↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
74/77

第74話 お願いだから隠して

「……セレナさん」

 控えの間の扉を、わたしは、そっと叩いた。

 夜更けだった。

 扉はすぐに開いて、寝間着の上に肩掛けを羽織ったセレナさんが、顔をのぞかせた。

「リシェル様。いかがなさいました」

「陛下の、執務室へ」

 わたしは、胸元の袋を握りしめて、言った。

「行っても、いいですか」

 セレナさんは、ほんの一瞬だけ、目を見開いた。

 この宮殿に来てから、わたしは、自分から東の客殿の外へ出たことがなかった。

 庭へも、廊下の突き当たりの窓へも、図書館へも、いつも、誰かに連れていってもらった。

 あの人のところへ、自分から行きたいと言ったのは、初めてだった。

「……お部屋では、なく」

「はい。今、お話ししたいことがあって」

 わたしは、言った。

「明日の昼まで待ったら、また、言えなくなってしまう気がして」

 セレナさんは、少しのあいだ、わたしの顔を見ていた。

 それから、静かに頷いた。

「お供いたします」


 夜の回廊は、長かった。

 セレナさんの持つ小さな手燭の灯りが、石の床の上で、ゆらゆらと揺れていた。

 ところどころに立っている近衛の騎士の人たちが、わたしたちを見て、驚いたように目を見開いた。

 それから、黙って、道を開けてくれた。

 わたしは、セレナさんの半歩後ろを、歩いた。

 膝が、少しだけ震えていた。

 夜の回廊が怖いのではなかった。

 これから言おうとしていることが、怖かった。

 ――隠して、ください。

 それは、あの人に、何かを頼むということだった。

 ほしいものを、ほしいと言うこと。

 前に、庭へ行きたいと言ったときよりも、ずっと大きなことを。

 本殿の、奥まった廊下の突き当たりに、大きな扉があった。

 扉の前に、騎士団長のガレスさんが立っていた。

 ガレスさんは、わたしを見て、天を仰ぎかけて、やめた。

 代わりに、深く一礼した。

 それから、扉を、低く、短く叩いた。

「陛下。リシェル嬢が、お見えです」

 扉の向こうで、何かが倒れる音がした。

 椅子だったと思う。

 扉が、内側から、勢いよく開いた。

 あの人が、立っていた。

 シャツの袖をまくり上げて、髪が少しだけ乱れていた。

 机の上に、書類が山のように積まれているのが、肩越しに見えた。

「……リシェル」

 あの人の声が、かすかに上ずっていた。

「何があった。夢か。誰かが、何か」

「いいえ」

 わたしは、首を振った。

「何も、ありません。ただ、お話ししたいことがあって」

 あの人は、しばらく、わたしを見ていた。

 黒い瞳が、わたしの顔を、上から下まで、確かめるように動いた。

 それから、ゆっくりと、息を吐いた。

「……入れ」

 それから、少しだけ間を置いて、言い直した。

「入って、くれるか」


 皇帝の執務室は、思っていたよりも、ずっと質素だった。

 大きな机と、壁いっぱいの書棚。地図の広げられた卓。暖炉。

 飾りらしい飾りは、ほとんどなかった。

 ただ、窓辺に、小さな陶器の皿がひとつ置いてあった。

 水を張って。

 その上に、しおれた、白い花冠が、ひとつ。

 あちこちから茎が飛び出して、花の向きもばらばらな。

 ――あの人の、花冠。

 いつか、林檎の木の下で、二人で編んだ日。あの人が、自分のぶんを持って帰った、あの花冠だった。

 わたしの窓辺の皿と、同じように。

 しおれないように、と。

 わたしは、あの人を見た。

 あの人は、窓辺のほうを見ないようにしていた。

「……捨てられなかった」

 あの人が、ぼそりと言った。

 わたしは、何も言えなかった。

 口元が、むずむずした。

 でも、今日は、笑うのを、こらえなかった。

