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第8話 必ず迎えに来る

七日目の昼過ぎ、差し入れ口から水の入った木の椀だけが押しこまれた。

「飲んどけ。死なれちゃ困るって、旦那様のお言いつけだ」

 ドルフさんはそれだけ言って、すぐに差し入れ口を閉めてしまった。

 わたしは床を這うようにして椀のところまで行き、両手で抱えて少しずつ水を飲んだ。冷たい水が喉を通って、空っぽのお腹の底に落ちていく。それだけで、身体の輪郭が少しだけはっきりしたような気がした。

 死なれちゃ困る。

 その言葉の意味は、よく分かっていた。

 わたしが死んだら、石が採れなくなる。だからお父さまは、わたしを死なせない。それはわたしのことを大切に思っているからではなくて、ただ、まだ使い道があるからだ。

 わたしは空になった椀を床に置いて、藁の上に戻った。

 胸元に手を当てる。

 小さな丸い形が、今日もちゃんとそこにある。

 朝からずっと、あの子の夢の続きのことばかり考えていた。ボタンをもらった日のこと。それから――そのあとのこと。

 ずっと蓋をしてきた記憶だった。

 でも今日は、どうしてだか、その蓋を開けてしまいたかった。

 お腹が空きすぎて、何かにすがらずにはいられなかったのかもしれない。

 わたしは目を閉じた。


   ◇ ◇ ◇


 ボタンをもらってから、何日か経った日のことだった。

 その日のあの子は、いつもと様子が違っていた。

 塀を越えてくる時間が、いつもよりずっと早かった。ハンナが出かけていって、まだ少ししか経っていないのに、塀の向こうで慌ただしい物音がした。

「リシェル!」

 あの子の声だった。

 いつもの、楽しそうに弾んだ声ではなかった。

 塀のてっぺんに現れたあの子は、いつもとは違う服を着ていた。濃い紺色の上着の上に、旅に出る人が着るような厚手の外套を羽織っている。髪は乱れて、頬は真っ赤で、ひどく息を切らせていた。

 あの子は塀から飛び降りると、まっすぐにわたしのところへ駆けてきた。

「どうしたの?」

「ごめん、時間がないんだ」

 あの子はわたしの前で膝に手をついて、肩で大きく息をした。

「今日、帰らなきゃいけなくなった。本当のうちに」

 わたしは、言われたことの意味がすぐには分からなかった。

「……帰る?」

「父上の具合が、急に悪くなったって知らせが来たんだ。すぐに戻れって。もう馬の支度もできてる。本当は、ここに寄っちゃいけなかったんだけど……」

 あの子は顔を上げた。

「どうしても、リシェルに言わなきゃいけないと思って」

 あの子の外套の裾には、泥が跳ねていた。

 ここまで、走ってきたのだ。

 わたしにそれを言うためだけに。


「……もう、来ないの?」

 口から出たのは、そんな言葉だった。

 あの子は答えなかった。

 答えないことが、答えだった。

 胸の奥が、すうっと冷たくなった。初めてあの子が「もう帰るよ」と言ったときの何倍も、何十倍も冷たかった。足元の草が急にぐらぐらと揺れだしたような気がして、わたしは林檎の木の幹に手をついた。

