↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
76/77

第76話 病める王子

3あの夜、あの人は、本当に全部を話してくれた。

 ヘルツ博士の助手の人が、下町の酒場で、酔ってこぼしてしまったこと。

 噂が、川を下って、海を渡って、国境を越えていったこと。

 ひと月のうちに、噂が、形を変えていったこと。

 ――死人を蘇らせる、黄金の涙。

 ――皇帝は、その娘を、涙を流させるために、閉じこめている。

 それを聞いたとき、わたしは、寝台の柱を握りしめたまま、しばらく動けなかった。

 閉じこめられている。

 涙を、流させるために。

 それは、わたしの十年だった。

 お屋敷の地下で、本当に、そうだった。

 それなのに、今、わたしを地下から出してくれた人が、そう言われている。

「……ちがう」

 わたしは、首を振った。

「ちがいます。あなたは」

「分かっている」

 あの人は、静かに言った。

「お前が分かっていれば、それでいい」

 それから、あの人は、これから何をするのかを、話した。

 東の客殿の警護を、倍にしたこと。

 各国に、噂を否定する書簡を送ったこと。

 レオンハルトさんが、わたしのそばにいてくれること。

 そして、最後に、言った。

「これからも、何かあれば、全部話す。お前に関わることは、ひとつも隠さない」

 あの人は、まっすぐに、わたしを見た。

「隠すと約束したことは、守れなかった。だから、せめて、お前には、何も隠さない」


   ◇ ◇ ◇


 それから、十日が経った。

 東の客殿の廊下には、前よりもずっと多くの騎士の人たちが立つようになった。

 庭へ行くときも、薔薇の茂みの向こうに、いつも誰かがいた。

 レオンハルトさんは、毎日、少し離れたところから、わたしを見守ってくれた。

 いつも、窓の外か、扉のほうを見ていた。

 わたしのほうは、あまり見なかった。

 見ないようにしてくれているのだと、分かった。

 あの人は、毎日、昼に扉を叩いた。

 入っていいか、と訊いた。

 何も、変わらなかった。

 変わらないように、してくれていた。

 それでも、わたしは、ときどき、窓の外を見るのが怖くなった。

 あの塀の向こうに。

 帝都の向こうに。

 海の向こうに。

 わたしの知らない、たくさんの目が、こちらを向いている気がして。


 十一日目の昼、扉を叩く音がした。

「入っていいか」

「……はい」

 あの人が入ってきた。

 銀の盆を、持っていた。

 いつものように、卓の上に置いて、曲がった匙でひと口ずつ確かめた。

 それから、部屋の真ん中の絨毯の上に、腰を下ろさなかった。

 卓のそばに、立ったままだった。

 わたしは、スープの匙を持ったまま、手を止めた。

「……何か、あったんですか」

 あの人は、少しのあいだ、黙っていた。

 それから、上着の内側から、一通の書状を取り出した。

 厚い、上質な紙だった。

 金の縁取りがあって、赤い封蝋が押してあった。

 封蝋は、もう、切られていた。

「今朝、北のルーヴェン王国から、正式な使節が来た」

 あの人は、言った。

「国王の、親書を持って」

 わたしは、匙を置いた。

「……ルーヴェン」

「十日前に、噂の真偽を訊いてきた国だ」

 あの人の声は、平らだった。

「あのとき、大使は、王も王妃も、たいそう気にかけておられる、と言った。理由は、言わなかった」

 あの人は、書状を見下ろした。

「理由が、これに書いてあった」

 わたしは、あの人の顔を見た。

 あの人は、ほんの少しだけ、目を伏せた。

「ルーヴェンの王には、王子がひとりいる。五つになる」

 ――五つ。

「その王子が、死病に罹っている」


 部屋の中が、しんと静まり返った。

 わたしは、膝の上で、手を握りしめた。

「……死病」

「ルーヴェンの医師たちも、魔術師たちも、手を尽くしたそうだ。それでも、治らない。身体の内側から、少しずつ、命の力が枯れていく病だと書いてある」

 あの人は、静かに言った。

「医師たちの見立てでは、次の春まで、もたない」

 ――次の春。

 わたしは、窓の外を見た。

