第75話 漏洩
帝都の南、川沿いの下町に、《銀の錨亭》という酒場がある。
異国の商人や船乗りが集まる店で、夜ごと、帝国語と、北の言葉と、南の言葉が入り混じって飛び交っていた。
その夜、店のいちばん奥の卓で、ひとりの若い男が、酒杯を握りしめて、うなだれていた。
細い目の、まだ二十を少し過ぎたくらいの男だった。
帝国魔術院の徽章を、外套の襟に、裏返しにして留めていた。
「……兄さん、ずいぶん飲むねえ」
向かいの席に、ひとりの商人が腰を下ろした。
南の港町から、香辛料と絹を運んでくる男だった。人当たりがよく、話を聞くのがうまかった。
若い男は、顔を上げなかった。
「研究を、取り上げられたんです」
ぼそりと、呟いた。
「生涯で、一度しか出会えないような研究だったのに。先生も、わたしも、何日も眠らずに。それなのに、ひとこと、言い方を間違えただけで」
「そりゃあ、ひどい話だ」
商人は、若い男の杯に、酒を注ぎ足した。
「どんな研究だったんだい」
「言えません」
若い男は、首を振った。
「言ったら、首が飛ぶ」
それから、乾いた笑い声を漏らした。
「でも、言えないのが、悔しいんですよ。あんなものが、この世にあるのに。誰にも話せないなんて」
若い男は、杯をあおった。
「……おとぎ話って、本当にあるんですね」
「おとぎ話?」
「女神の涙ですよ。死にかけた人の子のために、女神が流した、金色の涙。触れた者の傷を、生まれる前の姿に戻す。死者さえ、ひと晩だけ蘇らせる」
若い男の目が、ぼんやりと宙を見ていた。
「禁書庫の古い目録に、そう書いてあった。宮廷魔術師どのが、三晩眠らずに探し当てたんです」
「へえ」
「それと、同じものが」
若い男は、そこで、口をつぐんだ。
商人は、何も言わなかった。
ただ、静かに、もう一杯、酒を注いだ。
若い男は、しばらく黙っていた。
それから、ほとんど聞こえないくらいの声で、呟いた。
「……皇帝陛下の、古傷が、消えたんです。十年前の矢傷が。跡形もなく」
商人の手が、ほんの一瞬だけ、止まった。
「それから、東の客殿のお嬢さまが」
若い男は、そこで、はっとしたように顔を上げた。
酔いが、さっと引いたような顔だった。
「……今のは、忘れてください」
若い男は、杯を置いて、ふらふらと立ち上がった。
「忘れて、ください。何も、言ってない。わたしは、何も」
若い男は、銀貨を卓に放り出して、店を出ていった。
商人は、その背中を、黙って見送った。
それから、ゆっくりと、自分の杯を口に運んだ。
――東の客殿のお嬢さま。
帝都の誰もが知っている噂だった。
血も涙もない皇帝が、東部の侯爵家の地下から連れ出して、溺愛しているという娘。
その娘に涙を求めた者は大逆とする、という、奇妙な勅令。
皇帝の、消えた古傷。
女神の、金色の涙。
商人は、酒杯の縁を、指先でゆっくりとなぞった。
◇ ◇ ◇
噂は、川を下った。
南の港町から、船に乗って、海を渡った。
北の街道を、隊商の荷車に揺られて、国境を越えた。
帝都の外交官たちが、晩餐の席で、声をひそめて囁きあった。
異国の使節たちが、本国へ送る書簡の隅に、短く書き添えた。
噂は、流れるたびに、形を変えた。
――帝国の皇宮に、金色の涙を流す娘がいるらしい。
――その涙は、どんな傷も癒やすそうだ。
――皇帝の、戦場で受けた傷がすべて消えたとか。
――いや、死人を蘇らせたと聞いたぞ。
――死人を蘇らせる、黄金の涙。
――皇帝は、その娘を、宮殿の奥深くに閉じこめているそうだ。
――涙を流させるために。
ひと月が経つころには、帝都の下町の子どもたちまで、その噂を知っていた。
《黄金涙の娘》。
誰も、その娘の名前を知らなかった。
顔も、声も、知らなかった。
ただ、その娘の涙の色だけが、ひとり歩きしていった。
◇ ◇ ◇
「――陛下に、ひとつ、お伺いしたき儀がございます」
玉座の間に、北の隣国ルーヴェンの大使の声が響いた。
白髪まじりの、恰幅のいい男だった。
定例の謁見だった。国境の砦のこと、交易の関税のこと、春の祭典への招待のこと。