 ほんの少しだけ、息が漏れた。

 あの人の耳が、ほんの少しだけ、赤くなったような気がした。


 セレナさんは、扉のそばに控えた。

 あの人は、暖炉のそばの椅子を、わたしに勧めた。

 木の椅子だった。

 柔らかすぎない、硬い座面の。

「……ここは、俺の椅子だ」

 あの人は、言った。

「ほかの椅子は、みんな、柔らかすぎる」

 わたしは、その椅子に、そっと座った。

 あの人は、三歩離れた、机の端に、腰をもたせかけた。

「話してくれ」

 わたしは、膝の上で、両手を握りしめた。

 胸元の袋が、布越しに、温かかった。

「……今日、レオンハルトさんが、来ました」

「聞いた」

 あの人は、短く言った。

「本人が、さっき、ここへ来た。全部、話していった。自分が、どんな目でお前を見たか」

 あの人は、少しだけ、目を伏せた。

「あいつを、お前のところへ行かせたのは、俺だ」

「……レオンハルトさんは、悪くないんです」

 わたしは、首を振った。

「レオンハルトさんは、すぐに、自分で気づいてくれました。謝ってくれました。博士も、悪い人じゃないって、分かってます」

 声が、少し震えた。

「でも、怖かったんです」

 あの人は、黙っていた。

「悪い人じゃないって、分かっているのに。あの目で見られると、身体が、地下に戻ってしまうんです」

 わたしは、息を吸った。

「今日、庭で、わたし、笑うのを、やめました」

 あの人の肩が、ぴくりと動いた。

「花冠の茎が、また折れたとき。笑いそうになって、目の端が熱くなって。笑ったら、涙が出るかもしれない。出たら、また金色になるかもしれない。そうしたら、また、誰かに知られるかもしれない。また、硝子の鐘の中で、たくさんの目に、見られるかもしれない」

 声が、かすれた。

「そう思ったら、笑えなくなりました」

「……」

「それで、気づいたんです。これじゃ、地下と同じだって」

 わたしは、あの人を見た。

「泣かないように。感じないように。顔に出さないように。また、そうやって、自分の中に、閉じこもろうとしてるって」

 あの人の手が、机の端を、ぎゅっと握りしめていた。

「やっと、笑えたのに。やっと、泣けたのに」

 わたしは、胸元の袋を、両手で包んだ。

「それが、いやなんです」


 わたしは、立ち上がった。

 膝が、震えていた。

 それでも、立って、言いたかった。

「だから、お願いです」

 声が、震えた。

「わたしの涙のこと。金色の雫のこと。誰にも、知らせないでください」

 あの人の目が、見開かれた。

「研究も、記録も、いりません。知っている人を、これ以上、増やさないでください。わたしが笑っても、泣いても、誰も、それを覗きこまないように」

 わたしは、ぎゅっと目を閉じた。

「お願いだから、隠して、ください」

 言ってしまった。

 わたしは、目を開けられなかった。

 ――わがまま、なのかもしれない。

 博士は、何万の兵士が救われるかもしれないと言っていた。病気の人が、と。

 わたしの涙を隠せば、その人たちは、救われないのかもしれない。

 それでも。

 わたしは、もう、硝子の鐘の中には、戻りたくなかった。


「分かった」

 あの人の声がした。

 すぐだった。

 迷う間も、考える間も、なかった。

 わたしは、目を開けた。

 あの人は、机の端から身を起こして、まっすぐにわたしを見ていた。

「今夜のうちに、《黒冠指定》にする」

「……こっかん、してい」

「帝国でいちばん重い、秘密の印だ」

 あの人は、言った。

「帝国の始まりから数えて、まだ、七つしか例がない。国を滅ぼしかねない秘密にだけ、皇帝が自分の手で押す印だ。黒冠の印を押されたものについて、許しなく口にした者は、身分を問わず、大逆として裁かれる。書き残すことも、写すことも、許されない」

