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第71話 神話級魔石

帝国魔術院の塔の最上階で、レオンハルト・フォン・アイゼナハは、三晩、眠らなかった。

 机の上には、古い書物が山のように積まれていた。

 《帝国魔石分類大典》。《古代魔導遺物目録》。《東方聖遺物考》。

 表紙の擦り切れたものも、頁の端が焦げたものもあった。魔術院の禁書庫から、院長の印を借りて持ち出したものも混じっていた。

 レオンハルトは、その一冊一冊を、夜通しめくりつづけた。

 探していたのは、ひとつだけだった。

 ――前例。

 あの金色の雫と、同じものが、この世にかつてあったかどうか。


 帝国の魔石は、五つの種に分けられている。

 第五種は、どこの川原にも転がっている、魔力をわずかに帯びた石ころ。照明や暖炉に使われる。

 第四種、第三種と上がるにつれて、魔力の密度は増していく。

 第二種は、魔導炉を一基まるごと動かせるほどの石。帝国でも、年に数えるほどしか採れない。

 そして、第一種。

 王族の冠や、国宝の剣に嵌めこまれる石。ひとつで、城がひとつ建つと言われる。

 あの青黒い蒼涙石は、純度によって、第二種から第一種のあいだに分類されていた。

 ひとつ百金貨。それでも、買い手は引きも切らなかった。

 ――だが、それは、すべて「蓄える石」だ。

 レオンハルトは、羽根ペンを置いて、目頭を押さえた。

 どれほど魔力の密度が高くても、第一種の石でさえ、魔力を蓄えて、放つだけのものだ。

 燃やせば、熱が出る。

 だが、燃やしても、何も生み出さない。

 ヘルツ博士の言ったとおりだ。極上の薪。

 あの金色の雫は、違う。

 あれは、燃やすためのものではなかった。

 生命の構造そのものに、働きかける。

 壊れたものに、元の形を思い出させる。

 十年前の矢傷を。

 骨に届くほど深く刻まれた、古い傷を。

 跡形もなく。


 三晩目の明け方近く、レオンハルトは、《古代魔導遺物目録》の、最後の数頁にたどり着いた。

 そこには、もう、実在が確かめられた遺物は載っていなかった。

 伝承だけ。

 神話の中にしか出てこない、名前だけの石。

 ――《黎明の雫》。

 神々の時代、ひとりの女神が、死にゆく人の子を憐れんで流した涙。

 その涙は、地に落ちて金色の石となり、触れた者の傷を、生まれる前の姿に戻したという。

 死者さえも、ひと晩だけ、蘇らせたという。

 だが、女神はその後、二度と泣かなかった。

 人の子らが、その石を奪いあって、殺しあったからだ。

 レオンハルトは、その頁を、長いあいだ見つめていた。

 指先が、冷たくなっていた。

 ――神話だ。

 ただの、おとぎ話だ。

 魔術院の学者が、本気で取りあうようなものではない。

 だが。

 皇帝の背中の、あの一角。

 傷が、なかったことになっていた、あのなめらかな皮膚。

 あれは、神話ではなかった。

 レオンハルトは、羽根ペンを取った。

 報告書の、分類の欄に、ゆっくりと書きつけた。

 ――既存の五種いずれにも該当せず。

 ――仮称、《神話級・第零種魔石》。

 書き終えて、ペンを置いた。

 手が、震えていた。


   ◇ ◇ ◇


「……価値の、試算でございます」

 その日の午後、皇帝の執務室で、レオンハルトは、封をした報告書を差し出した。

 机の向こうに皇帝が座り、その傍らに、宰相クラウスが立っていた。

 皇帝は、封を切って、黙って報告書を読みはじめた。

 レオンハルトは、その顔を見ていられなかった。

 目を伏せて、床の一点を見つめていた。

「……陛下」

 レオンハルトは、口を開いた。

「試算は、あくまで、仮のものです。前例が、ございません。比べるものが、ないのです」

 皇帝は、答えなかった。

 頁をめくる音だけが、静かに響いた。

「仮に、あの結晶の修復の力が、陛下の背中で確かめられたものと同じであるとして」

 レオンハルトは、乾いた唇を湿らせた。

「失われた腕や脚を、取り戻せるかもしれません。治癒術では、決して戻らない古傷も。生まれつきの病も。あるいは、もっと」

 ――死者さえも、ひと晩だけ。

 レオンハルトは、その言葉を、喉の奥に押しこんだ。

「戦場で手足を失った兵が、帝国だけで何万といます。王族や大貴族の中にも、病や古傷に苦しむ者は、数えきれません。その誰もが、あの結晶ひとつのためなら、何を差し出しても惜しくないと思うでしょう」

