第72話 値段をつけるな
二度目の調べものは、それから五日後だった。
東の客殿の、同じ小さな応接間。
同じ三人の学者。
わたしは、同じ窓辺の木の腰掛けに座っていた。
あの人も、同じように、三歩離れたところに立っていた。
学者の人たちと、わたしとのあいだに。
ただ、ひとつだけ、違うことがあった。
卓の上に並べられた道具が、この前よりも、ずっと多かった。
大きな硝子の鐘。銀の針が何十本も立った、皿のような円盤。細い管で繋がれた、いくつもの小瓶。
ヘルツ博士が、魔術院から、荷車で運ばせてきたのだという。
「この前は、急ごしらえでございましたからな」
博士は、白い髭をしごきながら、満足そうに言った。
「今日は、きちんとした測定ができます。魔力の流れを、結晶の内側まで読みとれる」
レオンハルトさんは、何も言わなかった。
卓の端で、黙って記録帳を開いていた。
この前よりも、少しだけ、顔色が悪いように見えた。
わたしは、胸元の小さな袋から、金色の雫を出した。
卓のそばまで歩いて、黒い天鵞絨の台の上に、そっと置いた。
それから、すぐに窓辺に戻った。
博士が、身を乗り出した。
大きな硝子の鐘を、雫の上に、ゆっくりとかぶせた。
鐘の内側で、雫が、ふわりと光った。
「おお……」
博士の口から、ため息のような声が漏れた。
若い助手の人が、急いで小瓶の栓を抜いた。
細い管の中を、何か透明なものが流れていった。
銀の針が、いっせいに震えはじめた。
とくん、とくん、と。
この前と、同じように。
「見たまえ、レオンハルト殿。この波形を」
博士の声が、だんだん高くなっていった。
「この前よりも、ずっとはっきりと読める。循環だ。まさしく循環している。結晶の内部で、生命の脈動を模倣している。いや、模倣ではない。これは」
博士は、円盤の針を食い入るように見つめていた。
白い髭が、小刻みに震えていた。
その目が。
わたしは、膝の上で、手を握りしめた。
――あの目。
どこかで、見たことがある目だった。
「博士」
レオンハルトさんが、静かに言った。
「測定は、記録に必要な分だけで」
「分かっておる、分かっておる」
博士は、手を振った。
針から、目を離さなかった。
「だが、レオンハルト殿。君の報告書は、私も読ませてもらった。陛下のお許しを得て、要旨だけだがね」
レオンハルトさんの肩が、ぴくりと動いた。
「神話級。第零種。実に、適切な分類だ。私も、同じ結論に至った」
博士は、硝子の鐘の中の、金色の雫を見つめたまま言った。
その声が、熱を帯びていた。
「いや、私の試算では、君の見積もりですら、控えめにすぎる。考えてもみたまえ。この雫ひとつで、失われた手足が戻る。不治の病が癒える。帝国じゅうの、いや、大陸じゅうの王侯が、これを求めて列をなす」
「博士」
レオンハルトさんの声が、硬くなった。
「陛下のご命令を」
「分かっておる。だが、事実は事実だ。学者が事実を曲げてどうする」
博士は、とうとう、硝子の鐘から顔を上げた。
興奮に、頬が赤くなっていた。
その目が、わたしのほうへ、向いた。
「リシェル嬢」
わたしの身体が、凍りついた。
「あなたは、ご自分が何を生み出されたのか、お分かりになっておられないのかもしれん。この一粒は」
博士は、硝子の鐘の中の雫を、指さした。
「この一粒は、一国の――」
「そこまでだ」
低い声が、部屋を割った。
大きな声ではなかった。
怒鳴ったのでもなかった。
それなのに、部屋の中の空気が、一瞬で凍りついた。
博士の口が、半開きのまま、止まった。
助手の人の手から、小瓶が滑り落ちて、絨毯の上で鈍い音を立てた。
あの人が、博士を見ていた。
何の表情も浮かんでいない、いつもの顔で。
でも、その目は。
わたしが、一度も見たことのない目だった。
ううん。
一度だけ、見たことがある。