 泣いてしまいそうだった。

 でも、泣かないと約束したのだ。

 ボタンをもらった日に。あの子の前で、泣かないって。

 わたしは唇をきゅっと噛んで、胸元のボタンを服の上から握りしめた。

「……そっか」

 声が震えた。

「お父さま、早く、よくなるといいね」

「リシェル……」

「わたし、大丈夫だよ。だって、ボタンがあるもの。これを持ってたら、見つけてくれるんでしょう?」

 わたしは一生懸命に笑おうとした。

 笑えていたかどうかは分からない。たぶん、ひどい顔をしていたと思う。

 あの子はしばらく、そんなわたしの顔をじっと見ていた。

 それから、ふいに外套の前を開いた。

 中に着ていたのは、あの紺色の上着だった。胸元に一列に並んだ銀のボタンの、ちょうど真ん中のひとつだけが欠けている。

「ほら。まだ欠けてる」

 あの子は自分の胸元を指さした。

「新しいボタンを付けなさいって、乳母に何度も言われたんだ。でも、絶対に付けさせなかった。これからもずっと、付けさせない」

「……どうして?」

「残りのひとつは、リシェルが持ってるから」


 あの子は一歩、わたしに近づいた。

 そして、わたしの両手を取った。

 あの子の手は、走ってきたせいか少し汗ばんでいて、そして少しだけ震えていた。

「リシェル。よく聞いて」

「……うん」

「僕は、今はまだ子どもだ。何もできない。リシェルをここから連れ出すことも、ここの大人たちに、こんなのおかしいって言ってやることも、今の僕にはできない」

 あの子の目は、真剣だった。

 いつも笑っていた目が、今は少しも笑っていなかった。

「祝福の子だからって、外に出られないなんておかしい。花冠を作っちゃいけないなんておかしい。友達がいちゃいけないなんて、絶対におかしい。僕は、そう思う」

「……」

「だから、大人になる。誰にも文句を言わせないくらい、強くなる。それで――」

 あの子は、わたしの手をぎゅっと握った。

「待っていて。僕が必ず迎えに来る」


 風が吹いた。

 林檎の枝が揺れて、白い花びらがわたしたちのまわりにひらひらと舞い落ちた。

 わたしは、あの子の顔を見上げていた。

 迎えに来る。

 その言葉は、わたしが今まで聞いたどんな言葉とも違う形をしていた。

 お母さまは、わたしに「ここにいなさい」と言った。ハンナは「お庭から出てはいけません」と言った。わたしのまわりの大人たちはみんな、わたしをどこにも行かせないための言葉ばかりを口にした。