「……」

「国庫の一年分。いいえ、十年分でも、足りないかもしれません」

 レオンハルトは、目を閉じた。

「あの結晶ひとつで、一国が、買えます」

 執務室の中が、しんと静まり返った。

 クラウスが、息を呑む音がした。

「……そして、あの結晶を生む方がいると知れれば」

 レオンハルトは、声を絞りだした。

「帝国の内でも、外でも、その方を手に入れるために、戦が起きます」


 長い沈黙だった。

 皇帝は、報告書を、最後の頁まで読み終えた。

 それから、それを、ゆっくりと机の上に置いた。

 皇帝の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。

 だが、レオンハルトは、その黒い瞳の奥に、何か、ひどく冷たいものが沈んでいるのを見た。

 戦場の、目だった。

「レオンハルト」

「は」

「この報告書を、写しを含めて、何部作った」

「……これ、一部のみでございます。下書きは、今朝、焼き捨てました」

「ヘルツは、この数字を知っているか」

 レオンハルトは、少しためらってから、首を振った。

「試算を始めたことは、ご存じです。博士も、ご自身で、別に試算を始めておられるかと」

 皇帝は、少しのあいだ、黙っていた。

「お前の分類は、正しいのだろう」

 低い声だった。

「神話級。第零種。一国に匹敵する」

「……は」

「その言葉を」

 皇帝は、報告書の上に、手を置いた。

「あれの前で、二度と口にするな」

 レオンハルトは、顔を上げた。

「あれは、自分の涙を、きれいだと言った」

 皇帝の声は、静かだった。

「生まれて初めて、と言った。あの地下で、自分の涙は、奪われていくものの色だったから、と」

 レオンハルトは、何も言えなかった。

「その涙に、値をつけるな。一国でも、金貨一枚でもだ」

 皇帝は、レオンハルトを見た。

「ヘルツにも、そう伝えろ」

「……かしこまりました」

 レオンハルトは、深く頭を下げた。

 胸の奥が、きりきりと痛んだ。

 三晩、眠らずに古い書物をめくっていたあいだ、自分は、ひとつも考えなかった。

 あの雫を生んだ娘が、それをどんな顔で見ていたのかを。


   ◇ ◇ ◇


 レオンハルトが下がったあと、クラウスは、しばらく黙っていた。

 机の上の報告書を、見下ろしていた。

「……陛下」

「何だ」

「ヘルツ博士から、今朝、書状が届いておりました」

 クラウスは、懐から、一通の封書を取り出した。

「次の調査の日取りを、ご相談したいと。それから」

 クラウスは、言いにくそうに、言葉を切った。

「試料が、ひとつきりでは、研究にならないと。できれば、新たな結晶を、いくつか」

 皇帝の手が、報告書の上で、止まった。

「新たな結晶」

「……はい」

「あれに、もう一度泣けと言っているのか」

 皇帝の声は、低かった。

 クラウスは、何も答えなかった。

 答える必要がなかった。

 皇帝は、封書を受け取った。

 開かずに、そのまま、机の端に置いた。

「勅令第一七号は、ヘルツも読んでいるはずだ」

「博士は、学者でございます」

 クラウスは、静かに言った。

「悪意から申しているのでは、ございますまい。目の前に、生涯で一度出会えるかどうかの謎がある。それを解きたいと、ただ、それだけを」

「分かっている」

 皇帝は、窓の外を見た。

 東の客殿のほうを。

「悪意がないから、厄介なんだ」

 クラウスは、目を伏せた。

 それから、ふと、思い出したように言った。

「蒼涙石の件、手配を始めております。闇の競売に出入りしていた商人たちから、売り先を洗い出しております。時間はかかりますが、ひとつずつ」

「頼む」

 皇帝は、短く言った。

「買い戻すのに、いくらかかってもいい」

 クラウスは、主君の横顔を見た。

 ――いくらかかっても。

 一国に匹敵する、と言われたばかりの石を生む娘の。

 その娘の、薪にされかけた涙を、取り戻すために。

 クラウスは、何も言わなかった。

 ただ、深く一礼した。


   ◇ ◇ ◇


 その日の夕方、あの人が、いつもより少し遅れて来た。

「入っていいか」

「……はい」

 あの人は、銀の盆を卓の上に置いて、曲がった匙でひと口ずつ確かめた。

 それから、部屋の真ん中の絨毯の上に、腰を下ろした。

 いつもと、同じだった。

 でも、何かが、少しだけ違って見えた。

 あの人の横顔が、いつもより、少しだけ固かった。

 わたしは、卓のそばでスープを飲んで、パンを食べた。

 それから、あの人から三歩離れた絨毯の上に座った。

「……アルフレッド」

「何だ」

「レオンハルトさんの、調べもの」

 あの人の肩が、ほんのわずかに、動いた。

「何か、分かったんですか」

 あの人は、少しのあいだ、黙っていた。

 窓の外を、見ていた。

「……古い伝承に、似たものがあったそうだ」

 あの人は、言った。

「女神が、死にゆく人を憐れんで流した涙が、金色の石になった、という話だ」

「女神……」

 わたしは、胸元の小さな袋に、手を当てた。

 布越しに、温かかった。

「それで、その女神さまは」

 あの人は、答えなかった。

 少しだけ、目を伏せた。

「……二度と泣かなかった、と書いてあったそうだ」

 わたしは、まばたきをした。

「どうして、ですか」

 あの人は、しばらく、何も言わなかった。

 それから、低い声で言った。

「人が、その石を奪いあったからだ」

 部屋の中が、静かになった。

 わたしは、胸元の袋を、両手で包んだ。

 温かかった。

 ――奪いあった。

 わたしの涙も。

 奪われてきた。

 ずっと。

 お母さまに。お父さまに。お兄さまに。

 知らない誰かに。

「……わたしも」

 声が、震えた。

「わたしの涙も、また、誰かに奪いあわれるんですか」

 あの人が、こちらを見た。

 まっすぐに。

「させない」

 短い答えだった。

 嘘のない声だった。

「誰にも、させない。お前の涙は、お前のものだ。誰も、それに値をつけることは許さない」

 あの人の黒い瞳が、燭台の灯りの中で、揺れていた。

 いつもと同じ、静かな目。

 でも、その奥に、何か、ひどく冷たくて、硬いものが、沈んでいるように見えた。

 わたしは、その目を、少しだけ怖いと思った。

 怖いと思って、それから、気づいた。

 ――この目は、わたしに向けられているのでは、ない。

 わたしの涙に、値をつけようとする、まだ見ぬ誰かに。

 その誰かに、向けられているのだ。

 わたしは、胸元の袋を、そっと握った。

 とくん、と。

 布越しに、温かく、脈打った。

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