第73話 研究される恐怖
その夜、わたしは、夢を見た。
大きな硝子の鐘の中に、わたしがいた。
膝を抱えて、小さくなって。
鐘の外側に、たくさんの顔があった。
ぐるりと、わたしを取り囲んで。
みんな、硝子に額を押しつけるようにして、わたしを覗きこんでいた。
白い髭の、ずんぐりとした顔。
細い目の、若い顔。
銀縁の眼鏡の顔。
それから。
――藤色のドレス。
白い手袋。
胸元で光る、青黒い石の首飾り。
お母さまが、硝子の向こうから、わたしを見ていた。
うっとりと。
熱を帯びた目で。
――泣いてちょうだい、リシェル。
お母さまの唇が、そう動いた。
――今度は、金色のを。
硝子の向こうの顔が、いっせいに、身を乗り出した。
たくさんの目が。
わたしの目の奥を。
そこから、何かがこぼれてこないかと。
わたしは、両手で、顔を覆った。
泣いてはいけない。
泣いたら。
泣いたら、あの目に。
目が覚めると、まだ、夜だった。
寝台の天蓋が、暗がりの中に、ぼんやりと見えていた。
心臓が、どくどくと鳴っていた。
わたしは、胸元に手を当てた。
ボタンと、小さな袋。
袋の中の雫が、布越しに、温かかった。
――夢だ。
ただの、夢だ。
研究は、あの人が打ち切ってくれた。
博士は、頭を下げて、帰っていった。
もう、硝子の鐘はない。
分かっていた。
それなのに、手の震えが、止まらなかった。
◇ ◇ ◇
「――お身体のほうは、お変わりございませんな」
翌日の午前、エドガー先生が、穏やかに言った。
衝立の向こうから、セレナさんの話を聞いて、帳面に書きつけていた。
いつもの、診察だった。
十日に一度、エドガー先生が来て、わたしの身体を、触れずに確かめていく。
でも、今日は、もうひとり、いた。
部屋の隅に、レオンハルトさんが、立っていた。
「陛下のお言いつけで、ございます」
レオンハルトさんは、最初に、そう言った。
「研究のためではございません。あの雫が生まれてから、リシェル様の御身の魔力の流れに、何か障りが出ていないか。それを確かめるためだけに」
レオンハルトさんは、わたしから、ずっと離れたところに立っていた。
何の道具も、持っていなかった。
「お嫌でしたら、すぐに下がります」
わたしは、少しのあいだ迷って、小さく頷いた。
あの人が、そう言いつけたのなら。
それに、レオンハルトさんは、昨日、博士を止めようとしてくれた。
あの人に、命に代えましても、と言っていた。
「ありがとうございます」
レオンハルトさんは、深く頭を下げた。
それから、静かに、目を閉じた。
何かを、感じ取ろうとしているようだった。
部屋の中が、しんとした。
「……お身体の魔力は、落ち着いておられます」
しばらくして、レオンハルトさんが、目を開けた。
「むしろ、以前よりも、ずっと穏やかに流れております。地下からお出になったばかりの頃のことは存じ上げませんが、陛下からうかがっていたお話よりも、ずっと」
エドガー先生が、帳面から顔を上げて、小さく頷いた。
「それは、よろしゅうございました」
わたしも、少しだけ、ほっとした。
「ひとつだけ、お伺いしても、よろしいでしょうか」
レオンハルトさんが、言った。
声は、穏やかだった。
「お答えにならなくても、構いません」
「……はい」
「あの雫が生まれたとき」
レオンハルトさんは、言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。
「リシェル様は、どのようなお気持ちで、いらっしゃいましたか」
わたしは、息を止めた。
「地下で生まれた石と、あの雫とでは、何が違ったのか。もし、リシェル様ご自身が、何か、感じておられることがあれば」
わたしは、胸元の袋に、手を当てた。