 でも、あの子は。

 あの子だけは、わたしをここから連れていくための言葉を言ってくれた。

「……迎えに?」

「うん」

「ここから、連れていってくれるの?」

「うん。それで、外の世界をぜんぶ見せてあげる。大きな川も、船も、街の広場も。焼き菓子だって、好きなだけ食べさせてあげる」

「最後のひと切れも?」

「最後のひと切れも、リシェルにあげる」

 あの子はほんの少しだけ笑った。

 わたしも、少しだけ笑った。

 笑ったはずなのに、目の奥が熱くて、熱くて、どうしようもなかった。

「いつ?」

「分からない。何年もかかるかもしれない」

「何年も……」

「でも、必ず来る。約束する」

 あの子は握っていたわたしの手を、胸元のボタンのところまで持ち上げた。

「このボタンを持っていて。なくさないで。そしたら僕は、どこにいたって、リシェルを見つけ出すから」

「……うん」

「それからね。次に会うときは、ちゃんと名前を教える。今は言えないけど、そのときは、ちゃんと」

「……本当に?」

「本当に。だから、それまで待ってて」


 塀の向こうで、角笛の音が鳴った。

 前に聞いたときよりもずっと近い。ずっと鋭い。

 あの子が、はっとしたように振り返った。

「行かなきゃ」

 握っていた手が、離れていく。

 わたしは思わず、その手を追いかけるように指を伸ばしかけて――途中で止めた。

 引き留めたら、いけないのだと思った。

 あの子のお父さまは、病気なのだ。あの子は帰らなければいけないのだ。わたしがわがままを言ったら、あの子を困らせてしまう。

 だからわたしは、伸ばしかけた指をぎゅっと握りこんで、胸の前に引き寄せた。

「待ってる」

 声は、思っていたよりもちゃんと出た。

「ずっと、待ってる。ボタンも、なくさない。だから、だから……」

 その先は、言葉にならなかった。

 あの子はわたしを見つめて、大きく頷いた。

 それから、くるりと背を向けて塀へ駆けていった。出っ張りに足をかけて、いつものように身軽にてっぺんまで登っていく。

 塀の上で、一度だけ振り返った。

「リシェル!」

 あの子は外套をはためかせながら、大きな声で叫んだ。

「泣くなよ! 約束だからな!」

 それが、最後だった。

 あの子の姿は塀の向こうへ消えて、それきり二度と、現れなかった。


 角笛の音が遠ざかっていく。

 馬の蹄の音が、少しずつ小さくなっていく。

 わたしは林檎の木の根元に立ったまま、塀のてっぺんを見上げていた。

 泣かなかった。

 泣かないと約束したから。

 ボタンを服の上から握りしめて、唇を噛んで、目の奥の熱いものを喉の奥へ必死に押し戻しながら、わたしはずっと、あの子が消えた塀の向こうを見つめていた。

 その夜、ハンナが寝静まったあとで、わたしは毛布の中で声を殺して泣いた。

 ハンナにもらった布に、顔をうずめて。

 朝になると、布はぐっしょりと重たく湿っていた。

 ハンナはそれを黙って受け取ると、何も言わずにわたしの髪を撫でてくれた。

 ――ハンナがお屋敷から姿を消したのは、それからひと月も経たない頃のことだった。


   ◇ ◇ ◇


 ハンナがいなくなってから、わたしの涙は布に吸いこまれることがなくなった。

 代わりに、からん、と音を立てて床に転がるようになった。

 初めて自分の涙が石になるのを見たとき、わたしはそれが何なのか分からなくて、ただ呆然と床の上の青い粒を見つめていた。それを拾いにきたお母さまが、あの日初めて、心から嬉しそうに笑ったのを覚えている。

 ――祝福の子って、なあに?

 ハンナに尋ねたあの日の答えを、わたしはそのとき、ようやく本当に知ったのだ。

 それからの日々のことは、あまり思い出したくない。

 毎日のように泣くことを求められた。泣けば褒められて、泣かなければ食事を下げられた。花を摘みに庭に出ることも、いつの間にか許されなくなった。

 そして十の冬、わたしは離れから、このお屋敷の地下へ移された。

 最初の夜のことは、今でもはっきりと覚えている。

 湿った石の壁。鉄の扉。足首にはめられた冷たい鎖。格子窓から見える、手のひらほどの小さな夜空。

 怖くて、寒くて、息が苦しくて、どうにかなってしまいそうだった。

 そのときわたしは、胸元のボタンを両手で握りしめて、何度も何度も小さな声で繰り返した。

「待ってる」

「ずっと、待ってる」

「あの子が、必ず迎えに来てくれるから」

 それだけを繰り返していたら、いつの間にか朝になっていた。

 次の夜も、その次の夜も、わたしはボタンを握って同じことを繰り返した。

 つらいことがあった日には、あの子の言葉を思い出した。お腹が空いた日には、あの子が持ってきてくれた焼き菓子の甘さを思い出した。痛いことをされた日には、あの子が握ってくれた手の温かさを思い出した。

 ――待っていて。僕が必ず迎えに来る。

 その言葉だけが、この暗い地下の日々の中で、わたしを支えてくれていた。

 どんなに苦しくても、どんなにひとりぼっちでも。

 いつか、あの塀の向こうから、あの子がひょっこりと顔を出してくれる。

 「リシェル、いる?」って、あの日と同じ声で呼んでくれる。

 そう信じていられるあいだだけは、わたしはまだ、ちゃんと生きていられたのだ。


   ◇ ◇ ◇


 目を開けると、格子窓の光が少しだけ傾いていた。

 七日目の午後。

 空腹は、もう痛みとも呼べないほど遠くにあった。

 わたしは藁の上で胸元のボタンを握りしめたまま、しばらく天井を見上げていた。

 ――待っていて。僕が必ず迎えに来る。

 何年も、何年も、その言葉を繰り返してきた。

 最初の頃は、毎晩のように。

 それが何日かに一度になって、何か月かに一度になって。

 最近では、思い出すことさえ怖くなっていた。

 だって、この地下に移されてから、もう七年が経ったのだ。

 あの日、林檎の木の下で別れてから数えたら、もっと長い。季節は何度も何度も巡って、格子窓の向こうの光は何度も何度も色を変えた。

 それでも、塀の向こうから誰かが顔を出すことはなかった。

 鉄の扉を開けて、わたしの名前を呼んでくれる人は、一人もいなかった。

「……来ないよ」

 わたしは声に出して呟いてみた。

 言ってしまえば、少しは楽になるかと思ったのだ。

 けれど胸の奥は、少しも楽にならなかった。かえって、ずきりと鋭く痛んだ。

 わたしはボタンを、さらに強く握りしめた。

 もう来ない。

 分かっている。

 分かっているはずなのに、どうしてもこれだけは手放せない。

 これを手放したら、あの日の約束が本当になかったことになってしまう気がして。

「……待ってる」

 小さく、小さく、呟いた。

 誰にも聞こえないように。

 自分自身にさえ、聞こえないように。

 格子窓の向こうで、遠く鳥の声がした。

 わたしはそれを、林檎の木の上にいたあの鷹の声に似ていると思いながら、ゆっくりと目を閉じた。

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