 林檎の木の花は、もうとっくに散って、枝には、青い小さな実がつきはじめていた。

 次の春まで。

 あと、一年も、ない。

「親書には、こうある」

 あの人は、書状の一行を、指でなぞった。

「――貴国の皇宮におられる、黄金の涙の御方に、わが子の命を、お救いいただきたく。いかなる代償をも、惜しまぬ」

 あの人の声は、変わらなかった。

 淡々と、書かれた文字を、そのまま読み上げていた。

「国境の三つの砦を、帝国に譲る。関税を、十年間、免じる。それから」

 あの人は、そこで、言葉を切った。

「それから、何ですか」

 あの人は、少しだけ、ためらった。

「……ルーヴェンの王女を、帝国の皇帝の妃に」

 わたしは、まばたきをした。

 あの人は、すぐに続けた。

「全部、断るつもりだ」

 あの人の声は、静かだった。

 でも、少しも揺れていなかった。

「お前に話したのは、何も隠さないと約束したからだ。お前に、決めさせるためではない」


 わたしは、何も言えなかった。

 ――断るつもりだ。

 あの人は、そう言った。

 でも、わたしの耳には、その少し前の言葉が、まだ残っていた。

 ――五つになる。

 ――次の春まで、もたない。

「……その書状」

 声が、かすれた。

「見ても、いいですか」

 あの人は、しばらく、わたしを見ていた。

 それから、黙って、書状を卓の上に置いた。

 わたしは、それを、手に取った。

 厚い紙だった。

 国王の親書は、難しい言葉ばかりで、半分も読めなかった。

 でも、親書の下に、もう一枚、薄い紙が挟まっていた。

 小さな、細い、震えるような字で、書かれていた。

 国王の字とは、違った。

 ――ルーヴェン王妃、マルグリット。

 最後に、そう署名されていた。

 わたしは、その一枚を、指でたどりながら、ゆっくりと読んだ。


 ――見知らぬ御方へ。

 ――このような手紙を差し上げる無礼を、どうかお許しください。

 ――わたくしの息子は、エミールと申します。五つになります。

 ――林檎が好きな子です。秋になると、庭の林檎の木の下で、落ちた実を拾って、わたくしのところへ持ってくるのが好きでした。

 ――今は、もう、起き上がることもできません。

 ――昨日、エミールは、わたくしに、来年の秋も林檎を拾えるかと訊きました。

 ――わたくしは、拾えるわ、と答えました。

 ――嘘をつきました。

 ――どうか、お助けください。

 ――わたくしにできることなら、何でもいたします。わたくしの命と引き換えでも、構いません。

 ――どうか。


 わたしは、紙を持ったまま、動けなかった。

 ――林檎が、好きな子。

 ――来年の秋も、林檎を拾えるかと。

 胸の奥が、ぎゅうっと痛んだ。

 会ったこともない子だった。

 顔も、声も、知らない子だった。

 それなのに。

 林檎の木の下で、落ちた実を拾っている、小さな男の子の姿が、目の奥に浮かんだ。

 それから、起き上がれなくなって、寝台の上で、窓の外の林檎の木を見ている姿が。

 ――わたしが、泣けば。

 ふいに、その言葉が、浮かんだ。

 わたしが、泣けば。

 金色の雫が生まれれば。

 あの子は、助かるのかもしれない。

 あの人の、十年の傷を消したように。

 ――でも。

 わたしは、紙を握りしめた。

 ――泣けと、言われて、泣くの。

 それは、お母さまが、わたしにさせたことだった。

 泣きなさい、リシェル。

 今度は、金色のを。

 夢の中の、お母さまの声。

 わたしは、首を振った。

 そもそも、泣けるかどうかも、分からなかった。

 あの金色の雫が、どうして生まれたのか。

 自分でも、分からないのだ。

 泣こうとして、泣けるものでもない。

 泣いたとしても、金色になるとは、限らない。

 青黒い石になるかもしれない。

 ――それなら。

 わたしは、胸元のリボンに、手を当てた。

 ボタンと、銀の鍵。

 ――宝物庫の、あの雫。

 あれなら、もう、ある。

 わたしが、生まれて初めて、自分で流した涙。

 あれを、あの子に、渡せば。


 わたしは、鍵を、握りしめた。

 冷たかった。

 ――また、来るね。

 夜明け前の宝物庫で、わたしは、あの雫に、そう言った。

