第70話 涙晶学
二日後の午後、東の客殿の小さな応接間に、三人の学者が集められた。
ひとりは、宮廷魔術師のレオンハルトさんだった。
背の高い、痩せた人だった。四十を少し過ぎたくらいだろうか。灰色の長い外套を着て、銀縁の眼鏡をかけていた。
あとの二人は、帝国魔術院から呼ばれた人たちだった。
ひとりは、白い髭をたくわえた、ずんぐりとした老人。《情動魔力学》という学問の、いちばん偉い先生なのだと、レオンハルトさんが教えてくれた。
もうひとりは、まだ若い、細い目の男の人だった。老先生の助手なのだという。
三人とも、部屋に入る前に、扉の外で、宰相さまの前で誓いの言葉を述べさせられた。
ここで見聞きしたことを、生涯、誰にも漏らさない、と。
破れば、勅令第一七号に準ずる、と。
わたしは、応接間の窓辺の椅子に座っていた。
セレナさんが、木の腰掛けを運んでくれた。
その少し前に、あの人が立っていた。
三歩、離れたところに。
学者の人たちと、わたしとのあいだに。
「では、始めさせていただきます」
レオンハルトさんが、言った。
卓の上に、黒い天鵞絨を敷いた小さな台が置かれていた。
その隣に、見たことのない道具が、いくつも並んでいた。硝子の筒。細い銀の針が何本も立った円盤。透明な石を嵌めこんだ、拡大鏡のようなもの。
わたしは、胸元の小さな袋に、手を当てた。
布越しに、温かかった。
あの人が、こちらを振り返った。
「……いいか」
わたしは、小さく頷いた。
それから、袋の口を開けて、金色の雫を、手のひらの上に出した。
部屋の中の空気が、変わった。
老先生が、椅子から腰を浮かせた。
若い助手の人が、息を呑んだ。
レオンハルトさんだけは、動かなかった。
ただ、眼鏡の奥の目を、ほんの少しだけ、細めた。
わたしは、立ち上がった。
卓のそばまで、歩いた。
あの人が、半歩だけ、わたしの横に寄った。
わたしは、黒い天鵞絨の台の上に、金色の雫を、そっと置いた。
それから、すぐに、窓辺の腰掛けに戻った。
あの人は、卓のそばに立ったままだった。
雫から、目を離さなかった。
「……これは」
老先生が、かすれた声で言った。
「レオンハルト殿。本当に、これが、人の涙から」
「さようです、ヘルツ先生」
レオンハルトさんは、拡大鏡を手に取った。
雫には、触れなかった。
天鵞絨の台の上に、拡大鏡をかざして、長いあいだ、覗きこんでいた。
「比較のために、従来の涙晶もご用意いたしました」
レオンハルトさんが、言った。
助手の人が、小さな木箱を開けた。
中に、青黒い石が、五つ並んでいた。
わたしは、身体を硬くした。
――わたしの、石。
夜の底を切り取ったような、あの色。
見ているだけで、胸の奥が冷えていった。
「西の反乱の首謀者の陣幕から押収されたものです。蒼涙石。この十年ほどのあいだに、帝国じゅうに出回るようになった魔石でございます」
レオンハルトさんは、ちらりと、わたしのほうを見た。
それから、すぐに目を戻した。
「出所は、すでに陛下からうかがっております」
――知っているのだ。
この人は。
あの石が、わたしの涙だということを。
わたしは、膝の上で、手を握りしめた。
あの人が、わたしのほうへ、ほんの少しだけ、身体を向けた。
何も言わなかった。
でも、その背中が、わたしと青黒い石とのあいだに、静かに立っていた。
◇ ◇ ◇
レオンハルトは、銀の針の円盤を、二つの台のあいだに置いた。
魔力の流れを、針の振れで読む測定器。帝国魔術院で、二十年使い慣れてきた道具だった。
まず、蒼涙石の上にかざす。
針が、ゆっくりと振れた。
一定の方向に。一定の強さで。
そして、そのまま、ぴたりと止まった。
「……ヘルツ先生の御説どおりですな」
レオンハルトは、記録帳に書きつけた。
「蒼涙石は、感情由来の魔力を、結晶の内部に高密度で蓄積している。だが、その魔力は、静止している。流れていない。蓄えられているだけです」
「さよう」
老ヘルツ博士が、頷いた。
「情動魔力の結晶は、すべてそうだ。強い感情、とりわけ苦痛や恐怖が、涙という媒体を通して凝固し、魔力の貯蔵庫となる。それゆえ燃料として使える。魔導炉を回し、照明を灯し、兵器を動かす」
博士は、青黒い石を、指先で軽く弾いた。
「言ってしまえば、極上の薪だ。燃やせば熱が出るが、薪そのものは、何も生み出さん」
レオンハルトは、窓辺の少女の肩が、ほんのかすかに震えたのに気づいた。
皇帝の背中が、わずかに強張ったのにも。
レオンハルトは、何も言わずに、測定器を、金色の雫の上へ移した。
針が、震えた。
振れたのではなかった。
震えた。
細い銀の針が、何本も、いっせいに、小刻みに揺れはじめた。