 あの人は、机の上の、封蝋の箱を開けた。

 中から、黒い蝋の棒と、小さな印章を取り出した。

 帝冠の形をした、黒い鉄の印章だった。

「お前の涙に関わる、すべてを、それにする。青い石のことも、金色の雫のことも。お前の名前と、その力が、結びつくことも」

「……すべて」

「知っている者は、俺と、クラウスと、ガレスと、セレナと、エドガーと、レオンハルト。それから、ヘルツと、その助手。八人だ」

 あの人は、指を折った。

「この八人より、一人も増やさない。八人には、明日の朝、俺の前で、もう一度誓わせる」

 あの人は、わたしを見た。

「研究は、二度とさせない。レオンハルトに頼んだ見守りも、お前が嫌なら、やめさせる」

「……レオンハルトさんは」

 わたしは、少しだけ迷ってから、言った。

「レオンハルトさんは、いて、ください」

 あの人が、眉を寄せた。

「いいのか」

「レオンハルトさんは、自分の目に、気づいてくれた人だから」

 わたしは、言った。

「気づいてくれる人なら、きっと、大丈夫です」

 あの人は、しばらく、わたしを見ていた。

 それから、静かに頷いた。

「分かった」


「それから」

 あの人は、わたしの胸元の、小さな袋を見た。

 少しだけ、言いにくそうに、言葉を切った。

「その雫のことだ」

 わたしは、袋を、両手で包んだ。

「肌身離さず持っていれば、いつか、誰かが気づく。温かさに。光に。あるいは、お前が、それを守ろうとして、怯える顔に」

 あの人の声は、静かだった。

「皇宮のいちばん奥に、宝物庫がある。代々の皇帝の、本当の宝だけを納める部屋だ。俺と、ほんのわずかな者しか、場所を知らない」

「……」

「そこに、封じることもできる。お前が、そうしたいなら」

 あの人は、言った。

「したくなければ、しなくていい。お前のものだ」

 わたしは、袋を見下ろした。

 布越しに、とくん、と温かく脈打った。

 ――わたしが、生まれて初めて、自分で流した涙。

 手放したく、なかった。

 でも。

 この温かさを、誰かに気づかれたら。

 この光を、誰かに見られたら。

 また、あの目が。

 わたしは、長いあいだ、黙っていた。

 あの人も、黙って待っていた。

「……ひとつだけ、お願いしても、いいですか」

「ああ」

「その宝物庫の鍵」

 わたしは、言った。

「わたしにも、ひとつ、ください」

 あの人の目が、見開かれた。

「わたしが、会いたくなったら、会いに行けるように」

 声が、少しだけ、震えた。

「閉じこめるんじゃなくて。わたしが、自分で、しまっておく場所に、したいんです」

 ――閉じこめられるのは、もう、いやだから。

 わたしの涙さえも。

 あの人は、しばらく、何も言わなかった。

 それから、ゆっくりと、机の引き出しの鍵を開けた。

 中から、小さな、古い銀の鍵を取り出した。

 鍵の頭に、翼を広げた鷹と、小さな冠が刻まれていた。

 ――あ。

 わたしの胸元のボタンと、同じ模様。

「宝物庫の、二つある鍵のうちの、ひとつだ」

 あの人は、言った。

「もうひとつは、皇帝の鍵だ。これは、皇太子の鍵だった」

 あの人は、その鍵を、手のひらに載せて、わたしのほうへ差し出した。

 三歩の距離のまま。

 わたしが、取りに来るのを、待っていた。

「十二の年の立太子の儀で、父上から授かった。帝都を逃れた夜も、首に下げていた。それきり、一度も使ったことはない」

「……そんな、大切なもの」

「だから、お前に渡す」

 あの人は、静かに言った。

「二つの鍵が揃わなければ、あの扉は開かない。俺ひとりでも、開けられない。お前が許さなければ、俺も、その雫には会えない」

 わたしは、あの人の顔を見た。

 それから、ゆっくりと、三歩を歩いた。

 あの人の手のひらから、銀の鍵を、そっと取った。

 冷たかった。

 でも、握っているうちに、少しずつ、わたしの手の温かさが、移っていった。


   ◇ ◇ ◇


 その夜のうちに、皇帝は、帝国の歴史で八つ目となる《黒冠指定》の印を押した。

 黒い封蝋の上に、帝冠の印章が、深く押しこまれた。

 立ち会ったのは、急ぎ呼ばれた宰相クラウスだけだった。

 クラウスは、その文書の中身を、最後まで読ませてもらえなかった。

 ただ、表書きの一行だけを、見せられた。

 ――東の客殿の客人、リシェル・ヴァレンティア嬢に関わる一切。

 クラウスは、何も訊かなかった。

 ただ、震える手で、副署の名を記した。


 夜明け前、皇宮の最深部の、誰も知らない階段を、三人が下りていった。

 皇帝と、少女と、侍女長。

 重い鉄の扉の前で、少女は、胸元から、小さな布の袋を外した。

 中の金色の雫を、手のひらに出した。

 しばらく、黙って、それを見つめていた。

「……また、来るね」

 小さな声で、そう言った。

 それから、宝物庫のいちばん奥の、白い天鵞絨を張った小箱に、そっと雫を納めた。

 箱の蓋を閉める前に、もう一度だけ、見つめた。

 金色の光が、暗い宝物庫の中で、ほんのりと揺れていた。

 少女は、蓋を閉めた。

 二つの鍵が、扉の二つの鍵穴に差しこまれた。

 皇帝の鍵と、皇太子の鍵。

 同時に、回された。

 重い音を立てて、扉が閉まった。

 少女は、自分の鍵を、胸元のリボンに通した。

 黒くくすんだ、縁の欠けた、銀のボタンの隣に。

 翼を広げた鷹と、小さな冠が、ふたつ、並んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。