第77話 涙は義務ではない
3「――国境の砦を、三つでございますぞ、陛下」
翌朝の御前会議で、財務卿が、声を上ずらせた。
「三つあれば、北の国境の守りは、向こう五十年は盤石でございます。関税の免除が十年となれば、国庫に入る銀は」
「それだけではございません」
別の重臣が、身を乗り出した。
「ルーヴェンの王女殿下を皇妃にお迎えすれば、北との同盟は揺るぎないものとなりましょう。先帝陛下の御代からの悲願でございます」
長い卓を囲んだ重臣たちの目が、玉座の皇帝に集まっていた。
この会議に集められた重臣たちは、黒冠の印のことも、東の客殿の客人の涙のことも、知らない。
知っているのは、帝都を騒がせている噂と、ルーヴェン王の親書の、表向きの文面だけだった。
――貴国の皇宮におられる、黄金の涙の御方に。
「噂が真か偽かは、わたくしどもには分かりかねます」
年かさの重臣が、慎重に言った。
「ですが、もし、ほんのわずかでも真であるならば。これほどの条件を、みすみす」
「断る」
皇帝の声が、会議の間に響いた。
低くて、短い声だった。
重臣たちが、いっせいに口をつぐんだ。
「ルーヴェンへの返書は、今朝、俺が書いた。もう、使節に渡してある」
会議の間が、どよめいた。
「陛下! 御前会議の議を経ずに、そのような」
「議を経ずに決めた」
皇帝は、言った。
「この件は、俺ひとりで決める。誰の名も、返書には連ねていない。ルーヴェンが恨むなら、俺ひとりを恨めばいい」
「陛下……」
「ルーヴェンの王子には、帝国の宮廷医師団を送る。薬も、魔術師も、帝国が出せるものは、すべて出す。だが、東の客殿の客人に関わることは、何ひとつ、取引に載せない」
皇帝は、玉座から立ち上がった。
「この件について、二度と、議には上げるな」
重臣たちは、誰も、何も言わなかった。
言えなかった。
玉座の傍らで、宰相クラウスだけが、静かに目を伏せていた。
◇ ◇ ◇
その日の昼、扉を叩く音がした。
「入っていいか」
「……はい」
あの人が、銀の盆を持って入ってきた。
いつものように卓の上に置いて、曲がった匙でひと口ずつ確かめた。
それから、今日は、部屋の真ん中の絨毯の上に、腰を下ろした。
いつもの場所に。
わたしは、卓のそばに立ったまま、動けなかった。
昨日の夜、一睡もしていなかった。
王妃さまの手紙は、まだ、寝台の枕元にあった。
「……食べてくれ」
あの人が、言った。
「話は、それからだ」
わたしは、スープを飲んだ。
味が、よく分からなかった。
十口。
パンを、ひとつ。
ふたつ目は、喉を通らなかった。
あの人は、何も言わなかった。
わたしは、絨毯の上の、あの人から三歩離れた場所に、座った。
「ルーヴェンへの返書は、今朝、送った」
あの人は、言った。
わたしは、顔を上げた。
「断った」
あの人は、まっすぐに、わたしを見ていた。
「お前の答えを、聞く前に」
「……え」
「昨日、お前は、答えを出すなと言った俺の言葉を、守ってくれたと思う。だが、ひと晩、考えたはずだ。寝ていないのが、顔を見れば分かる」
あの人の声は、静かだった。
「お前が、どんな答えを出していたとしても、俺は、断るつもりだった。それなら、お前の答えを聞いてから断るのは、お前に、答えを出させただけになる」
わたしは、何も言えなかった。
「だから、先に断った。俺ひとりで」
あの人は、言った。
「御前会議の議も、経ていない。返書には、俺の名だけを書いた。ルーヴェンが恨むなら、俺を恨む。お前の名は、どこにも出ていない」
わたしは、胸元の鍵を、握りしめた。
「……どうして」
声が、かすれた。
「どうして、ひとりで」
「お前に、背負わせないためだ」
「でも」
わたしは、首を振った。
「でも、あの子は。エミールさまは」
声が、震えた。
「わたしが、宝物庫の雫を、渡せば。助かるかもしれなかったんですよね。わたしは、鍵を持っているのに」
