第76話 病める王子
3あの夜、あの人は、本当に全部を話してくれた。
ヘルツ博士の助手の人が、下町の酒場で、酔ってこぼしてしまったこと。
噂が、川を下って、海を渡って、国境を越えていったこと。
ひと月のうちに、噂が、形を変えていったこと。
――死人を蘇らせる、黄金の涙。
――皇帝は、その娘を、涙を流させるために、閉じこめている。
それを聞いたとき、わたしは、寝台の柱を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
閉じこめられている。
涙を、流させるために。
それは、わたしの十年だった。
お屋敷の地下で、本当に、そうだった。
それなのに、今、わたしを地下から出してくれた人が、そう言われている。
「……ちがう」
わたしは、首を振った。
「ちがいます。あなたは」
「分かっている」
あの人は、静かに言った。
「お前が分かっていれば、それでいい」
それから、あの人は、これから何をするのかを、話した。
東の客殿の警護を、倍にしたこと。
各国に、噂を否定する書簡を送ったこと。
レオンハルトさんが、わたしのそばにいてくれること。
そして、最後に、言った。
「これからも、何かあれば、全部話す。お前に関わることは、ひとつも隠さない」
あの人は、まっすぐに、わたしを見た。
「隠すと約束したことは、守れなかった。だから、せめて、お前には、何も隠さない」
◇ ◇ ◇
それから、十日が経った。
東の客殿の廊下には、前よりもずっと多くの騎士の人たちが立つようになった。
庭へ行くときも、薔薇の茂みの向こうに、いつも誰かがいた。
レオンハルトさんは、毎日、少し離れたところから、わたしを見守ってくれた。
いつも、窓の外か、扉のほうを見ていた。
わたしのほうは、あまり見なかった。
見ないようにしてくれているのだと、分かった。
あの人は、毎日、昼に扉を叩いた。
入っていいか、と訊いた。
何も、変わらなかった。
変わらないように、してくれていた。
それでも、わたしは、ときどき、窓の外を見るのが怖くなった。
あの塀の向こうに。
帝都の向こうに。
海の向こうに。
わたしの知らない、たくさんの目が、こちらを向いている気がして。
十一日目の昼、扉を叩く音がした。
「入っていいか」
「……はい」
あの人が入ってきた。
銀の盆を、持っていた。
いつものように、卓の上に置いて、曲がった匙でひと口ずつ確かめた。
それから、部屋の真ん中の絨毯の上に、腰を下ろさなかった。
卓のそばに、立ったままだった。
わたしは、スープの匙を持ったまま、手を止めた。
「……何か、あったんですか」
あの人は、少しのあいだ、黙っていた。
それから、上着の内側から、一通の書状を取り出した。
厚い、上質な紙だった。
金の縁取りがあって、赤い封蝋が押してあった。
封蝋は、もう、切られていた。
「今朝、北のルーヴェン王国から、正式な使節が来た」
あの人は、言った。
「国王の、親書を持って」
わたしは、匙を置いた。
「……ルーヴェン」
「十日前に、噂の真偽を訊いてきた国だ」
あの人の声は、平らだった。
「あのとき、大使は、王も王妃も、たいそう気にかけておられる、と言った。理由は、言わなかった」
あの人は、書状を見下ろした。
「理由が、これに書いてあった」
わたしは、あの人の顔を見た。
あの人は、ほんの少しだけ、目を伏せた。
「ルーヴェンの王には、王子がひとりいる。五つになる」
――五つ。
「その王子が、死病に罹っている」
部屋の中が、しんと静まり返った。
わたしは、膝の上で、手を握りしめた。
「……死病」
「ルーヴェンの医師たちも、魔術師たちも、手を尽くしたそうだ。それでも、治らない。身体の内側から、少しずつ、命の力が枯れていく病だと書いてある」
あの人は、静かに言った。
「医師たちの見立てでは、次の春まで、もたない」
――次の春。
わたしは、窓の外を見た。
