第6話 庭に迷い込んだ少年
あの頃のわたしにとって、世界というのは離れの小さな庭のことだった。
石造りの古い離れと、その裏手にある、高い塀に囲まれた四角い庭。わたしが自分の足で歩いていい場所は、それで全部だった。
庭には一本だけ大きな林檎の木があって、その根元にはいつも白い小さな花が咲いていた。塀の向こうからは、ときどき馬車の音や、遠くで誰かが笑う声が聞こえてくる。けれどその声の持ち主たちが、こちら側へやってくることは一度もなかった。
ハンナは午後になると、決まってお屋敷のほうへ用事をしに出かけていった。
「お庭から出てはいけませんよ、お嬢さま。塀のそばにも近づかないように」
出かける前にはいつも同じことを言って、離れの扉の鍵をかけていく。外から。
だからわたしは、午後のあいだずっとひとりだった。
七つになったばかりの春のことだ。
わたしは林檎の木の根元に座りこんで、白い花を一本ずつ摘んでは膝の上に並べていた。何かを作ろうとしていたわけではない。ただ並べて、数えて、また並べ直す。それがわたしの知っている、時間の過ごし方のすべてだった。
遊ぶ、という言葉は知っていた。
ハンナが昔話をしてくれるとき、お話の中の子どもたちはよく遊んでいた。野原を駆け回ったり、鬼ごっこをしたり、川で水をかけあったり。
けれどそれがどういうものなのか、わたしにはよく分からなかった。
ひとりで駆け回っても、ちっとも楽しくなかったから。
ばさばさっ、と大きな羽音がしたのは、その日の午後のことだった。
見上げると、林檎の木のいちばん高い枝に、一羽の鳥が止まっていた。
大きな鳥だった。灰色がかった茶色の羽に、黄色い鋭い目。片方の脚に、細い革紐が結ばれているのが見えた。
わたしは息を止めて、その鳥を見上げた。
こんなに大きな鳥を、こんなに近くで見るのは初めてだった。鳥のほうもわたしに気づいたのか、首をかしげるようにしてこちらを見下ろした。
そのときだった。
「――いた!」
塀の上から、声が降ってきた。
びっくりして振り返ると、高い塀のてっぺんに、誰かがよじ登っていた。
男の子だった。
わたしよりずっと背が高くて、たぶんずっと年上の。黒い髪が汗で額に張りついていて、息を切らせている。濃い紺色の上着の胸元には、銀色のボタンが一列にきらきらと並んでいた。
男の子は塀の上から庭を見下ろして、それから林檎の木の上の鳥を見つけて、ほっとしたように息をついた。
「よかった。こんなところまで逃げてたのか、お前」
それから、ようやく木の根元にいるわたしに気がついた。
男の子の目が、まんまるになった。
「……うわ」
わたしも、たぶん同じくらい目をまんまるにしていたと思う。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
春の風が吹いて、林檎の花びらがひらひらと二人のあいだに舞い落ちた。
「ご、ごめん。誰もいないと思ったんだ」
先に口を開いたのは男の子のほうだった。
「えっと、怪しい者じゃない。本当だよ。あいつを追いかけてきただけなんだ」
男の子は林檎の木の上を指さした。
大きな鳥は、知らん顔をして羽づくろいをしている。
「あれは、あなたの鳥なの?」
「うん。鷹だよ。狩りの練習をさせてたら、急に逃げ出しちゃって。ずっと追いかけてきたら、ここまで来ちゃった」
男の子は塀の上で器用にしゃがみこんで、困ったように頭をかいた。
「降りても、いいかな」
「……え?」
「あいつ、呼んでも来ないんだ。木に登って捕まえないと」
わたしはどう答えていいのか分からなかった。
ハンナには、塀のそばに近づいてはいけないと言われていた。知らない人と話してはいけないとも言われていた。でも、塀の向こうから人が降りてきた場合のことは、何も言われていなかった。
