第4話 一粒百金貨
「まあ、なんて美しいお色なのかしら」
ベルクハイム伯爵夫人の午後の茶会は、その日もいつもどおりの華やかさに満ちていた。
南向きの広いサロンには薔薇の香りが漂い、銀のティーポットのまわりでは色とりどりのドレスをまとった貴婦人たちが扇を揺らしている。帝都の社交界で「品評会」と呼ばれているこの集まりは、表向きはただの茶会だった。けれど実際には、それぞれが手に入れたばかりの宝飾品やドレスを披露しあい、互いの家の勢いを値踏みするための場所でもあった。
その日、いちばん多くの視線を集めていたのはヴァレンティア侯爵夫人の胸元だった。
「ねえ侯爵夫人、そちらの首飾り。ずいぶんと大きな石が加わったのではなくて?」
「あら、お気づきになりました?」
侯爵夫人は扇の陰でおっとりと微笑んだ。
首飾りの中央で、青黒い石がひときわ深く光っている。窓から差しこむ午後の陽射しを受けても、その石は少しも明るくならなかった。まるで夜の底を切り取ってきたかのように、見つめる者の視線をしんと吸いこんでいく。
「蒼涙石ですわね。これほどの大粒は、わたくし初めて拝見しましたわ」
「本当に。どちらでお求めになったの?」
貴婦人たちが身を乗り出す。
侯爵夫人はほんの少しだけ間を置いてから、首飾りの石に指先を添えた。
「たまたまご縁がございましたの。わたくしどもの領地の近くには、昔から良い石の出る場所がございますから」
「まあ、うらやましい」
「ヴァレンティア家はいつも本当に良いものをお持ちね」
口々に上がる感嘆の声を、侯爵夫人は目を細めて聞いていた。
褒められているのは石だった。けれどその賛辞は、そのまま首飾りを身につけた彼女自身への賛辞として胸に染みこんでいく。この瞬間のために、彼女は冷たい地下の石段を何度も降りてきたのだ。
「ところで侯爵夫人。今夜の『夜会』には、ご主人もいらっしゃるのかしら」
ベルクハイム伯爵夫人が、扇で口元を隠しながら声をひそめた。
侯爵夫人はにっこりと笑った。
「ええ。今夜もきっと、良いものをお目にかけられると思いますわ」
◇ ◇ ◇
帝都の旧市街の外れに、もう何十年も使われていない古い劇場がある。
正面の扉は板で打ちつけられ、外壁には蔦が絡みついていた。通りを行き交う人々は、その建物がとうの昔に廃墟になったものだと信じて疑わない。
けれど月に一度、夜も更けた頃になると、劇場の裏手の小さな扉の前に、紋章を隠した馬車が一台、また一台と止まるのだった。
降りてくるのは、仮面をつけた紳士や淑女たち。
彼らは無言のまま扉をくぐり、地下へと続く細い階段を降りていく。その先にあるのは、かつて舞台装置をしまうために使われていた広い地下室だった。今では床に深紅の絨毯が敷かれ、壁には燭台が並び、中央には黒い布をかけた台が据えられている。
この場所を知る者たちは、ここを《月影の間》と呼んでいた。
「ずいぶん集まっていますね」
ヴァレンティア家の長男ユリウスは、銀の仮面の下で退屈そうにあくびを噛み殺した。
地下室の奥、ほかの客たちからは見えにくい一段高い席に、彼は父と並んで腰かけていた。ここは品を出す側の人間だけが座ることを許された場所だった。
「今夜の目玉は我が家の品だ。どの家も、それを知って来ている」
隣の侯爵ギルベルトは、仮面もつけずに静かに客席を見渡していた。
売る側の人間は顔を隠す必要がない。この場で素性を隠さなければならないのは、むしろ買う側のほうだった。
「あちらの赤い仮面は、南方の商会の者だな。その隣は……ああ、ローデン伯爵か。屋敷の東翼を建て増しすると聞いている。その資金の当てを探しに来たのだろう」
「石で屋敷を建てるんですか?」
「石を買って、石を担保に金を借りる。金を借りて、屋敷を建てる。蒼涙石はそういうふうに使うものだ」
「へえ」
ユリウスは気のない相槌を打った。
「一粒の石から屋敷が生えてくるなんて、まるで手品ですね」
「手品ではない。商売だ」
侯爵はそれ以上何も言わなかった。
やがて燭台の火が少しだけ落とされ、黒い布をかけた台の前に一人の男が進み出た。