林檎の木の花は、もうとっくに散って、枝には、青い小さな実がつきはじめていた。
次の春まで。
あと、一年も、ない。
「親書には、こうある」
あの人は、書状の一行を、指でなぞった。
「――貴国の皇宮におられる、黄金の涙の御方に、わが子の命を、お救いいただきたく。いかなる代償をも、惜しまぬ」
あの人の声は、変わらなかった。
淡々と、書かれた文字を、そのまま読み上げていた。
「国境の三つの砦を、帝国に譲る。関税を、十年間、免じる。それから」
あの人は、そこで、言葉を切った。
「それから、何ですか」
あの人は、少しだけ、ためらった。
「……ルーヴェンの王女を、帝国の皇帝の妃に」
わたしは、まばたきをした。
あの人は、すぐに続けた。
「全部、断るつもりだ」
あの人の声は、静かだった。
でも、少しも揺れていなかった。
「お前に話したのは、何も隠さないと約束したからだ。お前に、決めさせるためではない」
わたしは、何も言えなかった。
――断るつもりだ。
あの人は、そう言った。
でも、わたしの耳には、その少し前の言葉が、まだ残っていた。
――五つになる。
――次の春まで、もたない。
「……その書状」
声が、かすれた。
「見ても、いいですか」
あの人は、しばらく、わたしを見ていた。
それから、黙って、書状を卓の上に置いた。
わたしは、それを、手に取った。
厚い紙だった。
国王の親書は、難しい言葉ばかりで、半分も読めなかった。
でも、親書の下に、もう一枚、薄い紙が挟まっていた。
小さな、細い、震えるような字で、書かれていた。
国王の字とは、違った。
――ルーヴェン王妃、マルグリット。
最後に、そう署名されていた。
わたしは、その一枚を、指でたどりながら、ゆっくりと読んだ。
――見知らぬ御方へ。
――このような手紙を差し上げる無礼を、どうかお許しください。
――わたくしの息子は、エミールと申します。五つになります。
――林檎が好きな子です。秋になると、庭の林檎の木の下で、落ちた実を拾って、わたくしのところへ持ってくるのが好きでした。
――今は、もう、起き上がることもできません。
――昨日、エミールは、わたくしに、来年の秋も林檎を拾えるかと訊きました。
――わたくしは、拾えるわ、と答えました。
――嘘をつきました。
――どうか、お助けください。
――わたくしにできることなら、何でもいたします。わたくしの命と引き換えでも、構いません。
――どうか。
わたしは、紙を持ったまま、動けなかった。
――林檎が、好きな子。
――来年の秋も、林檎を拾えるかと。
胸の奥が、ぎゅうっと痛んだ。
会ったこともない子だった。
顔も、声も、知らない子だった。
それなのに。
林檎の木の下で、落ちた実を拾っている、小さな男の子の姿が、目の奥に浮かんだ。
それから、起き上がれなくなって、寝台の上で、窓の外の林檎の木を見ている姿が。
――わたしが、泣けば。
ふいに、その言葉が、浮かんだ。
わたしが、泣けば。
金色の雫が生まれれば。
あの子は、助かるのかもしれない。
あの人の、十年の傷を消したように。
――でも。
わたしは、紙を握りしめた。
――泣けと、言われて、泣くの。
それは、お母さまが、わたしにさせたことだった。
泣きなさい、リシェル。
今度は、金色のを。
夢の中の、お母さまの声。
わたしは、首を振った。
そもそも、泣けるかどうかも、分からなかった。
あの金色の雫が、どうして生まれたのか。
自分でも、分からないのだ。
泣こうとして、泣けるものでもない。
泣いたとしても、金色になるとは、限らない。
青黒い石になるかもしれない。
――それなら。
わたしは、胸元のリボンに、手を当てた。
ボタンと、銀の鍵。
――宝物庫の、あの雫。
あれなら、もう、ある。
わたしが、生まれて初めて、自分で流した涙。
あれを、あの子に、渡せば。
わたしは、鍵を、握りしめた。
冷たかった。
――また、来るね。
