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第5話 銀色のボタン

六日目の朝、ドルフさんは水を置いていかなかった。

 差し入れ口の代わりに、鉄扉そのものが開いた。ランプの明かりが牢の中へ流れこんできて、わたしは藁の上で身体を縮めた。

「起きろ、お嬢様」

 ドルフさんは牢の中に入ってくると、ランプを壁の鉤に引っかけた。

 大きな身体が狭い牢をさらに狭くする。酒と汗の混じった匂いがした。わたしは壁に背中を押しつけたまま、ドルフさんの顔を見上げた。

「……何を、するんですか」

「探し物だよ」

 ドルフさんはそう言って、わたしの寝床の藁を足で乱暴に蹴散らした。

「奥様がな、お疑いなんだ。あんたが泣けないだなんて、そんなはずはない。本当は夜中にこっそり泣いて、出てきた石をどこかに隠してるんじゃないかってな」

「隠してなんか……」

「それを確かめるのが俺の仕事なんだよ。どいてな」

 太い腕がわたしの肩をつかんで、藁の上から引きずり下ろした。

 冷たい石の床に膝を打ちつける。鎖が鳴った。痛みに息が詰まったけれど、声は出なかった。声を出すための力が、もう身体のどこにも残っていないような気がした。


 ドルフさんは藁を一束ずつつかんでは振り、床に叩きつけていった。

 湿った藁の匂いが牢いっぱいに広がる。細かな屑が舞い上がって、ランプの光の中できらきらと漂った。

 わたしはその光景を、床に座りこんだまま黙って見ていた。

 あの藁は、わたしの寝床だった。

 夜の寒さをしのぐための、たったひとつの場所だった。

 それがひとつかみずつ引き裂かれて、牢の隅へ放り投げられていく。明日の夜からわたしはどこで眠ればいいのだろう。そんなことを考えたけれど、それを口にしたところで何も変わらないことも分かっていた。