それらを型どおりに済ませたあとで、大使は、ふと、思い出したように言った。
「近ごろ、わが国の宮廷でも、たいそう奇妙な噂が流れておりましてな」
玉座の傍らで、宰相クラウスの指が、ぴくりと動いた。
「帝国の皇宮には、《黄金涙の聖女》とでも申しましょうか、触れた者の傷を癒やし、死者さえ蘇らせる涙を流す姫君がおられる、と」
大使は、穏やかに微笑んでいた。
だが、その目は、少しも笑っていなかった。
「無論、根も葉もない噂でございましょう。ですが、わが国の王も、王妃も、たいそう気にかけておられましてな。ことの真偽を、陛下の御口から、うかがってまいれと」
玉座の間が、しんと静まり返った。
居並ぶ廷臣たちが、息を殺していた。
皇帝は、玉座の上で、身じろぎもしなかった。
何の表情も、浮かべていなかった。
「根も葉もない噂だ」
低い声だった。
平らで、少しも揺れていなかった。
「大使どのの王に、そう伝えよ」
「……さようでございますか」
大使は、深く一礼した。
「では、そのように、お伝えいたしましょう」
顔を上げたとき、大使の目の奥に、何かが、ちらりと光った。
クラウスは、その光を、見逃さなかった。
――信じていない。
いや。
皇帝が否定したことで、かえって、確かめたのだ。
何かが、ある、と。
◇ ◇ ◇
「……どこから漏れた」
その夜、皇帝の執務室で、アルフレッドは言った。
声は、低かった。
机の前に、クラウスと、ガレスと、レオンハルトが立っていた。
「調べはついております」
ガレスが、言った。
「ヘルツ博士の助手、テオ・ブラント。研究が打ち切られた三日後の夜、下町の《銀の錨亭》で、酒に酔って、南の商人に話しておりました」
「何を」
「女神の涙の伝承。陛下の古傷が消えたこと。それから、東の客殿の、お嬢さまのことを」
ガレスは、目を伏せた。
「名前は、口にしておりません。ですが、それで、十分でした」
アルフレッドは、黙っていた。
机の上で、拳が、ゆっくりと握りしめられていった。
「本人は、もう捕らえてあります。泣きながら、すべてを話しました。悪気はなかった、と」
「悪気がなかった」
アルフレッドの声は、変わらなかった。
「黒冠の印を押した翌朝、あいつは、俺の前で、誓ったはずだ」
「……は」
「その誓いの、翌日に」
アルフレッドは、目を閉じた。
「ヘルツは、どうしている」
「博士は」
レオンハルトが、口を開いた。
声が、かすれていた。
「博士は、今朝、魔術院の職を辞されました。助手の監督を怠った責めは、すべて自分にある、と。それから、陛下に、お伝えしてほしいと」
「何を」
「リシェル嬢に、二度、詫びることになってしまった、と」
レオンハルトは、深く頭を下げた。
「わたくしも、同罪でございます。禁書庫の目録を、院長の印を借りて持ち出しました。テオは、それを見ておりました。わたくしが、女神の涙の頁を開いたまま、三晩眠らずにいたのを」
「お前の落ち度ではない」
アルフレッドは、短く言った。
「お前に調べさせたのは、俺だ」
それから、ゆっくりと、目を開けた。
「噂は、どこまで広がっている」
「北のルーヴェン、南の諸港、西の諸侯領」
クラウスが、静かに言った。
「ひと月のうちに、大陸の主だった国の宮廷には、届いたものと思われます。それも、ずいぶんと、形を変えて」
「どう変わった」
クラウスは、少しだけ、ためらった。
「……死人を蘇らせる、黄金の涙」
執務室の中が、しんと静まり返った。
「傷を癒やす、では、もう、ございません。陛下の古傷が消えた話は、陛下が戦場で死にかけて、その涙で蘇った話に、変わっております」
クラウスは、言った。
「それから、陛下が、その娘を、涙を流させるために、宮殿の奥深くに閉じこめておられる、と」
アルフレッドは、何も言わなかった。
長いあいだ、何も言わなかった。
机の上の、黒い封蝋の押された文書を、見つめていた。
――お願いだから、隠して、ください。
あの夜、あの子は、そう言った。
膝を震わせて、立ち上がって。
