第3話 泣かないという復讐
その朝、差し入れ口から押しこまれた盆は引っこめられなかった。
「奥様からのお達しだ。三日は食わせてやれとさ」
ドルフさんはそう言うと、わたしが何か答えるより先に差し入れ口を閉めてしまった。
木の盆の上には、硬いパンと、少しだけ具の浮いたスープと、それから小さな林檎がひとつ載っていた。
林檎。
わたしはしばらくそれを見つめたまま動けなかった。赤くて、つやつやしていて、この灰色の牢の中にはまるで似合わない色をしていた。
そっと手に取ってみる。冷たくて、ずしりと重い。鼻を近づけると、甘酸っぱい香りがした。
――上出来ね。
お母さまの声がよみがえった。
この林檎は、あの十一粒の石と引き換えにもらったものなのだ。わたしの涙が石になって、その石がお母さまを喜ばせて、そのご褒美としてここにある。
そう思ったとたん、手のひらの中の林檎が急に知らない果物みたいに見えてきた。
わたしはそれを齧った。
甘かった。泣きたくなるくらい甘かった。
けれどわたしは泣かなかった。泣いたら、この甘さまで石に変わってしまいそうな気がしたから。
食べ終えてから、わたしは膝を抱えて長いこと考えていた。
考えることなら、ここではいくらでもできる。時間だけは、この牢の中にありあまるほどあるのだから。
お母さまの笑顔のこと。
ハンナの震えていた手のこと。
祝福の子、という言葉のこと。
そして、あの日から少しずつ胸の底に沈んでいった、ひとつの問いのこと。
――わたしが泣かなかったら、どうなるのだろう。
今まで考えたことがなかったわけではない。けれどいつも、考えかけてはすぐにやめていた。泣かなければ食事がもらえない。泣かなければ叱られる。泣かなければ、お母さまはがっかりした顔をする。その先を想像するのが怖かったのだ。
でも、昨日のお母さまの笑顔を見てしまった今は、少しだけ違って思えた。
あの笑顔は、石のためのものだった。
だったら、石がなければ――お母さまはあんなふうに笑わない。
お父さまも喜ばない。お兄さまも、誰も喜ばない。
それは悲しいことのはずなのに、どうしてだろう。胸の奥のどこかで、ほんのかすかに、冷たい風が吹き抜けていくような感じがした。
怖いような。
それでいて、少しだけ息がしやすくなるような。
◇ ◇ ◇
お母さまが次にやってきたのは、それから四日後のことだった。
約束どおり三日間食事をもらえて、四日目の朝には盆が来なかった。だからわたしは、今日だと分かっていた。
絹の衣擦れの音。甘い花の香り。
鉄扉が開いて、ランプの明かりの中にお母さまが立った。今日は薄い水色のドレスだった。胸元の首飾りには、この前見たときよりも大きな石がひとつ増えていた。
あれは、わたしの石だ。
あの日こぼれた十一粒のうちの、いちばん大きなひと粒。
「おはよう、リシェル。林檎は美味しかったかしら」
「……はい。ありがとうございました」
「よかったわ。あなた、昔から林檎が好きだったものね」
お母さまはやさしく微笑んだ。
わたしが林檎を好きだったなんて、わたし自身も知らなかった。けれどお母さまがそう言うのなら、きっとそうだったのだろう。そう思ってしまいそうになる自分を、わたしはぐっと押しとどめた。
「今日もね、あなたにお話をしに来たの」
お母さまは入口の一歩手前に立ったまま、胸の前で手を組んだ。
「この前のあなたは、本当にいい子だったわ。お父さまもとても喜んでいらしてね、あなたのことを褒めていらしたのよ。やればできる子なんだって」
お父さまが、わたしを褒めた。
その言葉が胸の柔らかいところに触れようとする。わたしは膝の上で、爪が手のひらに食いこむほど強く両手を握りしめた。
「だから今日も、同じようにできるわよね?」
お母さまはこの前と同じ、子どもに言い聞かせるような声で言った。
「あなたが泣いてくれたら、また林檎を持ってきてあげる。ううん、今度は焼き菓子もつけてあげましょうか。蜂蜜のたっぷり入ったものよ。ね、リシェル」
わたしは答えなかった。
ただ、お母さまの胸元の石を見ていた。
「リシェル?」
「……」
「聞こえているの?」
「聞こえて、います」
「それなら、ほら」
お母さまが小さく首をかしげる。
「泣いてちょうだい」
鼻の奥がつんとした。