痩せた身体に燕尾服をまとい、顔の上半分を白い仮面で覆った競売人だった。
「紳士淑女の皆さま。今宵も月影の間へようこそお越しくださいました」
よく通る、どこか芝居がかった声だった。
「皆さまもご承知のとおり、この会ではひとつだけ決まりごとがございます。品の出所について、決してお尋ねにならないこと。どこで採れ、誰の手を経て、いかにしてここへ運ばれてきたのか。それを問うことは、この場の品位を損なう行いとされております」
客席から、心得たような小さな笑いが漏れる。
「それでは、今宵の最初の品をお目にかけましょう」
競売人が黒い布を取り払った。
台の上には、濃紺のビロードを敷いた小箱が置かれていた。その中央に、青黒い石がひと粒だけ載っている。
燭台の火が揺れた。
地下室のあちこちで、息を呑む気配がした。
「ご覧ください。蒼涙石でございます。大きさ、色の深さ、純度、いずれも近年まれに見る逸品。宝飾品として身につければ、持ち主の魔力を穏やかに高め、邪な呪いを退けると申します。魔導炉の核とすれば、小さな館ひとつの灯りをひと月は賄いましょう」
競売人は小箱を両手で捧げ持ち、客席へ向けてゆっくりと巡らせた。
「帝国広しといえども、これほどの石を定期的にお出しできる鉱脈は、ほかにございません」
鉱脈。
ユリウスが、仮面の下でふっと笑った。
「開始値は、金貨百枚から」
手が上がるのは早かった。
「百二十」
「百五十」
「百八十」
仮面の客たちが次々に値を叫ぶ。赤い仮面の南方商人が、黒い羽根飾りの貴婦人が、金縁の仮面をつけた恰幅のいい紳士が。
金貨二百枚を超えたところで声はいくらか減った。二百五十を超えると、残ったのは二人だけになった。
「二百七十」
「……三百」
「三百二十」
最後に値を上げたのは、ローデン伯爵だった。
相手の貴婦人は扇を強く閉じ、悔しげに首を横に振った。
「三百二十。三百二十でよろしゅうございますね?」
競売人が木槌を振り上げる。
「――決まりました。今宵の最初の蒼涙石、金貨三百二十枚にて落札でございます」
乾いた木槌の音が、地下室に響いた。
小さな拍手が起こる。ローデン伯爵は満足げに胸を張り、隣に座っていた夫人らしき女性の手を取ってその甲に口づけた。
「これで東翼の話は決まりだな。いや、いっそ庭園に噴水もつけるか」
「まあ、あなたったら」
ひそやかな笑い声が、燭台の火と一緒に揺れていた。
「三百二十か」
ユリウスが指を折って数えた。
「最初の一粒でそれなら、今夜の十粒で……いや、首飾りに一粒取られたから九粒か。まあ、新しい馬を二頭は買えますね。いや三頭かな」
「無駄遣いをするな」
「分かってますよ。冗談です」
ユリウスは肩をすくめ、それから少しだけ声を落とした。
「しかし父上。あれが最近泣かないという話、どうするんです? 母上はずいぶん焦っていましたよ」
「放っておけ」
侯爵は壇上から目を離さないまま答えた。
「一代目の記録にも、同じことが書いてある。母体は時折、強情を起こす。だが長くは続かん。腹が減れば泣く。寒ければ泣く。そういうふうにできている」
「僕も言ってやりましたよ。腹が減れば犬でも芸をするって」
「言葉が過ぎる。だが、間違ってはいない」
壇上では次の小箱が運ばれてきていた。競売人が黒い布に手をかけ、客席がまた静まり返る。
侯爵は、ふと思い出したように付け加えた。
「それよりも気がかりなのは、帝都の様子だ」
「皇帝陛下のことですか?」
「若い皇帝は、古い家の慣習を嫌う。先月も北の伯爵家が、密輸の咎で取り潰された。この場のことも、決して表に出してはならん」
「大げさですね。こんな地下室まで、陛下がわざわざ降りていらっしゃるものですか」
ユリウスは笑った。
侯爵は答えなかった。
ただ、壇上で掲げられた二つ目の石を、何の感情もない灰色の瞳でじっと見つめていた。
その夜、月影の間で競り落とされた蒼涙石は九粒。
合わせて金貨二千九百枚あまりが、ヴァレンティア家の懐に入った。