一定の方向ではなかった。
ゆっくりと、規則正しく、波を打つように。
とくん、とくん、と。
まるで、心臓の鼓動のように。
「……何だ、これは」
ヘルツ博士が、身を乗り出した。
助手の若者が、記録帳を取り落としそうになった。
レオンハルトは、測定器を握る手に、力をこめた。
「流れています」
声が、かすれた。
「この結晶の魔力は、静止していない。結晶の内部で、循環している。外へ出ていっては、また戻ってくる」
「循環だと。結晶の中でか。そんなことが」
「ありえません。少なくとも、これまでの涙晶学では」
レオンハルトは、測定器の目盛りを、何度も読み直した。
「それに、この波形。博士、ご覧ください。これは、魔力の波形ではありません」
「では、何だというのだ」
レオンハルトは、少しのあいだ、言葉を探した。
「……生体の、それです」
部屋の中が、静まり返った。
「生きている身体の、組織が、自分を保とうとするときの、魔力の脈動に似ています。傷を負った組織が、元の形に戻ろうとするときの」
レオンハルトは、皇帝のほうを見た。
「陛下の背中で、拝見したものと、同じ波形です」
「つまり、こういうことか」
ヘルツ博士が、白い髭をしごきながら、低く唸った。
「蒼涙石は、感情の魔力を溜めこむだけの、器だ。だが、この金色の結晶は、器ではない。それ自体が、生命の構造そのものに働きかけて、壊れたものを、元の形に戻そうとする」
「修復、です」
レオンハルトは、言った。
「治癒ではなく。傷を塞ぐのではなく、傷を受ける前の形を、身体に思い出させる」
「馬鹿な」
博士の声が、震えていた。
「そんな魔石が、この世にあるとすれば、それは……」
博士は、その先を、言わなかった。
言えなかったのだと、レオンハルトは思った。
自分も、同じだった。
その先にある言葉を、口にするのが、恐ろしかった。
◇ ◇ ◇
わたしは、窓辺の腰掛けで、学者の人たちの話を聞いていた。
半分も、分からなかった。
循環。波形。生体。修復。
知らない言葉ばかりだった。
でも、ひとつだけ、分かったことがあった。
――極上の、薪。
あの青黒い石は、燃やすためのものだった。
燃やせば熱が出るけれど、何も生み出さない。
わたしが、地下で流した涙は、全部。
燃やされるための、薪だった。
胸の奥が、冷たくなった。
でも。
――修復。
あの金色の雫は、違う。
壊れたものを、元の形に戻そうとする。
この人の、十年の傷を。
わたしは、あの人の背中を見た。
三歩、離れたところに立っている背中。
白いシャツの下に、まだ、数えきれないほどの傷が残っている背中。
でも、そのうちのひとつは、もう、ない。
「……もうひとつ、ご報告しておきたいことがございます」
レオンハルトさんが、言った。
測定器とは別の、細長い硝子の筒を手に取った。
中に、ごく細い銀の糸のようなものが、一本だけ、浮かんでいた。
「これは、魔力の糸を読むための器具です。結晶と、その周囲の魔力の繋がりを測ります」
レオンハルトさんは、硝子の筒を、青黒い石の上にかざした。
筒の中の銀の糸が、ゆっくりと、ある方向へ傾いた。
レオンハルトさんは、その傾きを、じっと見ていた。
それから、筒を、金色の雫の上へ移した。
銀の糸は、また、同じ方向へ傾いた。
さっきよりも、ずっと強く。
わたしのほうへ。
窓辺の、わたしのほうへ。
レオンハルトさんの眼鏡の奥の目が、ほんの少しだけ、見開かれた。
「……どちらの結晶からも」
レオンハルトさんが、ゆっくりと言った。
「ごく微弱な魔力の糸が、一方向へ伸びております」
その目が、わたしのほうを、見た。
「この結晶を生んだ、方のほうへ」
部屋の中が、しんとした。
わたしは、胸元のボタンを、握りしめた。
――繋がって、いる。
あの青黒い石と。
わたしが。
今も。
「生成されたあとの涙晶が、元の持ち主と、魔力で繋がりつづけている、ということか」
ヘルツ博士が、眉を寄せた。
「そうとしか、読めません」
「ばかばかしい」
博士は、首を振った。
「レオンハルト殿。それは測定誤差だ。母体が同じ部屋にいるのだ。母体自身の魔力が、器具に干渉しているにすぎん」
――母体。
その言葉に、わたしの身体が、びくりと跳ねた。
どうしてなのか、自分でも分からなかった。
ただ、ひどく冷たい言葉だと思った。
人を呼ぶ言葉ではなく。
何かを生み出すための、器を呼ぶ言葉。
あの人が、ゆっくりと、博士のほうを向いた。
「その呼び方は、やめろ」
低い声だった。
声を荒らげたわけではなかった。
でも、博士の顔から、さっと血の気が引いた。
「……失礼を、いたしました。陛下」
「名前がある」
あの人は、短く言った。