――どのような、気持ちで。
あの夜のことを、思い出した。
燭台の灯り。膝をついて、頭を下げたあの人。
――でも、来てくれました。
重ねた手。ほどけていった拳。
痛いのに、温かかった。
苦しいのに、ひとりではなかった。
「……ひとりでは、なかったんです」
気がつくと、言っていた。
「地下で泣いたときは、いつも、ひとりでした。でも、あのときは」
そこまで言って、わたしは、顔を上げた。
レオンハルトさんの顔が、見えた。
――あ。
レオンハルトさんの、眼鏡の奥の目が。
光っていた。
ほんの、かすかに。
でも、確かに。
何かを、見つけた人の目だった。
知りたかったことの、端っこを、つかまえた人の目。
身を乗り出してはいなかった。
声も、穏やかなままだった。
それでも、その目の奥に、あの光があった。
昨日、博士の目の奥にあったのと、同じ光が。
お母さまが、ランプの光に石をかざしていたときの、あの。
わたしは、口をつぐんだ。
胸元の袋を、両手で握りしめた。
身体が、勝手に、縮こまっていた。
レオンハルトさんが、はっとしたように、まばたきをした。
それから、その目の光が、すうっと消えた。
レオンハルトさんの顔が、青ざめていった。
「……申し訳、ございません」
かすれた声だった。
「わたくしは、今」
レオンハルトさんは、自分の口元に、手を当てた。
「今、わたくしは、リシェル様を、見ていなかった」
わたしは、何も言えなかった。
「リシェル様のお言葉の、その先にあるものを。答えを。それだけを、見ておりました」
レオンハルトさんは、深く頭を下げた。
「昨日、陛下が博士におっしゃったことを、わたくしは、自分には関わりのないことだと思っておりました。わたくしは、値をつけるつもりなどない。ただ、知りたいだけだ、と」
頭を下げたまま、レオンハルトさんは言った。
「ですが、知りたいと思う目と、値をつけようとする目の違いは、見られる側には、分からないのですね」
わたしは、胸元の袋を握りしめたまま、動けなかった。
「本日は、これで、下がらせていただきます」
レオンハルトさんは、もう一度、深く頭を下げた。
「陛下には、わたくしから、ありのままをお伝えいたします」
扉が、静かに閉まった。
エドガー先生は、何も言わなかった。
ただ、帳面を閉じて、穏やかに言った。
「リシェル様。今日は、ゆっくりなさいませ」
それから、衝立の向こうのセレナさんに、小さく目配せをして、出ていった。
セレナさんが、衝立の向こうから出てきた。
わたしの前に、膝をついた。
何も、訊かなかった。
ただ、わたしの冷たくなった手の上に、自分の手を、そっと重ねた。
触れる前に、少しだけ、わたしの顔を見て。
わたしが、小さく頷くのを待って。
◇ ◇ ◇
レオンハルトさんは、悪い人ではない。
分かっていた。
博士も、きっと、悪い人ではない。
兵士の人たちを救いたい、と言っていた。病気の人を、と。
それは、本当なのだと思う。
お母さまとは、違う。
お母さまは、わたしのことなんて、どうでもよかった。
石だけが、ほしかった。
あの人たちは、違う。
悪意なんて、ない。
それなのに。
――知りたいと思う目と、値をつけようとする目の違いは、見られる側には、分からない。
レオンハルトさんの言ったとおりだった。
分からなかった。
あの目に見つめられると、身体が、勝手に、地下に戻ってしまう。
鉄の扉の向こうから、ランプの光が差しこんでくる。
その光の中で、わたしの目の奥を、覗きこまれる。
泣いたか。
石は落ちたか。
今度は、何色か。
――怖い。
痛いことをされるのが、怖いのではなかった。
鞭も、熱の出るスープも、ここにはない。
あの人が、誰にも、そんなことはさせない。
分かっている。
