第7話 泣かないで
あの子は、本当に次の日もやってきた。
ハンナが離れの鍵をかけて出かけていって、しばらく経った頃。塀の向こうでがさがさと音がして、てっぺんに黒い髪の頭がひょっこりと覗いた。
「リシェル、いる?」
わたしは林檎の木の根元から飛び上がるようにして立った。
いるよ、と答えようとしたのに、声がうまく出なかった。代わりに何度も何度も頷いた。あの子はそれを見て、塀の上で笑った。
「今日は鷹なしだよ。約束どおり」
ひらりと飛び降りてくる。
それから、わたしの頭の上に目を留めた。
「あ。まだ載せてる」
昨日の花冠だった。
一晩たってすっかりしおれて、白かった花びらは茶色く縮れてしまっていた。それでもわたしは朝起きてからずっと、それを頭に載せていたのだ。
「……なくすなって、言ったから」
「そういう意味じゃなかったんだけど」
あの子は困ったように眉を下げて、それからくすくすと笑った。
「じゃあ今日は、新しいのを作ろう。今度はリシェルが、ちゃんと輪にできるまで」
その日から、あの子は毎日やってきた。
わたしたちは花冠を作った。わたしの三つ目の花冠は、ようやくほどけずに輪になった。あの子は「僕のより上手だ」と言って、わたしの作った花冠を自分の頭に載せた。黒い髪の上の白い花は、なんだかちょっとおかしかった。
林檎の木にも登った。
正確には、あの子が登って、わたしは下から見ていた。けれど三日目には、いちばん低い枝まで手を引いてもらって登れるようになった。枝の上から見た庭は、いつもと同じ庭なのに、まるで知らない場所みたいに見えた。
あの子は塀の外のことをたくさん話してくれた。
大きな川があって、そこには帆を張った船が浮かんでいること。街の広場では、毎朝たくさんのお店が開かれること。焼きたての菓子の匂いが通りじゅうに漂っていること。
「焼き菓子って、どんな味がするの?」
「食べたことないの?」
「……ないと思う」
「じゃあ、今度持ってくるよ。蜂蜜がたっぷり入ったやつ」
あの子は本当に、次の日に焼き菓子を持ってきてくれた。
紙の包みを開けると、甘い匂いがふわっと広がった。わたしたちは林檎の木の根元に並んで座って、それを半分ずつ食べた。最後のひと切れをどちらが食べるかで言いあいになって、結局あの子がわたしの口に押しこんで、わたしはむせて、あの子は笑い転げた。
楽しかった。
毎日が、楽しかった。
ハンナが出かけていく足音を、わたしは毎日、胸をどきどきさせながら待つようになった。
「あなたのおうちは、どこにあるの?」
ある日、林檎の枝の上で、わたしはそう尋ねてみた。
あの子はしばらく黙って、遠くの空を見ていた。
「本当のうちは、ずっと遠く。今は近くの狩猟小屋に泊まってるんだ。父上の具合があまりよくなくて、うちの中がちょっとごたごたしてるから。しばらく離れていなさいって言われて」
「ごたごた?」
「大人たちが、いろいろ揉めてるんだよ」
あの子はそう言って、少しだけ唇を噛んだ。
その横顔が、いつもの笑っている顔とはまるで違っていて、わたしはなんだか胸がざわざわした。
「……あなたも、閉じこめられてるの?」
あの子が振り向いた。
驚いたように目を見開いて、それから、ふっと力を抜いて笑った。
「どうかな。少し似てるかもしれない」
「じゃあ、また、おんなじね」
「うん。おんなじだ」
あの子は枝の上で、わたしの頭をくしゃりと撫でた。
ハンナとは違う、少しだけ乱暴な撫で方だった。それなのに、どうしてだか、ちっとも嫌ではなかった。
◇ ◇ ◇
お母さまが離れにやってきたのは、あの子と出会って七日目の朝のことだった。
お母さまが離れに来ることは、そんなに多くなかった。月に一度か二度。いつも前触れもなく、ふいにやってくる。
「おはよう、リシェル」
お母さまは部屋の入口に立ったまま、わたしを見下ろした。
ううん。正確には、わたしの少し向こう側を見ていた。
そしてその目が、窓辺に置いてあったものに留まった。
「……あら。なあに、これ」
わたしの心臓が、どきりと跳ねた。
窓辺には、昨日作った花冠が置いてあった。わたしが初めて、ほどけずに輪にできたもの。しおれてしまわないように、水を張った小皿の上にそっと載せておいたのだ。
「お花を、摘みました」
わたしは震える声で答えた。
「わたしが、ひとりで、作りました」
嘘だった。
生まれて初めてついた嘘だったかもしれない。
あの子のことは、誰にも言ってはいけない気がした。ハンナにも、お母さまにも。もしも知られたら、あの子はもう二度と来られなくなる。それだけは、どうしてもいやだった。