「……ねえな」

 すっかり藁を散らかし終えたドルフさんが、舌打ちをした。

「本当に泣いてねえのか、あんた」

「泣いて、いません」

「強情な娘だ」

 ドルフさんは牢の中をぐるりと見回した。床の割れ目を足先で探り、壁の石の継ぎ目に指を突っこみ、水桶を傾けて中を覗く。

 どこを探しても、石は見つからなかった。

 当たり前だった。

 わたしは本当に、泣いていなかったのだから。

「まあいい。これで奥様にも申し開きができる」

 ドルフさんは膝の埃を払い、ランプに手を伸ばしかけた。

 その手が、ふと止まった。

「……ん?」

 ドルフさんの目が、わたしの胸元に留まっていた。


 わたしは息を呑んだ。

 床に引きずり下ろされたときに、襟元がずれたのだ。薄い肌着の合わせ目から、細い紐が覗いていた。首にかけていつも服の奥に隠している、古い麻の紐。

 その先に結んであるものを、わたしはずっと誰にも見せずにきた。

 お母さまにも。お兄さまにも。ドルフさんにも。

 この牢に入れられた日から、ずっと。

「なんだ、そりゃあ」

「な、なんでも、ありません」

 わたしは両手で胸元を押さえた。

 それがいけなかった。ドルフさんの目が、獲物を見つけた獣のように細くなった。

「なんでもねえなら、見せてみな」

「いやです」

「いやだあ?」

「これは、石じゃ、ありません。泣いて出したものじゃ、ないんです。だから――」

「それを決めるのは俺だ」

 ドルフさんの大きな手が伸びてきた。

 わたしは身体をねじって、その手から逃れようとした。鎖が足首に食いこむ。床を這うようにして牢の隅へ下がる。

 けれどそこはもう壁だった。

 ドルフさんはわたしの手首をつかんで、胸元から引きはがした。


「放して……っ」

 声が出た。

 自分でも驚くほど大きな声だった。この牢に入れられてから、こんな声を出したことは一度もなかった。

 わたしはつかまれていないほうの手で、もう一度胸元を押さえた。服の上から、その形を手のひらに感じる。小さくて、丸くて、少しだけ冷たいもの。

 これだけは。

 これだけは、だめだ。

「放してください! それだけは、それだけは……!」

「うるせえな、何を必死になってやがる」

 ドルフさんはわたしの指を一本ずつこじ開けようとした。わたしは歯を食いしばって、指に力をこめた。爪が手のひらに食いこむ。骨がきしむ。

 それでも放さなかった。

 お腹が空いて、ふらふらで、ついさっきまで起き上がることさえできなかったのに、どこにこんな力が残っていたのだろう。

「……ちっ」

 ドルフさんが業を煮やして、紐そのものを引っ張った。

 ぶつり、と嫌な音がした。

 古い麻の紐が切れたのだ。

 服の奥から、小さなものが転がり出た。それは石の床の上で一度だけ跳ねて、ちりん、と澄んだ音を立て、ランプの光の届かない暗がりへ転がっていった。

 わたしは何も考えなかった。

 ドルフさんの腕を振りほどいて、床に這いつくばるようにして、その暗がりへ手を伸ばした。

 指先に、冷たいものが触れる。

 わたしはそれを両手で包みこみ、身体を丸めて、胸の奥に抱きしめた。


   ◇ ◇ ◇


「……なんだ、そりゃ」

 頭の上から、ドルフさんの間の抜けた声が降ってきた。

「ボタンか?」

 わたしは答えなかった。

 答えられなかった。丸めた身体の中で、心臓が痛いほど激しく打っていた。

「見せてみな。……おい」

 ドルフさんの靴の先が、わたしの背中を軽く小突いた。

 わたしは首を横に振った。何度も、何度も。

 しばらく沈黙が続いた。

 やがて、ドルフさんは深々とため息をついた。

「呆れたな。そんながらくたに命でもかけてるみてえな顔しやがって」

「……」

「石かと思ったじゃねえか。ボタンなんぞ、どうせ安物だろう。真っ黒にくすんでるじゃねえか」

 ドルフさんはわたしの手の隙間から覗いたそれを、ランプの明かりにかざすようにして眺めた。

 それから、つまらなそうに鼻を鳴らした。

「奥様に持っていったところで、叱られるのは俺のほうだな。こんなもん拾ってくる暇があったら、あんたを泣かせる方法でも考えろってよ」

 ドルフさんはランプを壁の鉤から外した。

 わたしを牢の隅に転がしたまま、背を向ける。

「好きにしな。ボタンを抱えて飢え死にしたところで、俺の知ったことじゃねえ」

 鉄扉が閉まった。

 鍵のかかる音がして、足音が遠ざかっていった。

 暗がりの中で、わたしはまだ身体を丸めたまま、両手の中のものを抱きしめていた。


 どれくらいそうしていただろう。

 心臓の音が少しずつ静かになっていく。荒い息が、少しずつ普通の呼吸に戻っていく。

 格子窓から差しこむ細い光を頼りに、わたしはそっと手を開いた。

 手のひらの上に、ボタンがひとつ載っていた。

 小指の爪ほどの、丸い銀のボタン。

 ドルフさんの言うとおり、表面はすっかり黒くくすんでしまっている。もともとどんな色をしていたのか、今ではもう分からないほどだった。縁のところが少しだけ欠けていて、糸を通す小さな穴には、ほつれた古い糸が一本だけ絡まったままになっている。

 きれいなものではなかった。

 金貨百枚どころか、パンひとつの値段にもならないかもしれない。

 それでも、これはわたしの宝物だった。

 わたしが持っている、たったひとつの宝物だった。

「……よかった」

 声がかすれた。

「よかった……」

 わたしはボタンを頬に押し当てた。

 冷たい金属の感触が、火照った頬にしみた。


 指先で、ボタンを裏返してみる。

 裏側には、小さな模様が刻まれている。細い線で彫られた、何かの図柄。翼を広げた鳥のようにも見えるし、花のようにも見える。その上に、小さな冠のような形がひとつ。

 この模様が何を意味するのか、わたしは知らない。

 知る方法もなかった。ここには本もないし、尋ねられる人もいない。

 それでもわたしはこの牢に入れられてから、眠れない夜が来るたびに、この模様を指先でなぞってきた。何度も、何度も。今では目を閉じていても、どこにどんな線があるのか分かるくらいに。

 なぞっていると、少しだけ落ち着くのだ。

 この冷たくて暗い場所の外に、たしかに別の世界があったことを、思い出せるような気がするから。


 このボタンをくれたのは、ひとりの男の子だった。

 ずっと昔。わたしがまだ地下ではなく、あの古い離れで暮らしていた頃。

 お屋敷の裏手の、誰も来ない小さな庭で。

 その子の顔を、わたしはもうはっきりとは思い出せない。どんな声をしていたのかも、どんな服を着ていたのかも、年月の向こうにぼやけてしまった。

 覚えているのは、ほんの少しのことだけだ。

 お日さまの匂いがしたこと。

 わたしの名前を呼んで、笑ってくれたこと。

 そして、このボタンを、わたしの手のひらにそっと握らせてくれたこと。

 ――そのとき、あの子は何と言っていたのだったか。

 わたしは目を閉じた。

 思い出そうとすると、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。あたたかくて、痛くて、どうしていいのか分からなくなる。だからずっと、深く思い出さないようにしてきた。

 思い出してしまったら、きっと泣いてしまうから。


 目の奥が熱かった。

 鼻の奥がつんと痛んで、喉がひくりと震えた。

 わたしは慌ててボタンを胸に押し当て、唇を噛んだ。

 今は泣けない。

 泣いたら、この涙も石になる。明日の朝ドルフさんがやってきて、床に転がる石を見つけて、それをお母さまのところへ持っていく。

 そうしたら、この思い出まで――金貨百枚の値段をつけられて、どこかの知らない誰かのものになってしまう。

 それだけは、いやだった。

 あの子のことだけは、誰にも売りたくなかった。


 わたしは切れた紐の端を探して、震える指で結び直した。

 短くなってしまった紐は、もう首にはかけられなかった。だからボタンを肌着の内側の、胸元の布の合わせ目に、ほつれかけた糸でくくりつけた。

 不格好で、今にもほどけてしまいそうだった。

 それでも、心臓のいちばん近くに戻ってきてくれた。

 散らかされた藁を、手探りで少しずつかき集める。寝床の形にはならなかったけれど、背中を預けられるくらいにはなった。

 わたしはその上に横になって、胸元に手を当てた。

 服の上から、小さな丸い形を確かめる。

 ちゃんとある。

 ここにある。

 ――わたしには、何もない。

 ずっとそう思っていた。

 でも、本当はひとつだけ、あったのだ。

 誰にも値段をつけられない、わたしだけのものが。


 格子窓の向こうで、光がゆっくりと傾いていく。

 わたしは胸元のボタンを握りしめたまま、目を閉じた。

 瞼の裏に、ぼんやりとした庭の景色が浮かんでくる。

 緑の匂い。

 陽だまりの温かさ。

 塀の向こうから、ひょっこりと顔を出した、知らない男の子。

 ――あの日、あの子は、どうしてあんなところにいたのだろう。

 六日目の夕暮れの中で、わたしは久しぶりに、遠い昔の夢を見た。

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