生まれて初めて、自分から、何かを頼んだ。
自分は、分かった、と言った。
即座に。
迷う間も、なく。
それなのに。
「……隠すと、約束した」
アルフレッドは、低い声で言った。
「その約束を、俺は、ひと月も守れなかった」
「陛下」
クラウスが、言った。
「陛下の落ち度では」
「誰の落ち度かは、関係ない」
アルフレッドは、立ち上がった。
「あれにとっては、隠してほしいと頼んだことが、隠されなかった。それだけだ」
アルフレッドは、窓辺へ歩いた。
窓辺の皿の上で、しおれた花冠が、夜風に、かすかに揺れていた。
東の客殿のほうを、見た。
小さな灯りが、ともっていた。
「テオ・ブラントの処遇は、明日決める」
アルフレッドは、言った。
「ガレス。東の客殿の警護を、今夜から倍にしろ。誰が、どこから、何を探りに来るか分からない」
「は」
「クラウス。各国の大使に、正式に否定の書簡を送れ。それと、帝都の噂を、これ以上広げるな。広げた者は、勅令第一七号に照らして裁くと、触れを出せ」
「……かしこまりました」
「レオンハルト」
「は」
「お前は、明日から、あれのそばにいろ。魔術で何かを仕掛けてくる者がいれば、真っ先に気づけるのは、お前だけだ」
レオンハルトは、深く頭を下げた。
「命に代えましても」
アルフレッドは、三人に背を向けたまま、言った。
「……今から、あれのところへ行く」
クラウスが、顔を上げた。
「陛下。夜更けでございます。明日の昼に」
「明日の昼まで待ったら、言えなくなる」
アルフレッドは、低い声で言った。
「あれが、ひと月前の夜に、そう言っていた」
◇ ◇ ◇
夜更けに、扉を叩く音がした。
低くて、重たくて、短い叩き方。
わたしは、寝台の上で、身体を起こした。
――こんな時間に。
「……入っていいか」
あの人の声だった。
いつもと、少しだけ、違った。
低くて、かすれていた。
「……はい」
わたしは、肩掛けを羽織って、寝台から下りた。
扉が開いて、あの人が入ってきた。
銀の盆は、持っていなかった。
燭台の灯りの中で、あの人の顔が、ひどく固かった。
あの人は、部屋の真ん中で、立ち止まった。
絨毯の上に、座らなかった。
三歩離れたところに、立ったまま、わたしを見た。
「リシェル」
「……はい」
「お前に、言わなければならないことがある」
あの人は、まっすぐに、わたしを見ていた。
目を、逸らさなかった。
――怖いことを、怖いまま、話してくれる人。
あの人の顔を見て、わたしは、分かった。
何か、よくないことが、起きたのだ。
わたしは、胸元のリボンを、握りしめた。
ボタンと、銀の鍵。
ふたつの、鷹と冠。
「隠すと、約束した」
あの人は、言った。
「守れなかった」
わたしの身体が、凍りついた。
「お前の涙のことが、宮殿の外へ漏れた。帝都じゅうに。それから、帝国の外にまで」
あの人の声は、平らだった。
でも、その手が、身体の横で、白くなるほど握りしめられていた。
「すまない」
部屋の中が、しんと静まり返った。
わたしは、何も言えなかった。
――漏れた。
帝都じゅうに。
帝国の外にまで。
硝子の鐘が、頭の中に、浮かんだ。
その外側に、たくさんの顔が並んでいた。
この前よりも、ずっと、ずっと、たくさんの顔が。
数えきれないほどの、知らない目が。
わたしの目の奥を、覗きこもうとしていた。
膝が、がくがくと震えた。
わたしは、寝台の柱に、手をついた。
「……リシェル」
あの人が、一歩、踏み出しかけた。
それから、止まった。
三歩の距離のまま。
「全部、話す」
あの人は、言った。
「誰が、どうやって漏らしたのか。噂が、どう形を変えたのか。俺が、これから、何をするのか」
あの人の声が、かすかに、揺れた。
「隠さずに、全部」
わたしは、寝台の柱を握りしめたまま、あの人を見た。
燭台の灯りの中で、あの人の黒い瞳が、まっすぐに、わたしを見ていた。
――怖いことを、怖いまま。
わたしは、震える唇を、開いた。
「……聞きます」
声が、かすれた。
「全部、聞かせてください」




