まった。
「アルフレッド?」
あの人は、答えなかった。
右腕を、ゆっくりと、回した。
肩の上まで、持ち上げた。
それから、もう一度、回した。
「……疼かない」
あの人が、呟いた。
「十年、雨の前の日には、必ず疼いた。腕を上まで上げると、引きつれた」
あの人は、右肩を押さえたまま、わたしを見た。
「今は、何も、ない」
わたしは、何も言えなかった。
手のひらの上の、金色の雫を見下ろした。
小さな、温かい光。
わたしの、涙。
――これが。
この人の、傷を。
「……わたしの、涙が」
声が、かすれた。
「治したんですか」
「分からない」
あの人は、首を振った。
それから、ゆっくりと、言い直した。
「分からないが、そうとしか、思えない」
わたしは、雫を、両手でそっと包んだ。
温かかった。
胸の奥が、ぎゅうっと痛くなった。
――わたしの涙は、いつも、奪われていくものだった。
お母さまの首飾りになって。
知らない誰かの屋敷になって。
知らない誰かの戦の、お金になって。
誰かを傷つけるものに、なっていった。
それなのに。
この雫は。
この人の、十年の傷を。
「……痛かった、ですよね」
気がつくと、言っていた。
いつか、この人に訊いた言葉。
この人が、答えられなかった言葉。
あの人は、わたしを見た。
黒い瞳が、燭台の灯りの中で、揺れていた。
それから、あの人は、ゆっくりと、頷いた。
今度は、はっきりと。
「……ああ」
低い声だった。
「痛かった」
わたしは、息を止めた。
――痛かった。
この人が。
初めて、自分の口で。
「十年、ずっと、痛かった」
あの人は、右肩に手を当てたまま、言った。
「今、痛くなくなって、初めて、分かった」
◇ ◇ ◇
翌朝、まだ夜が明けきらないうちに、宮廷魔術師レオンハルト・フォン・アイゼナハは、皇帝の私室に呼ばれた。
皇帝の私室に足を踏み入れるのは、初めてだった。
帝国魔術院の首席研究官から宮廷魔術師に取り立てられて、三年になる。若い皇帝に謁見したことは何度もあるが、いつも玉座の間か、執務室だった。
部屋の中には、皇帝と、宮廷医師エドガー・ローレンツがいた。
老医師の顔は、ひどく青ざめていた。
「レオンハルト」
皇帝が、言った。
椅子に座ったまま、上着を脱いで、シャツの前を開けていた。
「これから見せるものは、他言無用だ。破れば、勅令第一七号に準じて扱う」
レオンハルトは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
勅令第一七号。
東の客殿の娘に涙を求めた者は、皇帝に剣を向けたのと同じ扱いとする、という、あの奇妙な勅令。
宮廷の誰もが、その意味を測りかねていた。
「……かしこまりました」
皇帝は、黙って、シャツを肩から下ろした。
背中を、こちらへ向けた。
レオンハルトは、息を呑んだ。
傷だらけの背中だった。
戦場で十年を過ごした男の背中だと、噂には聞いていた。
肩から腰へ斜めに走る、長い白い線。脇腹の、赤黒く盛り上がった火傷の痕。細い線、太い線、古いもの、まだ赤みの残るもの。
それが、背中じゅうに、重なりあっていた。
だが。
「……右の肩甲骨の下を、ご覧ください」
エドガーが、震える声で言った。
レオンハルトは、目を凝らした。
右の肩甲骨の下。
そこだけ、傷が、なかった。
周りには、無数の傷が刻まれているのに。
拳ほどの大きさの一角だけが、まるで、生まれたばかりの子どものように、なめらかな皮膚をしていた。
その一角から、少し離れたところに、細い傷の線が、何本か走っていた。
だが、その線も、一角に近づくにつれて、薄く、細くなり、境目のあたりで、ふっと途切れていた。
まるで、そこから先の時間が、巻き戻されたかのように。
「陛下が十四の年に受けられた、最初の矢傷が、ここにございました」
エドガーが、言った。
「わたくしは、即位の折に、陛下のお身体を拝見しております。丸く、深く引きつれた、古い矢傷でございました。骨にまで、届いておりました」
老医師の声が、かすれた。
「それが、ございません」
「それだけではない」
皇帝が、背中を向けたまま、右手を差し出した。
「拳にも、傷があった。少し前に、机を割ったときのものだ」
レオンハルトは、その拳を見た。
なめらかだった。
剣を握る男の、硬い手。だが、拳の上には、傷ひとつなかった。
「……失礼を」
レオンハルトは、皇帝の背中に、そっと手をかざした。
触れはしなかった。
手のひらから、ごく微弱な探知の術式を流す。
皮膚の下の、魔力の流れを読む。
――何だ、これは。
レオンハルトの手が、震えた。
治癒の痕跡ではなかった。
治癒魔法は、傷を塞ぐ。肉を繋ぎ、骨を繋ぎ、流れた血を補う。だが、塞いだ痕は、必ず残る。傷跡は、消せない。それは、魔術の常識だった。どれほど高位の治癒術師でも、十年前の古傷を、跡形もなく消すことはできない。
だが、この背中の一角には。
塞いだ痕が、なかった。
傷を治したのではない。
傷が、なかったことになっている。
まるで、その部分の身体の記憶そのものが、傷を受ける前の形に、書き戻されたかのように。