それでも、怖かった。
見られることが。
わたしではなく、わたしの涙を、見られることが。
わたしの気持ちを、どうすれば金色になるのかの手がかりとして、覗きこまれることが。
◇ ◇ ◇
午後、あの人が、いつものように「庭へ、行くか」と訊いた。
わたしは、頷いた。
石畳の小道を、あの人の三歩後ろを歩いた。
林檎の木の芝生で、二人で、花冠を編んだ。
くいっと、二度。
いつもと、同じだった。
あの人は、相変わらず、あちこちから茎が飛び出した花冠を作った。
最後の一本を巻きつけようとして、ぽきりと、茎を折った。
あの人の眉が、ほんのかすかに寄った。
折れた茎を、じっと見下ろしていた。
それから、ぼそりと言った。
「……また、折れた」
いつもなら、口元が、むずむずするところだった。
この前の鳩のときみたいに。
焼き菓子の日みたいに。
でも。
口元が、むずむずしかけた瞬間、目の奥が、ほんの少しだけ、熱くなった。
笑いすぎたときに、目の端がじんわりと熱くなる、あの感じ。
――だめ。
わたしは、とっさに、唇を噛んだ。
手の中の花冠を、ぎゅっと握りしめた。
茎が、手のひらに食いこんだ。
――泣いたら。
もしも、今、笑って、目の端から、何かがこぼれたら。
それが、また、金色になったら。
あの人の目の前で。
それは、いい。
あの人なら、いい。
でも、そのあとで。
その雫を、レオンハルトさんが、知ったら。
博士が、知ったら。
また、硝子の鐘の中に。
また、あの目に。
わたしは、俯いた。
笑いが、喉の奥で、冷たく固まっていった。
「……リシェル」
あの人の声がした。
わたしは、顔を上げられなかった。
「花冠が、潰れる」
わたしは、自分の手を見下ろした。
作りかけの花冠が、手の中で、ひしゃげていた。
くいっと二度押しこんだところが、ほどけかけていた。
「……ごめんなさい」
わたしは、慌てて、手の力を抜いた。
あの人は、何も言わなかった。
ただ、わたしの顔を、じっと見ていた。
何かを、確かめるように。
わたしは、その目を見られなかった。
あの人の目は、違う。
分かっている。
あの人の目は、わたしを見ている。
わたしの涙ではなく、わたしを。
それなのに。
今は、誰の目も、見るのが怖かった。
◇ ◇ ◇
その夜、わたしは、窓辺の皿の前にしゃがみこんでいた。
花冠が、いくつも並んでいた。
今日の花冠は、ひしゃげたまま、皿の端に載っていた。
わたしは、胸元の袋を、両手で包んだ。
――あの夜。
わたしは、生まれて初めて、自分で泣けた。
泣かされたのではなく。
泣けと言われたのでもなく。
あの人の前で。
ひとりではなく。
それが、うれしかった。
自分の涙を、きれいだと思えたのが、うれしかった。
でも。
今日、わたしは、笑うのを、やめた。
笑ったら、涙がこぼれるかもしれないから。
こぼれたら、また、見られるかもしれないから。
――これでは、地下と、同じだ。
泣かないように。
感じないように。
顔に出さないように。
また、そうやって、自分の中の何かを、押しこめている。
ここには、鉄の扉も、鎖もないのに。
あの人が、毎日、扉を叩いて、入っていいかと訊いてくれるのに。
わたしは、胸元の袋を、握りしめた。
――いやだ。
ふいに、そう思った。
また、笑えなくなるのは、いやだ。
やっと、笑えたのに。
やっと、泣けたのに。
あの目が怖くて、また、自分の中に閉じこもるのは。
わたしは、窓の外を見た。
皇帝の執務室のある、本殿のほうを。
その窓に、まだ、灯りがともっていた。
――お願い、しよう。
あの人に。
わたしの涙のことを。
誰にも。
誰にも、知られないように。
あの人なら、きっと、聞いてくれる。
わたしが、自分で決めたことなら。