 自分で、しまっておく場所に、したいと。

 閉じこめるのでは、なく。

 あれは、わたしのものだった。

 生まれて初めて、誰にも奪われずに、わたしの手の中に残った、わたしの涙だった。

 それを、手放したら。

 ――でも。

 手放さなかったら。

 あの子は、死ぬ。

 次の春までに。

 林檎を、もう一度拾うこともできずに。

 わたしが、鍵を握りしめたまま、何もしなければ。

 わたしは、紙を、卓の上に置いた。

 手が、震えていた。

 ――断れば、この子は、死ぬ。

 その言葉が、胸の奥に、冷たく沈んでいった。

 わたしが、断れば。

 わたしの、せいで。


「リシェル」

 あの人の声がした。

 わたしは、顔を上げられなかった。

「それは、お前が背負うものではない」

 あの人は、言った。

「断るのは、俺だ。お前ではない」

「……でも」

 声が、震えた。

「でも、わたしが、泣けば。宝物庫の、あの雫を、渡せば」

 わたしは、鍵を握りしめた。

「この子は、助かるかもしれないんですよね」

 あの人は、黙っていた。

「わたしが、何もしなかったら。この子は、死ぬんですよね」

 あの人は、まだ、黙っていた。

「わたしが、鍵を持っているのに。助けられるかもしれないのに。わたしが、渡したくないから。わたしが、怖いから」

 声が、だんだん小さくなっていった。

「それで、五つの子が、死ぬんですか」

 部屋の中が、しんと静まり返った。

 わたしは、胸元の鍵を、両手で握りしめていた。

 冷たい鍵が、少しずつ、手の熱で温まっていった。

 あの人は、長いあいだ、何も言わなかった。

 それから、低い声で、言った。

「……今日は、答えを出すな」

 わたしは、顔を上げた。

 あの人は、卓のそばに立ったまま、わたしを見ていた。

 何の表情も浮かべていなかった。

 でも、その黒い瞳の奥に、何か、ひどく苦いものが沈んでいるのが見えた。

「お前に話したのは、俺の考えを伝えるためだ。お前に、選ばせるためではない」

 あの人は、静かに言った。

「明日、俺の考えを、全部話す。なぜ断るのか。それを聞いてから、お前が、どう思うか、教えてくれ」

「……」

「今日は、それだけでいい」

 あの人は、卓の上の書状を、手に取った。

 王妃さまの手紙だけは、取らなかった。

 卓の上に、残していった。

 わたしが、もう一度読みたいかもしれないと、思ったのだと思う。

 あの人は、扉の前で、一度だけ、足を止めた。

 振り返らずに、言った。

「ちゃんと、食べてくれ。スープが、冷める」

 扉が、閉まった。


   ◇ ◇ ◇


 その夜、わたしは、眠れなかった。

 寝台の上に座って、王妃さまの手紙を、何度も読み返した。

 ――林檎が好きな子です。

 ――来年の秋も林檎を拾えるかと。

 ――嘘をつきました。

 わたしは、胸元の鍵を、握りしめた。

 ――わたしが、泣けば。

 ――わたしが、渡せば。

 ――断れば、この子は、死ぬ。

 同じ言葉が、頭の中で、ぐるぐると回っていた。

 ふと、地下のことを思い出した。

 泣けなかった日の、お母さまの冷たい目。

 ――あなたが泣かないせいで、ヴァレンティア家が困るのよ。

 ――あなたのせいで、みんなが不幸になるの。

 わたしが泣かなければ、誰かが困る。

 わたしの涙が、誰かの幸せのために、要る。

 だから、泣かなければいけない。

 それが、わたしの役目だと、ずっと、そう言われてきた。

 ――同じだ。

 わたしは、鍵を握る手を、見下ろした。

 王妃さまは、お母さまとは違う。

 自分の子どもを、救いたいだけだ。

 自分の命と引き換えでもいいと、震える字で書くほどに。

 それでも。

 ――わたしの涙で、誰かが救われる。

 ――わたしが泣かなければ、誰かが死ぬ。

 その形は、地下で、毎日聞かされてきたものと、まったく同じだった。

 わたしは、手紙を胸に抱いて、膝を抱えた。

 どうすればいいのか、分からなかった。

 窓の外で、林檎の木の、青い小さな実が、月の光の中で、かすかに揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。