お母さまは花冠を指先でつまみ上げた。
汚いものでも触るみたいに、ほんの指先だけで。
「ハンナね。あの人が教えたのかしら」
「ち、違います。ハンナは何も……」
「まあいいわ」
お母さまは花冠をぽとりと床に落とした。
そして、ドレスの靴の先で、それを踏んだ。
くしゃり、と小さな音がした。
白い花びらが、床の上でつぶれて散らばった。
「リシェル。あなたは祝福の子なのよ」
お母さまはやさしい声で言った。
「祝福の子にね、こんなものは要らないの。遊びも、お花も、お友達も。あなたはそういうものとは違うところで生きていくのよ。分かるわね?」
わたしは床の上のつぶれた花冠を見ていた。
何も答えられなかった。
「分かるわね?」
「……はい」
「いい子ね」
お母さまはそれだけ言って、くるりと背を向けた。
扉が閉まる。外から鍵のかかる音がする。
わたしは床にしゃがみこんで、つぶれた花びらを一枚ずつ拾い集めた。
拾っても、拾っても、もう元の形には戻らなかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、あの子はいつもどおり塀を越えてやってきた。
「リシェル、今日はね――」
草の上に降り立って、明るい声で言いかけて、ふいに黙った。
わたしは林檎の木の根元にしゃがみこんでいた。膝を抱えて、顔を伏せて。
ハンナにもらった小さな布を、両手でぎゅっと握りしめて。
「……リシェル?」
あの子の声が、すぐそばで聞こえた。
「どうしたの? どこか痛いの?」
わたしは首を横に振った。
顔を上げられなかった。上げたら、きっと涙がこぼれてしまう。
――お嬢さま。お泣きになるときは、必ずお顔をこの布にうずめてくださいましね。
ハンナにはずっと、そう言われていた。どうしてなのかは教えてくれなかった。でも、ハンナがあんまり真剣な顔で言うから、わたしはいつもそのとおりにしていた。
だから今も、わたしは布に顔を押し当てて泣いていた。
声を殺して。肩だけを震わせて。
「何があったの」
あの子がわたしの隣にしゃがみこむ気配がした。
わたしはしばらく何も言えなかった。それでもあの子は急かさずに、ただ隣にいてくれた。
春の風が林檎の葉を揺らす音だけが聞こえていた。
「……花冠」
ようやく、声が出た。
「昨日の、花冠。お母さまに、見つかったの」
「うん」
「つぶされちゃった」
「……そっか」
「祝福の子には、要らないんだって。遊びも、お花も、おともだちも」
言葉にしたら、また胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。
わたしは布に顔を押しつけた。
「わたし、あなたのこと、言わなかったよ。ひとりで作ったって、嘘ついたの。だって、言ったら、もう来てくれなくなるかもしれないから」
「リシェル」
「でも、きっと、そのうち見つかっちゃう。そしたら、あなたはもう来られなくなって、わたしはまた、ずっとひとりで……」
それ以上は、言葉にならなかった。
しゃくりあげるたびに、肩が大きく揺れた。
あの子はしばらく黙っていた。
それから、ごそごそと上着のポケットを探るような音がした。
ハンカチを探しているのだ、と思った。けれどあの子は、わたしの手の中の布に気がついたらしい。小さく息をついて、ポケットから手を抜いた。
「……もう、持ってるんだね」
「……え?」
「拭くもの。それじゃあ、ハンカチじゃ意味ないな」
あの子はそう呟いて、少しのあいだ何かを考えていた。
そして、ふいに自分の上着の胸元に手をやった。
ぶちっ、と糸の切れる音がした。
わたしは驚いて、思わず顔を上げてしまった。
あの子の上着の胸元に一列に並んでいた銀色のボタンが、ひとつだけ欠けていた。その代わりに、あの子の手のひらの上に、小さな丸いものが載っていた。
お日さまの光を受けて、きらりと光る銀のボタン。
「リシェル。泣かないで」
あの子は言った。
「はい、これ。あげる」
あの子はわたしの手を取って、その手のひらにボタンをそっと握らせた。
ひんやりと冷たくて、小さくて、丸いもの。
「……これ、なあに?」
「僕の上着のボタン。ほら、ここが一個だけ欠けてるだろ」
あの子は自分の胸元の、ボタンがなくなった場所を指さした。
「この上着を着るたびに、僕はここが欠けてるのに気がつく。そしたら、残りのひとつがどこにあるか思い出す。リシェルのところにあるんだって」