この前と同じだった。お母さまの声は穏やかで、やさしくて、その穏やかさの中に逃げ場がどこにもない。胸の奥から何かがせり上がってきて、目の縁がじわりと熱くなる。
――泣いたら、また石になる。
――石になったら、お母さまはまたあの笑顔を石に向ける。
――わたしのことは、一度も見ないで。
わたしは奥歯を噛みしめた。
唇の内側を、血の味がするまで噛んだ。
まばたきをしないように目を見開いて、胸の奥でせり上がってくるものを、両手で押しこめるようにして、ゆっくりと呑みこんだ。
ひと呼吸。
もうひと呼吸。
目の縁の熱さが、少しずつ引いていく。
「……リシェル」
お母さまの声の調子が、ほんのわずかに変わった。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
「いいえ」
「それなら、どうして」
「泣けません」
自分の口から出た言葉に、自分でいちばん驚いていた。
お母さまの顔から、ゆっくりと微笑みが消えていく。
「泣けない?」
「……はい。今日は、泣けないんです」
嘘だった。
本当は泣きそうだった。今だって、少しでも気を抜けば涙がこぼれてしまいそうだった。
でも、泣けないのではなかった。
わたしは、泣かないことにしたのだ。
お母さまはしばらく黙ってわたしを見下ろしていた。
その灰色がかった青い瞳が、はじめてまっすぐにわたしの顔を見ていた。ずっと見てほしいと思っていたはずなのに、いざそうされると、わたしは身体の芯まで凍えるような気がした。
「そう」
お母さまは静かに言った。
「泣けないのね」
「……はい」
「それじゃあ仕方がないわね。今日はもう帰るわ」
あっさりとした言い方だった。
怒鳴られるのでも、叩かれるのでもない。お母さまはドレスの裾をつまみ直して、くるりと背を向けた。
けれど石段に足をかける直前、ほんの少しだけ振り返って、こう言った。
「ドルフ。しばらくこの子に食事は要らないわ。泣けるようになるまで」
「かしこまりました、奥様」
「それからね、リシェル」
お母さまはにっこりと笑った。
石に向けていたあの笑顔とは違う、冷たくて薄い、紙を切り抜いたみたいな笑顔だった。
「あなたみたいな子が泣けなくなったら、いったい何が残るのかしらね」
鉄扉が閉まった。
わたしは暗がりの中で、ゆっくりと息を吐いた。
膝が震えていた。手のひらには爪の跡が赤く残っていて、唇の内側がずきずきと痛かった。
それでも、床には石がひとつも転がっていなかった。
◇ ◇ ◇
お兄さまがやってきたのは、それから二日後の夜のことだった。
ドルフさんのものでもお母さまのものでもない、硬い革靴の足音。石段を降りてくる調子が妙に軽くて、どこか苛立っているようにも聞こえた。
鉄扉が乱暴に開けられる。
ランプを掲げて立っていたのは、金色の髪をした背の高い人だった。
「なんだ。本当にまだ生きてるのか」
ユリウスお兄さまだった。
会うのはずいぶん久しぶりだった。前に顔を見たのがいつだったのか思い出せないくらいに。お兄さまはわたしの記憶の中よりずっと大人になっていて、けれど退屈そうに細められた灰色の目だけは昔のままだった。
「母上がご機嫌斜めでね。お前が石を出さないと、次の品評会に着けていく首飾りが仕上がらないんだそうだ」
お兄さまはランプを床に置くと、ためらいもなく牢の中へ入ってきた。
わたしは思わず藁の上を後ずさった。足首の鎖が鳴る。壁に背中がぶつかって、それ以上はもうどこにも下がれなかった。
「父上は放っておけとおっしゃるんだが、母上に泣きつかれてね。僕が様子を見てくることになった」
お兄さまはわたしの前にしゃがみこんだ。
そして、まるで売り物の品定めでもするようにわたしの顔を覗きこんだ。
「泣けないんだって?」
「……」
「嘘をつけ。お前が泣けないわけがないだろう。泣くことしか能がないくせに」
お兄さまの手が伸びてきて、わたしの顎をつかんだ。
冷たい指だった。無理やり顔を上げさせられて、ランプの光がまともに目に入る。
「いいか、リシェル。お前はこの家の役に立つために生かされてるんだ。それが分かっているなら、さっさと泣け」
「……いや、です」
「なんだって?」
「泣きたく、ありません」
お兄さまの目が、すうっと細くなった。
「泣きたくない?」
お兄さまは笑った。心の底からおかしそうに。