「リシェル・ヴァレンティア嬢だ」
博士は、深く頭を下げた。
それから、わたしのほうへも、ぎこちなく頭を下げた。
「失礼をいたしました、リシェル嬢」
わたしは、何も言えなかった。
ただ、小さく頷いた。
あの人の背中が、わずかに、ほどけたように見えた。
「……ともかく」
博士は、咳払いをした。
「その糸の件は、測定誤差として処理すべきだろう。涙晶が、生成後も持ち主と繋がりつづけるなど、涙晶学の根本に反する。結晶とは、本来、切り離されたものだ。持ち主の手を離れた時点で、ただの物になる」
「ですが、博士」
「記録に残すのは構わん。だが、学会には、誤差として報告する。でなければ、我々の正気が疑われる」
レオンハルトさんは、しばらく、黙っていた。
それから、静かに頷いた。
「……かしこまりました。わたくしの個人の覚え書きとして、残しておきます」
レオンハルトさんは、記録帳の隅に、小さな字で、何かを書きつけた。
わたしの位置からは、読めなかった。
◇ ◇ ◇
アルフレッドは、硝子の筒の中で傾いた銀の糸を、見つめていた。
――糸。
ヴァレンティアの屋敷の、晩餐の間。
侯爵夫人の胸元で光っていた、青黒い石の首飾り。
その石のひとつひとつから、目に見えないほど細い魔力の糸が、垂れ下がるように伸びていた。
足元の大理石を抜けて、ずっと深く、地の底へ。
あの子のいた、地下の牢へ。
足の下の脈動が揺れるたびに、その糸も、かすかに震えていた。
――誤差では、ない。
アルフレッドは、知っていた。
あの夜、《魔脈感知》で、自分の肌で、その糸を感じ取った。
あの糸を辿って、地下の扉へ辿り着いた。
測定誤差などではない。
あの子の涙の石は、どこへ売られていっても、あの子と繋がっていた。
首飾りになっても。闇の競売に流れても。反乱の陣幕に積まれても。
ずっと、細い糸で、地の底のあの子に。
アルフレッドは、口を開きかけた。
――俺は、その糸を見た。
そう言えば、レオンハルトは、すぐに飛びつくだろう。
博士も、もう誤差とは言えなくなるだろう。
皇帝自身の証言だ。
そうなれば。
アルフレッドは、窓辺の少女を見た。
小さな木の腰掛けに座って、胸元のボタンを握りしめている。
――母体。
さっき、博士がそう呼んだとき、あの子の身体が、びくりと跳ねた。
糸のことが確かになれば、あの子は、もう一度、研究の真ん中に置かれる。
石を生む器としてではなく、石と繋がりつづける何かとして。
測られ、記録され、名前ではなく、別の言葉で呼ばれる。
自分の、感覚ひとつで。
確証もない、肌の記憶ひとつで。
アルフレッドは、口を閉じた。
言葉を、飲みこんだ。
――今は、まだ。
あの子が、自分の涙を、きれいだと言えるようになったばかりなのだ。
自分の涙が、薪ではないと、知ったばかりなのだ。
その胸の中に、また、冷たいものを流しこむわけにはいかなかった。
アルフレッドは、レオンハルトの記録帳の隅に書きつけられた、小さな字を、ちらりと見た。
――生成後の涙晶と母体との間に、微弱なる魔力の連絡あり。学会への報告は保留。
その一行を、アルフレッドは、黙って記憶にとどめた。
◇ ◇ ◇
学者の人たちが帰ったあと、わたしは、金色の雫を、また小さな袋に戻した。
胸元に、結んだ。
布越しに、温かかった。
あの人は、窓のそばに立っていた。
何かを、考えているような顔だった。
「……アルフレッド」
「何だ」
「さっきの、糸の話」
あの人の肩が、ほんのわずかに、動いた。
「わたしの石と、わたしが、今も、繋がっているって」
「誤差だと、博士は言っていた」
あの人は、窓の外を見たまま言った。
「……はい」
わたしは、胸元の袋に、そっと手を当てた。
「でも、もし、本当だったら」
あの人が、こちらを見た。
「あの青黒い石も、まだ、わたしと繋がっているなら」
わたしは、言葉を探した。
「わたし、あの石を、ひとつ残らず、返してほしいです」
あの人の目が、かすかに見開かれた。
「燃やされる前に。薪にされる前に」
声が、少しだけ震えた。
「わたしの泣いた夜が、知らない誰かの火にくべられるのは、もう、いやなんです」
あの人は、長いあいだ、わたしを見ていた。
それから、静かに頷いた。
「分かった」
低い声だった。
「帝国じゅうの蒼涙石を、探させる。時間はかかる。それでも、ひとつずつ、お前のところへ戻す」
「……はい」
わたしは、頷いた。
胸元の袋が、布越しに、とくん、と温かく脈打った。
あの人は、何かを言いかけて、やめた。
わたしには、それが何だったのか、分からなかった。
ただ、あの人の目が、ほんの一瞬だけ、ひどく遠くを見ていたのが、気になった。