わたしが黙っていると、男の子はそれを「いいよ」という意味だと受け取ったらしい。
「ありがとう」
そう言うなり、ひらりと塀から飛び降りた。
思っていたよりずっと身軽に、草の上に着地する。それから膝の埃を払って、わたしのほうへ歩いてきた。
わたしは思わず、林檎の木の幹に背中を押しつけた。
男の子はわたしの二歩手前で立ち止まった。
そして、首をかしげた。
「君、この家の子?」
「……うん」
「こんなところで、何してるの?」
「お花を、並べてたの」
「並べてた?」
男の子はわたしの膝の上の白い花を覗きこんだ。
一列にきちんと並べられた、二十三本の白い花。
「並べて、どうするの?」
「……数えるの」
「数えて、それから?」
「また並べるの」
男の子はしばらく黙ってわたしの膝の上を見ていた。
それから、不思議そうに言った。
「それ、楽しい?」
わたしは答えられなかった。
楽しいかどうかなんて、考えたこともなかったから。
◇ ◇ ◇
男の子は、林檎の木に登るのがとても上手だった。
上着を脱いで草の上に放り投げると、幹のこぶに足をかけて、するすると枝の上まで登っていった。わたしは木の根元で口を開けたまま、その姿を見上げていた。
人が木に登るところを見たのは、初めてだった。
「おいで。ほら、もう逃げるなよ」
男の子がいちばん高い枝に腕を伸ばすと、鷹は少しだけ迷うように首を振ってから、その腕にひょいと飛び乗った。男の子は鷹の脚の革紐を手首に巻きつけて、ほっとしたように笑った。
「捕まえた」
その笑顔が、なんだかとてもまぶしかった。
男の子は鷹を腕に止まらせたまま、器用に片手だけで木を降りてきた。最後の枝から草の上に飛び降りて、わたしの前に立つ。
「驚かせてごめんね。もう帰るよ」
「……うん」
わたしはこくりと頷いた。
帰ってしまうのだ、と思った。それは当たり前のことなのに、どうしてだろう。胸の奥がほんの少しだけ、すうっと冷たくなった。
男の子は草の上の上着を拾い上げて、肩に引っかけた。それから塀のほうへ歩きかけて――ふと、足を止めた。
振り返って、わたしの顔をじっと見る。
「ねえ」
「……なあに?」
「君、いつもここにひとりでいるの?」
「うん」
「お友達は?」
「おともだち?」
わたしはその言葉を口の中で転がしてみた。
知っている言葉だった。お話の中の子どもたちには、たいていお友達がいた。けれどわたしには、それが誰のことを指すのか分からなかった。
「いない、と思う」
「お父さんやお母さんは?」
「お父さまとお母さまは、お屋敷にいるの。わたしは、こっちにいなきゃいけないの」
「どうして?」
「わたしは、祝福の子だから」
男の子の眉が、ぴくりと動いた。
「祝福の子?」
「うん。祝福の子は、みんなと同じようにはお外に出られないんですって」
わたしは少しだけ胸を張った。
祝福の子、という言葉が、そのときのわたしはまだ好きだったから。自分が何か特別なものに選ばれたような気がして、口にするたびに胸の中に小さな灯りがともったから。
けれど男の子は、ちっとも感心したような顔をしなかった。
かわりに、眉をぎゅっと寄せた。
「変なの」
「……え?」
「祝福されてるのに、外に出られないの? それって、祝福じゃなくて、閉じこめられてるだけじゃないか」
わたしはきょとんとした。
男の子が何を言っているのか、よく分からなかった。
閉じこめられている。
その言葉は、わたしの知っている「祝福」とはまるで違う形をしていた。けれど、どうしてだろう。なぜかその言葉は、すとんと胸の奥のどこかにはまってしまって、なかなか出ていこうとしなかった。
「君、名前は?」
男の子が尋ねた。
「リシェル」