あの子はまっすぐにわたしを見た。
「だから、これを持っていれば、僕が君を見つけられる」
「……見つけ、られる?」
「うん。もしもここに来られなくなっても。リシェルがどこか別の場所に連れていかれても。このボタンを持っていてくれたら、僕は絶対に、欠けたボタンを探しに行く」
あの子は少しだけ照れくさそうに笑った。
「そういうお守り。今決めたんだけどね」
わたしは手のひらの上のボタンを見つめた。
裏返すと、小さな模様が刻まれていた。翼を広げた鳥みたいな、花みたいな、細い線の図柄。その上に、ちいさな冠。
「きれい……」
「そう? ただのボタンだよ」
「ううん。きれい」
わたしはボタンを両手で包みこんだ。
冷たかった金属が、わたしの手の中で少しずつ温かくなっていく。
それを感じているうちに、胸の奥で渦を巻いていた冷たいものが、少しずつ静かになっていくのが分かった。
涙は、いつの間にか止まっていた。
「……本当に、見つけてくれる?」
「本当に」
「ずっと、ずっと遠くに行っちゃっても?」
「ずっと遠くに行っちゃっても」
あの子は迷わずに頷いた。
「だから、泣かないで。リシェルが泣いてると、僕までどうしていいか分からなくなる」
わたしは布で目元をごしごしと拭った。
ハンナの布はわたしの涙をぜんぶ吸いこんで、しっとりと重たくなっていた。濡れた布の感触が手のひらに冷たかったけれど、わたしは少しも気にしなかった。
それから、ボタンを胸に押し当てて、小さく頷いた。
「……うん。泣かない」
「よし」
あの子はほっとしたように笑って、それからふいに立ち上がった。
「じゃあ、花冠を作り直そう。お母さんに見つからないように、今度は木の上に隠しておけばいい」
「木の上に?」
「うん。いちばん高い枝。あそこなら、大人は誰も登ってこないよ」
あの子はいたずらっぽく片目をつぶってみせた。
わたしは思わず、くすっと笑ってしまった。
泣いたすぐあとに笑うなんて、変な感じだった。でも、胸の奥はさっきよりずっと軽かった。
その日、わたしたちは日が暮れる直前まで、いちばん上手な花冠を作るために白い花を摘み続けた。
◇ ◇ ◇
牢の暗がりの中で、わたしはゆっくりと目を開けた。
七日目の朝だった。
格子窓の光が、灰色からかすかに白へ変わりはじめている。
夢を見ていた。
あの子が、わたしの手のひらにボタンを握らせてくれた日の夢。
わたしは胸元に手を当てた。布の合わせ目にくくりつけた、小さな丸い形がちゃんとそこにある。
――これを持っていれば、僕が君を見つけられる。
ずっと思い出さないようにしていた言葉だった。
思い出してしまったら、きっと信じたくなってしまうから。
信じて、待って、それでも誰も来なかったら、今度こそ本当に何もなくなってしまうから。
夢の中のわたしは、あの子の前で泣いていた。
けれど、あの日の庭に石はひとつも転がらなかった。
わたしの涙は、頬を伝い落ちるより先に、ハンナの布にぜんぶ吸いこまれていたから。
――お泣きになるときは、必ずお顔をこの布にうずめてくださいましね。
あの言葉の本当の意味を、今のわたしは知っている。ハンナはわたしの涙が石になる前に、それを布の中に隠してしまおうとしていたのだ。誰にも拾われないように。誰にも値段をつけられないように。
そのおかげで、あの子はわたしの涙が石になるところを一度も見なかった。
あの子にとってのわたしは、最後まで、ただ花冠が下手なだけの女の子だった。
そのことが、今になってどうしようもなく嬉しかった。
あの日、あの子は「泣かないで」と言った。
わたしは「泣かない」と約束した。
あれから、わたしは何度も何度も泣いてきた。お腹が空いて、寒くて、痛くて、怖くて。そのたびに涙は石になって、どこかの誰かのものになった。
約束、守れなかったね。
わたしは胸の奥でそっと呟いた。
でも、今は少しだけ違う。
今のわたしは、泣かないことを自分で選んでいる。誰かに言われたからではなくて、わたし自身が、そう決めたのだ。
それがあの日の約束と同じものなのかどうかは、分からない。
けれど、もしもあの子が今のわたしを見たら――。
わたしは首を振った。
そんなことを考えても、仕方がない。あの子はもう、きっとわたしのことなんて覚えていない。欠けたボタンのことだって、とっくに忘れて、新しい上着を着ているのだろう。
それでいい。
それが当たり前なのだ。
そう自分に言い聞かせながら、わたしは胸元のボタンを、いつまでも手のひらで包みこんでいた。