ひと粒の石はある伯爵家の新しい東翼になり、別のひと粒は南方の商会の魔導炉になった。またひと粒は、どこかの令嬢の婚礼の首飾りになるのだという。
それを買った人々は、誰ひとりとして、その石がどこから来たのかを知らなかった。
知ろうともしなかった。
知らないということが、この場所の決まりだったから。
◇ ◇ ◇
五日目の夜だった。
お母さまが「泣けるようになるまで食事は要らない」と言ってから、五回目の夜。
わたしは藁の上に横になって、格子窓の向こうの暗がりを見上げていた。
お腹の空いた感じは、もうどこか遠くに行ってしまっていた。代わりに身体じゅうがふわふわと軽くて、頭の奥が少しだけ痺れている。起き上がろうとすると目の前が白くなるので、わたしはもう朝から、ほとんど動かずにいた。
ドルフさんは毎朝、水だけを置いていく。
差し入れ口を開けるたびに「まだ泣かねえのか」と訊いて、わたしが首を横に振ると、呆れたように舌打ちをしていく。
今朝は、ほんの少しだけ違った。
「お嬢様よ。あんた、いくらだか知ってるか」
「……いくら?」
「あんたの石だよ。ひと粒がいくらで売れるか」
わたしは首を横に振った。
知らなかった。考えたこともなかった。
石はお母さまが拾って、どこかへ持っていく。わたしが知っているのはそこまでだった。
「金貨百枚からだとさ」
ドルフさんはそう言って、乾いた声で笑った。
「百枚だぞ。俺が一生かかっても拝めねえような額だ。それがあんたの目から、ぽろぽろ出てくる。それなのにあんたは、泣くのをやめて自分で飢えてる。まったく、贅沢な話だよなあ」
差し入れ口が閉まった。
わたしはしばらく、その言葉の意味を考えていた。
金貨百枚。
それがどれくらいのものなのか、わたしにはうまく想像できなかった。金貨というものを、わたしはたぶん一度も見たことがないのだと思う。
でも、パンなら分かる。
わたしの手のひらくらいの、硬い丸パン。あれがいくらで買えるのかは知らないけれど、きっと金貨一枚よりはずっと安いのだろう。
だとしたら、金貨百枚でどれだけのパンが買えるのだろう。
わたしが一生かかっても食べきれないくらいだろうか。
それとも、この牢いっぱいに積み上げても、まだ余るくらいだろうか。
――そのひと粒と引き換えに、わたしがもらっていたのは、パンひとつとスープ一杯だった。
おかしくて、笑いそうになった。
笑おうとしたら、喉の奥がひくりと鳴った。
目の奥が、じわりと熱くなった。
わたしは慌てて唇を噛んだ。
泣いてはだめだ。
今泣いたら、その涙はまた金貨百枚になる。
それはきっとどこかの誰かの首飾りになって、どこかの誰かのお屋敷になって、どこかの誰かの笑顔になる。わたしの知らない場所で、わたしの知らない人たちが、わたしのことなんて何ひとつ知らないまま、その石を見てうっとりと目を細めるのだ。
お母さまがそうしていたように。
そのとき、わたしは初めて気がついた。
あの石が売られていった先で、あれがわたしの涙だったと知っている人は、たぶん一人もいない。
わたしがどんな顔で泣いたのか。
お腹が空いていたのか、寒かったのか、痛かったのか。
誰にどんな言葉を言われて、どんなふうに胸が潰れそうになったのか。
そんなことは石には何ひとつ残らない。石はただ青くて黒くて、きれいで、値段がつくだけだ。
わたしの涙は、この屋敷の外では、わたしのものですらなかったのだ。
格子窓の向こうで、夜風がかすかに鳴っていた。
その風のずっと向こうには帝都があって、明かりの灯った大きなお屋敷がたくさんあって、今この瞬間も、わたしの石で灯された光の下で、誰かが楽しげに笑っているのかもしれない。
わたしは目を閉じた。
金貨百枚の涙を、瞼の裏にぎゅっと押しこめる。
どこにもこぼさないように。
誰の手にも渡らないように。
お腹の奥で、忘れていた空腹がかすかに鳴った。
わたしはその音を聞きながら、声に出さずに数を数えた。
――五日目。
今夜も、石の床の上には何も転がっていない。
それだけが、今のわたしが持っている、たったひとつの値段のつかないものだった。