生け垣の隙間から。
稽古場で、ガレスさんの喉元に、剣先を突きつけたときの目。
鋭くて、冷たくて、遠い目。
「レオンハルトから、伝わっていたはずだ」
あの人は、静かに言った。
「その言葉を、あれの前で、口にするな、と」
「へ、陛下。わたくしは、ただ、事実を」
「事実かどうかは、関係ない」
あの人は、一歩、前に出た。
博士が、思わず、半歩下がった。
「研究は、ここで打ち切る」
博士の顔から、さっと血の気が引いた。
「陛下、それは」
「測定器を片づけろ。記録は、すべてレオンハルトに預けろ。写しは取るな」
「お待ちください、陛下!」
博士は、両手を広げた。
声が、悲鳴のようになっていた。
「この研究がどれほどのものか、陛下はお分かりではない! これは、魔術の歴史を書き換える発見なのです! 戦場で手足を失った兵が、何万と救われるかもしれない! 病に苦しむ民が! それを、わたくしの一言の、言葉の選び方ひとつで――」
「言葉の選び方ではない」
あの人の声は、変わらなかった。
平らで、静かで、少しも揺れていなかった。
「お前は今、あれに向かって、値段を言おうとした」
博士は、口をつぐんだ。
「一国の、と。そう言いかけた」
あの人は、窓辺の、わたしのほうを、ほんの一瞬だけ見た。
それから、また、博士に目を戻した。
「あれの涙は、十年、値をつけられてきた」
あの人は、言った。
「一粒いくらと。光にかざされて。首飾りにされて。闇の競売で、競り落とされて」
「……」
「あれの母親は、あれが泣くたびに、上出来だと言った。石の数を数えて、値を数えて。あれ自身のことは、一度も見なかった」
部屋の中が、しんと静まり返った。
レオンハルトさんが、目を伏せていた。
助手の人が、青い顔で、床に落ちた小瓶を見つめていた。
「お前は、学者だ。悪意がないのも、分かっている」
あの人は、博士を見た。
「だが、今のお前の目は、あの母親の目と、何が違う」
博士の顔が、凍りついた。
「――あれの涙に、値札をつけるな」
あの人は、静かに、言った。
「一国でも。金貨一枚でも。それができないなら、この研究は要らない」
◇ ◇ ◇
わたしは、窓辺の腰掛けに座ったまま、動けなかった。
――値札を、つけるな。
あの人の声が、耳の奥で、何度も響いていた。
――あの母親の目と、何が違う。
そうだ。
あの目だった。
さっき、博士が、硝子の鐘の中の雫を見つめていたとき。
どこかで見たことがあると思った、あの目。
お母さまが、ランプの光に、青黒い石をかざしていたときの目。
うっとりと。
熱を帯びて。
石の向こうにいる、わたしのことなど、少しも見ていない目。
博士は、お母さまではない。
悪い人でも、ないのだと思う。
兵士の人たちが救われるかもしれない、と言っていた。病気の人が、と。
それは、本当のことなのだと思う。
でも。
――リシェル嬢。この一粒は、一国の。
あのとき、博士の目は、わたしを見ていた。
わたしの顔を、ではなかった。
わたしの目の、奥を。
また、そこから、何かがこぼれてこないかと。
その目が、怖かった。
お母さまと、同じくらい。
わたしは、膝の上で、手を握りしめていた。
指先が、冷たくなっていた。
博士は、長いあいだ、黙っていた。
それから、ゆっくりと、頭を下げた。
「……出過ぎたことを、申しました」
かすれた声だった。
さっきまでの熱は、どこにもなかった。
「陛下のご命令に、従います」
博士は、助手の人に、測定器を片づけるように言った。
それから、わたしのほうを向いた。
何かを言おうとして、口を開いた。
でも、言葉は出てこなかった。
博士は、もう一度、深く頭を下げた。
わたしに。
「……リシェル嬢。お許しを」
わたしは、何も言えなかった。
ただ、小さく頷いた。
博士は、それきり、わたしのほうを見なかった。