あの人は、黙っていた。
「わたしが、怖かったから。手放したくなかったから。だから」
「違う」
あの人が、言った。
強い声だった。
「お前が手放したくないかどうかは、関係ない。お前が、手放したいと言ったとしても、俺は、断った」
わたしは、あの人を見つめた。
「理由を、話す」
あの人は、膝の上で、手を組んだ。
「ひとつめ」
あの人は、静かに言った。
「ルーヴェンの王子を救えば、次が来る」
「……次」
「南の王の、病んだ父親。西の公爵の、片脚をなくした息子。東の商人の、目の見えない娘。噂を聞いた者は、みな、親書を書く。いかなる代償をも惜しまぬ、と」
あの人の声は、平らだった。
「ひとりを救えば、ほかを断る理由がなくなる。ルーヴェンの王子は救ったのに、なぜ、うちの子は救わないのか、と。断るたびに、その国は、帝国を恨む。恨みは、いずれ、お前に向く」
わたしは、膝の上の手を、握りしめた。
「そして、そのうちに、誰かが言いだす」
あの人は、わたしを見た。
「一粒では、足りない。もっと、涙を、と」
息が、止まった。
「お前の涙は、帝国の財になる。国と国とが取引をする、品物になる。お前は、宮殿の奥で、泣くために生かされる」
あの人の声が、ほんのわずかに、低くなった。
「ヴァレンティアの地下と、何が違う」
――ヴァレンティアの、地下と。
わたしの身体が、凍りついた。
「場所が、地下から宮殿に変わるだけだ。鍵を持つ者が、お前の母親から、帝国に変わるだけだ。値をつける者が、闇の競売の客から、国々の王に変わるだけだ」
あの人は、言った。
「だから、断る。最初のひとりから」
わたしは、何も言えなかった。
胸の奥が、冷たくなっていった。
――最初の、ひとりから。
でも。
「……でも、それでも」
声が、震えた。
「エミールさまは、死んでしまうかもしれないんです。五つなのに。林檎が好きなのに。来年の秋も、林檎を拾いたいのに」
喉の奥が、熱くなった。
「わたしが、救えるかもしれないのに」
「救えることと」
あの人が、言った。
静かな声だった。
でも、ひとつひとつの言葉が、まっすぐに、わたしの胸に届いた。
「救う義務があることは、違う」
わたしは、あの人を見た。
「それが、ふたつめの理由だ」
あの人は、組んだ手を、ゆっくりとほどいた。
「俺は、剣を振れる。だが、剣を振れるからといって、目の前の誰もを斬る義務はない」
「……」
「エドガーは、医術を知っている。だが、医術を知っているからといって、帝国じゅうの病人を、ひとりで診る義務はない。エドガーが倒れるまで働かなかったせいで誰かが死んでも、それは、エドガーのせいではない。病のせいだ」
あの人は、わたしを見た。
「お前の涙も、同じだ」
わたしは、息を止めた。
「お前の涙には、人を救う力があるのかもしれない。だが、それは、お前が泣かなければならない理由にはならない」
あの人の声は、少しも揺れていなかった。
「涙は、義務ではない」
――涙は、義務ではない。
わたしは、その言葉を、胸の中で繰り返した。
涙は、義務ではない。
――泣きなさい、リシェル。
――あなたが泣かないせいで、ヴァレンティア家が困るのよ。
――あなたのせいで、みんなが不幸になるの。
ずっと、そう言われてきた。
わたしの涙は、誰かのために要るもので。
わたしが泣かなければ、誰かが困って。
だから、泣くのは、わたしの役目で。
泣けない日は、わたしが悪くて。
「エミール王子が亡くなったとしたら」
あの人は、言った。
「それは、病が、王子の命を奪ったのだ。お前が泣かなかったからではない。お前が鍵を渡さなかったからでもない」
「……」
「お前の母親は、お前に、ずっと逆のことを教えてきた。お前が泣かないから、誰かが困る、と。お前が泣けば、みんなが幸せになる、と」