「リシェル」
男の子はわたしの名前を、確かめるようにゆっくりと繰り返した。
名前を呼ばれることなら、それまでにもあった。
お母さまはときどき離れにやってきて、「リシェル」とわたしを呼んだ。けれどお母さまのその声は、いつもわたしの少し向こう側を見ているようで、名前というより何かの合図のように聞こえた。ハンナは「お嬢さま」としか呼ばなかった。
こんなふうに、わたしの顔をまっすぐに見ながら、大切な言葉を確かめるみたいに名前を呼ばれたのは――初めてだったかもしれない。
「あなたの名前は?」
わたしが尋ね返すと、男の子は少しだけ困った顔をした。
「……ごめん。言えないんだ」
「どうして?」
「いろいろあって。本当は、こんなところに来ちゃいけない立場なんだ」
男の子はそう言って、ばつが悪そうに目をそらした。
わたしは少しだけ考えた。
名前を言えない男の子と、お外に出られない女の子。
なんだか、お話の中みたいだと思った。
「じゃあ、わたしたち、おんなじね」
「え?」
「わたしもね、本当は誰とも会っちゃいけないの。だから、おんなじ」
男の子は目をぱちぱちさせて、それから、ぷっと吹きだした。
「そうだね。おんなじだ」
男の子は笑った。
今度は鷹を捕まえたときよりも、ずっと柔らかく。
わたしは、どうしていいのか分からなくて、膝の上の白い花をぎゅっと握りしめた。
◇ ◇ ◇
帰ると言ったはずの男の子は、それからもしばらく庭にいた。
鷹を林檎の木の低い枝に止まらせて、わたしの隣に座りこんだ。
「ねえリシェル。それ、ちょっと貸して」
男の子はわたしの膝の上の白い花を指さした。
わたしがおそるおそる差し出すと、男の子は花を何本か手に取って、茎と茎を器用に絡めはじめた。一本を折り曲げて、次の一本を巻きつけて、またその次を。
白い花が、少しずつ輪の形になっていく。
「何をしているの?」
「花冠。知らない?」
「……知らない」
「女の子はみんな作るものだと思ってた。妹がいたら、毎日作らされてたって、乳母がよく言ってたよ」
男の子の指は、少しだけ不器用だった。ときどき茎が折れたり、花がぽろりと落ちたりする。そのたびに男の子は「あっ」と小さく声を上げて、むきになったように次の花を手に取った。
わたしは隣でじっとその手元を見ていた。
並べて、数えて、また並べるだけだった白い花が、男の子の手の中でまるで違うものに変わっていく。それが不思議で、目が離せなかった。
「できた」
しばらくして、男の子は小さな花の輪を掲げてみせた。
あちこちから茎が飛び出していて、ところどころ花の向きもばらばらだった。きれいな形とは、とても言えなかった。
男の子は少しだけ顔をしかめた。
「……思ったより下手だな」
「ううん」
わたしは首を横に振った。
下手かどうかなんて、わたしには分からなかった。ただ、白い花の輪がお日さまの光を受けてきらきらしていて、それがとてもきれいに見えた。
男の子は、その花冠をわたしの頭の上にそっと載せた。
「はい。祝福の子には、冠が必要だろ」
頭の上に、ふわりと軽いものが載る。
白い花の匂いがした。
わたしは両手でそっと花冠に触れて、それから男の子の顔を見上げた。
男の子は、少しだけ照れくさそうに笑っていた。
「リシェルもやってみなよ」
「わたしが?」
「うん。教えてあげる。最初はこうやって、二本を十字に重ねて――」
男の子はわたしの手を取って、茎の絡め方を教えてくれた。
誰かに手を取られるのも、わたしには初めてのことだった。男の子の手は温かくて、少しだけ土の匂いがした。
わたしの最初の花冠は、男の子のものよりずっとひどい出来だった。輪にもならずに、途中でばらばらにほどけてしまった。
わたしはがっかりして、ほどけた花を見下ろした。