「お前に、泣きたいとか泣きたくないとか、そんなものがあると思ってるのか」
顎をつかむ指に力がこもる。
「いいことを教えてやろう。お前のことはな、全部書き残してあるんだ。何を食べさせたら石が大きくなったか、何を言ったら泣いたか、どれくらい放っておいたら音を上げたか。お前が生まれてから今日までのことが、全部だ」
「……」
「お前がどんな顔をして泣くのかなんて、この家の人間は誰ひとり気にしちゃいない。気にしているのは、お前がどれだけ泣くかだけだ。お前は人間じゃない。石を生むための入れ物なんだよ」
お兄さまの声は穏やかだった。
怒鳴ってはいなかった。ただ、当たり前のことを当たり前に説明しているだけ、というような声だった。
「母上の優しいやり方が効かないなら、別のやり方を試してもいいんだぞ。何なら飯を抜くだけじゃなくて――」
お兄さまはそこで言葉を切って、わたしの顔をじっと見た。
たぶん、わたしが泣きだすのを待っていたのだと思う。
言葉が胸に突き刺さっていた。人間じゃない。入れ物。全部書き残してある。ひとつひとつが冷たい針みたいに刺さって、そこから熱いものがじわじわと滲みだしてくる。
目の奥が痛かった。喉がひくりと震えた。
それでも、わたしは泣かなかった。
奥歯を噛んだ。唇を噛んだ。お兄さまの灰色の目をまっすぐに見返しながら、胸の奥でせり上がってくるものを、ひとつ残らず呑みこんだ。
長い沈黙だった。
やがて、お兄さまはつまらなそうに舌打ちをして、わたしの顎から手を離した。
「……気味の悪いやつだな」
立ち上がって、膝についた藁を払う。
「まあいい。どうせ何日かすれば音を上げるさ。腹が減れば、犬だって芸をする」
お兄さまはランプを拾い上げ、振り返りもせずに牢を出ていった。
鉄扉が閉まる重たい音。
鍵のかかる音。
遠ざかっていく足音。
それが完全に聞こえなくなるまで、わたしは壁に背中を押しつけたまま動けなかった。
◇ ◇ ◇
どれくらいそうしていたのか分からない。
ふと気がつくと、全身が細かく震えていた。寒さのせいなのか、お腹が空いているせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、自分でもよく分からなかった。
わたしは両手で自分の肩を抱いた。
顎にはまだ、お兄さまの指の感触が残っていた。
人間じゃない。
石を生むための入れ物。
その言葉を思い出すたびに、胸の奥がきしむように痛んだ。痛くて、苦しくて、今ここで声を上げて泣いてしまえたらどんなに楽だろうと思った。
でも、泣いたらだめだ。
今泣いたら、朝になってドルフさんが床に転がる石を見つける。その石はお母さまのところへ運ばれて、お母さまはまたあの笑顔で、それを光にかざすのだ。
お兄さまは「ほら見ろ」と笑うだろう。
お父さまは何も言わずに、どこかに何かを書きつけるのだろう。
――そんなの、いやだ。
わたしは膝に顔をうずめた。
わたしには、何もない。
この牢から出ていく足もない。鎖を断ち切る力もない。お兄さまに言い返せるような言葉も、お母さまを振り向かせる方法も、何ひとつ持っていない。
明日の朝ごはんさえ、自分では決められない。
だけど。
この涙だけは――。
こぼすかこぼさないかだけは、わたしが決められる。
そのことに気づいたとき、胸の奥で何かが小さく音を立てた気がした。
それはきっと、復讐と呼ぶにはあまりにもささやかなものだった。
誰を傷つけることもできない。誰に謝らせることもできない。わたしが泣かなかったところで、この家の人たちが困るのはほんの少しのあいだだけで、そのうちまた何か別のやり方を考えつくのだろう。
わたしはきっと、いつかまた泣いてしまう。
お腹が空きすぎて、寒すぎて、痛すぎて、どうしても耐えられなくなる日がきっと来る。
それでも――。
望まれたときに、泣かない。
石を待っている人たちの前で、一粒の涙もこぼさない。
それが、何も持たないわたしにできる、たったひとつの抵抗だった。
格子窓の向こうは、もうすっかり夜の色だった。
お腹がきゅうっと鳴った。わたしはそれを聞かなかったふりをして、藁の上に横になった。
目を閉じる。
瞼の裏が熱かった。
わたしはその熱さを抱えたまま、朝が来るのをじっと待っていた。
石の床の上には、今夜もひとつの石も転がっていなかった。