あの人は、まっすぐに、わたしを見た。
「あれは、嘘だ」
わたしの目の奥が、焼けるように熱くなった。
「お前の涙は、誰かに差し出すために流すものではない。お前が、お前のために流すものだ」
あの人の声が、かすかに、かすれた。
「あの夜、お前は、泣かされたのではない、泣けたのだ、と言った。俺は、その言葉を、お前から取り上げたくない」
わたしは、膝を抱えた。
顔を、膝にうずめた。
――泣けたんです。
あの夜、わたしは、そう言った。
生まれて初めて、自分のために流した涙だった。
もし、あの雫を、王子さまに渡したら。
もし、もう一度、誰かのために泣こうとしたら。
あの夜の涙は、わたしのものでは、なくなってしまうのかもしれない。
また、誰かのための涙に。
また、差し出すための涙に。
「……それでも」
膝に顔をうずめたまま、わたしは言った。
「それでも、いいんでしょうか」
声が、かすれた。
「わたしが、何もしなくて。五つの子が、死ぬかもしれないのに」
「よくはない」
あの人は、言った。
すぐだった。
「誰にとっても、よくはない。王妃にとっても。王子にとっても。俺にとっても。お前にとっても」
わたしは、顔を上げた。
あの人の目が、燭台の灯りもないのに、ひどく暗く見えた。
「俺は、五つの子が死ぬかもしれないと知っていて、断った」
あの人は、静かに言った。
「その重さは、俺が背負う。お前ではない」
――処刑した者の名は、全員覚えている。
――俺が殺すからだ。誰かに書かせれば、その誰かが殺したことになる。
いつか、あの人は、そう言った。
この人は、いつも、そうするのだ。
重いものを、ひとりで、背負う。
誰にも、代わりに書かせずに。
「帝国の宮廷医師団を、ルーヴェンへ送る。エドガーが選んだ者たちだ。薬も、魔術師も、出せるものは、全部出す」
あの人は、言った。
「お前の涙ではないものでなら、俺は、あの子を救う手を尽くす。それで救えるかは、分からない。それでも」
あの人は、そこで、言葉を切った。
「それが、俺にできる、すべてだ」
わたしは、長いあいだ、黙っていた。
胸元の鍵を、握りしめていた。
冷たかった鍵が、手のひらの熱で、すっかり温かくなっていた。
「……アルフレッド」
「何だ」
「宝物庫の、あの雫」
わたしは、言った。
「わたしのもの、なんですよね」
「ああ」
「いつか、もし」
声が、震えた。
「いつか、もし、わたしが、誰かのために、あの雫を使いたいと思ったら」
あの人は、黙っていた。
「誰かに頼まれたからじゃなくて。救わなきゃいけないからじゃなくて。わたしが、自分で、そうしたいと思ったら」
わたしは、あの人を見た。
「そのときは、使っても、いいですか」
あの人は、しばらく、わたしを見ていた。
それから、ゆっくりと、頷いた。
「お前のものだ」
低い声だった。
「お前が、自分で決めたことなら、俺は止めない」
それから、付け足した。
「ただ、それは、今ではない。王の親書と、王妃の手紙と、帝国じゅうの目に、追いつめられて決めることではない」
わたしは、小さく、頷いた。
「……はい」
目の奥が、まだ、熱かった。
でも、涙は、こぼれなかった。
こぼれそうで、こぼれなかった。
――泣けと言われて、泣くのではなく。
――泣かなければと思って、泣くのでもなく。
いつか、わたしが、泣きたいときに。
わたしは、胸元の鍵を、そっと離した。
鍵は、ボタンの隣で、小さく揺れた。
◇ ◇ ◇
その夜、わたしは、王妃さまの手紙を、もう一度だけ読んだ。
――林檎が好きな子です。
わたしは、手紙を、丁寧にたたんだ。
それから、窓辺の皿のそばに、そっと置いた。
花冠の隣に。
窓の外で、林檎の木の青い実が、月の光の中で、かすかに揺れていた。
――来年の秋も、林檎を拾えますように。
わたしは、心の中で、そう祈った。
涙では、なく。
ただ、祈った。