すると男の子が、声を上げて笑った。
「あはは、ひどい」
「……ひどくないもん」
「ひどいよ。僕のよりひどい」
「あなたのだって、ひどかったもん」
自分の口から出た言葉に、自分でびっくりした。
誰かに言い返したのなんて、生まれて初めてだった。
叱られる、と思った。けれど男の子は叱らなかった。むしろもっとおかしそうに笑って、草の上に寝転がってしまった。
「そうだね。二人ともひどい」
空を見上げて笑う男の子の顔を見ていたら、わたしの口元も、どうしてだかむずむずしてきた。
頬のあたりがくすぐったくて、胸の奥がそわそわして、じっとしていられないような感じ。
それが何なのか、わたしには分からなかった。
分からないまま、わたしはもう一度、白い花を二本手に取った。
今度こそちゃんと輪にしてみせる、と思いながら。
――あとになって、わたしは知ることになる。
あの日、わたしの胸の奥でそわそわしていたものの名前を。
あれが、「楽しい」という気持ちだったのだと。
花を並べて数えるのとは違う。誰かと一緒に何かをして、失敗して、笑いあう。たったそれだけのことが、こんなにも胸を温かくするのだということを。
わたしはあの日、生まれて初めて――「遊ぶ」ということを知ったのだ。
◇ ◇ ◇
お日さまが傾きはじめた頃、塀の向こうから遠く角笛の音が聞こえてきた。
男の子が、はっとしたように起き上がった。
「まずい。探しに来てる」
男の子は慌てて上着を拾い上げ、林檎の枝の鷹を呼び寄せて腕に止まらせた。
わたしは草の上に座ったまま、その背中を見ていた。
今度こそ、本当に帰ってしまうのだ。
さっきよりもずっと冷たいものが、胸の奥にすうっと広がった。
男の子は塀の下まで駆けていって、そこで振り返った。
「リシェル」
「……なあに」
「明日も、ここにいる?」
わたしは目をまたたいた。
「いるよ。わたし、ずっとここにいるもの」
「じゃあ、明日も来る」
「……本当に?」
「本当に。今度は、鷹なしで来るよ」
男の子はそう言って、にっと笑った。
それから塀の出っ張りに足をかけて、来たときと同じように、ひらりとてっぺんまで登っていった。
塀の上で、もう一度だけ振り返る。
「その花冠、なくすなよ」
そう言い残して、男の子の姿は塀の向こうに消えた。
角笛の音が少しずつ遠ざかっていく。
あとには春の風と、林檎の花の匂いと、草の上に散らばった白い花びらだけが残された。
わたしは頭の上の花冠に、そっと手を伸ばした。
ちゃんとそこにあった。
不格好で、あちこち茎が飛び出していて、もうしおれはじめていたけれど。
それでも、ちゃんとそこにあった。
――明日も、来る。
その言葉を胸の中で何度も繰り返しながら、わたしは塀のてっぺんを見上げていた。
ハンナが帰ってくる足音が聞こえるまで、ずっと。
◇ ◇ ◇
目を開けると、そこは暗い牢の中だった。
格子窓の向こうは、もうすっかり夜の色に沈んでいる。
わたしは藁の上で、しばらく天井を見上げていた。
頬が、少しだけ温かかった。
夢の中で、わたしは笑っていた気がする。不格好な花冠を頭に載せて、名前も知らない男の子と、草の上で。
――遊ぶ、ということ。
あの日まで、わたしはその言葉の意味を知らなかった。
あの日から十年近くが経って、今のわたしはまた、その意味を忘れかけている。
わたしは胸元に手を当てた。
布の合わせ目にくくりつけた、小さな丸い形を確かめる。
あの子が、明日も来ると言ってくれた日のこと。
そしてあの子が、本当に次の日もやってきてくれたこと。
その先にあったことを思い出そうとすると、また胸の奥がきゅうっと痛んだ。
わたしは目を閉じて、もう少しだけ、あの春の庭の夢の続きを見ていたいと思った。