見られなかったのだと、思う。
学者の人たちが、道具を片づけて出ていった。
最後に、レオンハルトさんが残った。
記録帳を胸に抱えて、扉の前で、立ち止まった。
「……陛下」
「何だ」
「わたくしも、同罪でございます」
レオンハルトさんは、言った。
「試算を、報告書に書きました。博士がそれを読む道を、作ったのは、わたくしです」
「お前は、それを、俺にだけ見せた」
あの人は、短く言った。
「ヘルツに要旨を見せる許しを出したのは、俺だ。俺の落ち度だ」
レオンハルトさんは、目を見開いた。
「研究は、打ち切った。だが、お前には、あの雫と、あれの涙のことを、引き続き調べてもらう」
あの人は、レオンハルトさんを見た。
「値をつけるためではなく。あれを守るためにだ」
レオンハルトさんは、しばらく、何も言わなかった。
それから、深く、深く頭を下げた。
「……命に代えましても」
レオンハルトさんが、扉を閉めた。
◇ ◇ ◇
部屋の中に、あの人と、わたしだけが残った。
卓の上の、黒い天鵞絨の台の上に、金色の雫が、ぽつんと残っていた。
硝子の鐘は、もう、なかった。
あの人は、卓のそばに立ったまま、その雫を見下ろしていた。
触れなかった。
わたしが、自分で取りに来るのを、待っていた。
わたしは、ゆっくりと立ち上がった。
膝が、少しだけ震えていた。
卓のそばまで歩いた。
あの人の、半歩横に。
黒い天鵞絨の台の上から、雫を、手のひらに取った。
温かかった。
さっきまで、硝子の鐘の中で、たくさんの目に覗きこまれていた雫。
それが、今は、わたしの手のひらの上で、静かに、ほんのりと光っていた。
わたしは、それを、胸元の小さな袋に戻した。
両手で、包んだ。
「……アルフレッド」
「何だ」
あの人の声は、もう、いつもの声に戻っていた。
低くて、静かな。
「さっきの、目」
わたしは、言った。
「博士の、目」
あの人は、黙っていた。
「お母さまと、同じでした」
声が、震えた。
「わたし、すぐには、分からなくて。どこかで見たことがある、って思っただけで」
あの人は、何も言わなかった。
「でも、あなたが言ってくれたから、分かりました」
わたしは、胸元の袋を、握りしめた。
「あの目が、怖かったんだって」
あの人が、こちらを見た。
「……すまない」
あの人は、言った。
「お前を、あの目の前に座らせた」
わたしは、首を振った。
「わたしが、知りたいって、言ったんです」
「それでもだ」
あの人は、短く言った。
「お前が知りたいと言ったことと、お前を値踏みする目に晒していいことは、別だ」
――理由があったことと、約束を守れなかったことは、別だ。
いつか、この人は、そう言った。
この人は、いつも、そうやって、ひとつずつ、分けて考える。
言い訳の後ろに、隠れないために。
わたしは、あの人の横顔を見上げた。
「……さっきの、値札をつけるな、って」
あの人の肩が、ほんのわずかに、動いた。
「わたしの涙のこと、そんなふうに言ってもらったの、初めてでした」
声が、かすれた。
「みんな、わたしの涙に、値段をつけてきたから」
お母さまも。お父さまも。
石を買っていった、知らない誰かも。
今日の、博士も。
「値段をつけないでって、言ってくれた人は、あなたが初めてです」
あの人は、しばらく、何も言わなかった。
それから、低い声で、言った。
「値段など、つけられるはずがない」
あの人は、わたしの胸元の、小さな袋を見た。
「あれは、お前が、生まれて初めて、自分で流した涙だ」
わたしは、息を止めた。
「一国と比べられるようなものではない」
あの人は、そう言って、窓の外へ目を逸らした。
わたしは、胸元の袋を、両手で包んだまま、動けなかった。
布越しに、雫が、とくん、と温かく脈打った。
それから、もう一度。
とくん、と。