「……陛下」
レオンハルトは、手を下ろした。
声が、思うように出なかった。
「これは、治癒ではございません」
「では、何だ」
「分かりません」
レオンハルトは、正直に言った。
宮廷魔術師として、その言葉を口にしたのは、初めてだった。
「わたくしの知るいかなる術式でも、このようなことは起こりえません。古傷を消すことは、魔術の原理として、不可能なのです。身体が覚えている傷の形を、書き換えることなど」
レオンハルトは、自分の手を見下ろした。
まだ、震えていた。
「……何を、なさったのですか」
皇帝は、シャツを肩に戻した。
ゆっくりと、こちらへ向き直った。
「昨夜、ある石に、触れた」
短い答えだった。
「石」
「小さな、金色の結晶だ。雫の形をしている」
レオンハルトは、目を見開いた。
「金色の……魔石、でございますか」
「魔石かどうかは、分からない。それを調べさせるために、お前を呼んだ」
皇帝の黒い瞳が、まっすぐに、レオンハルトを見ていた。
「その結晶に触れた瞬間、光が、俺の手から肩へ流れた。それから、こうなっていた」
レオンハルトは、喉の奥が、からからに乾いていくのを感じた。
――金色の、結晶。
帝国魔術院の書庫で、二十年、あらゆる魔石の記録を読んできた。
火の魔石。水の魔石。雷の魔石。近年、帝国じゅうに出回るようになった、出所の分からない青黒い魔石。
だが、金色の魔石など。
生命の構造そのものを書き換える魔石など。
どの記録にも、どの伝承にも。
「……その結晶は、今、どこに」
声が、かすれた。
「拝見することは、できますか。今すぐにでも。分析の術式を組めば、あるいは――」
「それは、俺のものではない」
皇帝が、言った。
静かな声だった。
だが、その声に、レオンハルトは、思わず口をつぐんだ。
「持ち主がいる。見せるかどうかは、持ち主が決める」
「……持ち主」
レオンハルトは、皇帝の顔を見た。
それから、ゆっくりと、思い至った。
勅令第一七号。
東の客殿の娘。
涙を求めることを、反逆と定めた勅令。
――涙。
レオンハルトは、息を止めた。
まさか。
まさか、その結晶は。
「陛下。その結晶は、もしや」
「口に出すな」
皇帝が、言った。
低い声だった。
レオンハルトは、口を閉じた。
「今日の昼、俺が持ち主に訊く。お前に見せてもいいかどうか」
皇帝は、立ち上がった。
「断られたら、それまでだ。お前は、今朝見たものを、墓まで持っていけ」
「……は」
レオンハルトは、深く頭を下げた。
顔を上げられなかった。
手が、まだ、震えていた。
恐れからではなかった。
魔術師として、生まれて初めて、目の前に、理屈の外にあるものが、現れた。
それに、身体が震えていた。
◇ ◇ ◇
その日の昼、扉を叩く音がした。
「入っていいか」
「……はい」
あの人が、銀の盆を持って入ってきた。
いつものように、盆を卓の上に置いて、曲がった匙でひと口ずつ確かめた。
それから、部屋の真ん中の絨毯の上に、腰を下ろした。
右腕を、何でもないように、軽く回した。
わたしは、それを見ていた。
胸元のリボンには、ボタンと一緒に、小さな布の袋を結んでいた。
セレナさんが、今朝、何も訊かずに縫ってくれた袋。
その中に、金色の雫が入っていた。
布越しにも、ほんのりと、温かかった。
「……リシェル」
あの人が、言った。
「ひとつ、頼みがある」
わたしは、あの人を見た。
「断っていい」
あの人は、先にそう言った。
「宮廷魔術師に、レオンハルトという男がいる。今朝、俺の背中を見せた」
わたしは、息を止めた。
「肩の矢傷が、跡形もなく消えていた。あいつは、魔術ではありえないことだと言った。あいつの手が、震えていた」
あの人は、わたしの胸元の、小さな袋を見た。
「その雫を、あいつに見せてもいいか」
わたしは、袋に、そっと手を当てた。
温かかった。
「見せるだけだ。触れさせはしない。持っていかせもしない。お前が嫌だと言ったら、すぐにやめさせる」
あの人の声は、静かだった。
「お前が、断ってもいい。その雫は、お前のものだ」
わたしは、長いあいだ、黙っていた。
――研究。
お母さまの声が、遠くで聞こえた気がした。
石を光にかざして、一粒ずつ、値踏みしていた目。
怖かった。
でも。
わたしは、あの人の右手を見た。
なめらかになった、拳。
――十年、ずっと、痛かった。
昨夜、あの人は、そう言った。
初めて、自分の口で。
「……知りたいです」
気がつくと、言っていた。
あの人が、こちらを見た。
「どうして、金色だったのか。どうして、あなたの傷が、消えたのか」
わたしは、袋を、両手で包んだ。
「わたしの涙が、何なのか」
声が、少しだけ、震えた。
「ずっと、知らなかったんです。奪われていくものだとしか、思っていなかったから」
あの人は、しばらく、わたしを見ていた。
それから、静かに、頷いた。
「分かった」
低い声だった。
「お前が、そばにいるときだけだ。お前の目の前でだけ、見せる。それでいいか」
「……はい」
わたしは、頷いた。
胸元の小さな袋が、布越しに、とくん、と、温かく脈打った気がした。