夜明け前の宝物庫で、わたしは、あの雫に、そう言った。
自分で、しまっておく場所に、したいと。
閉じこめるのでは、なく。
あれは、わたしのものだった。
生まれて初めて、誰にも奪われずに、わたしの手の中に残った、わたしの涙だった。
それを、手放したら。
――でも。
手放さなかったら。
あの子は、死ぬ。
次の春までに。
林檎を、もう一度拾うこともできずに。
わたしが、鍵を握りしめたまま、何もしなければ。
わたしは、紙を、卓の上に置いた。
手が、震えていた。
――断れば、この子は、死ぬ。
その言葉が、胸の奥に、冷たく沈んでいった。
わたしが、断れば。
わたしの、せいで。
「リシェル」
あの人の声がした。
わたしは、顔を上げられなかった。
「それは、お前が背負うものではない」
あの人は、言った。
「断るのは、俺だ。お前ではない」
「……でも」
声が、震えた。
「でも、わたしが、泣けば。宝物庫の、あの雫を、渡せば」
わたしは、鍵を握りしめた。
「この子は、助かるかもしれないんですよね」
あの人は、黙っていた。
「わたしが、何もしなかったら。この子は、死ぬんですよね」
あの人は、まだ、黙っていた。
「わたしが、鍵を持っているのに。助けられるかもしれないのに。わたしが、渡したくないから。わたしが、怖いから」
声が、だんだん小さくなっていった。
「それで、五つの子が、死ぬんですか」
部屋の中が、しんと静まり返った。
わたしは、胸元の鍵を、両手で握りしめていた。
冷たい鍵が、少しずつ、手の熱で温まっていった。
あの人は、長いあいだ、何も言わなかった。
それから、低い声で、言った。
「……今日は、答えを出すな」
わたしは、顔を上げた。
あの人は、卓のそばに立ったまま、わたしを見ていた。
何の表情も浮かべていなかった。
でも、その黒い瞳の奥に、何か、ひどく苦いものが沈んでいるのが見えた。
「お前に話したのは、俺の考えを伝えるためだ。お前に、選ばせるためではない」
あの人は、静かに言った。
「明日、俺の考えを、全部話す。なぜ断るのか。それを聞いてから、お前が、どう思うか、教えてくれ」
「……」
「今日は、それだけでいい」
あの人は、卓の上の書状を、手に取った。
王妃さまの手紙だけは、取らなかった。
卓の上に、残していった。
わたしが、もう一度読みたいかもしれないと、思ったのだと思う。
あの人は、扉の前で、一度だけ、足を止めた。
振り返らずに、言った。
「ちゃんと、食べてくれ。スープが、冷める」
扉が、閉まった。
◇ ◇ ◇
その夜、わたしは、眠れなかった。
寝台の上に座って、王妃さまの手紙を、何度も読み返した。
――林檎が好きな子です。
――来年の秋も林檎を拾えるかと。
――嘘をつきました。
わたしは、胸元の鍵を、握りしめた。
――わたしが、泣けば。
――わたしが、渡せば。
――断れば、この子は、死ぬ。
同じ言葉が、頭の中で、ぐるぐると回っていた。
ふと、地下のことを思い出した。
泣けなかった日の、お母さまの冷たい目。
――あなたが泣かないせいで、ヴァレンティア家が困るのよ。
――あなたのせいで、みんなが不幸になるの。
わたしが泣かなければ、誰かが困る。
わたしの涙が、誰かの幸せのために、要る。
だから、泣かなければいけない。
それが、わたしの役目だと、ずっと、そう言われてきた。
――同じだ。
わたしは、鍵を握る手を、見下ろした。
王妃さまは、お母さまとは違う。
自分の子どもを、救いたいだけだ。
自分の命と引き換えでもいいと、震える字で書くほどに。
それでも。
――わたしの涙で、誰かが救われる。
――わたしが泣かなければ、誰かが死ぬ。
その形は、地下で、毎日聞かされてきたものと、まったく同じだった。
わたしは、手紙を胸に抱いて、膝を抱えた。
どうすればいいのか、分からなかった。
窓の外で、林檎の木の、青い小さな実が、月の光の中で、かすかに揺れていた。




