第2話 ヴァレンティア家の祝福
あなたは祝福の子なのよ――。
小さかった頃、わたしは何度もそう言われて育った。
まだ地下ではなく、お屋敷の裏手にある古い離れで暮らしていた頃のことだ。窓には鉄の格子がはまっていたけれど、昼間はちゃんとお日さまの光が入ってきたし、寝台には薄い毛布もあった。今にして思えば、あの離れはずいぶん恵まれた場所だった。
わたしの世話をしてくれていたのは、年老いた乳母のハンナだった。
ハンナは口数の少ない人で、わたしが話しかけてもたいていは「ええ」とか「さようでございますね」としか答えてくれなかった。けれどときどき、わたしの髪を梳きながら小さな声で歌を口ずさんでくれることがあった。わたしはその時間が好きだった。
「ねえハンナ。祝福の子って、なあに?」
ある日そう尋ねると、ハンナの櫛がぴたりと止まった。
「……どなたが、そのようなことを」
「お母さまよ。わたしは祝福の子だから、みんなと同じようにはお外に出られないのですって」
ハンナはしばらく黙っていた。
それから、いつもよりずっとゆっくりと櫛を動かしはじめた。
「ヴァレンティアのお家にはね、お嬢さま。ずっと昔から、何代かにおひとりだけ、特別な女の子がお生まれになるのですよ」
「特別?」
「ええ。その子が流した涙は、きらきらした石になるのです」
わたしは目を丸くした。
そのときのわたしはまだ、自分の涙が石になることを知らなかった。泣いたことがなかったわけではないけれど、泣けばすぐにハンナがやってきて、わたしの頬をやわらかい布で押さえてしまったから。
「すごいわ。まるで魔法みたい」
「……そうでございますね」
「その子は、みんなに喜ばれるの?」
「ええ。とても、とても喜ばれますよ」
ハンナはそう言って、わたしの頭をそっと撫でた。
その手がかすかに震えていたことに、わたしは気づかなかった。気づいていたとしても、きっと意味は分からなかっただろう。
「じゃあわたしも、その子みたいになれたらいいな」
無邪気にそう言ったわたしを、ハンナは後ろからぎゅっと抱きしめた。
何も言わずに、ただ長いこと抱きしめていた。
ハンナがお屋敷からいなくなったのは、それから間もなくのことだった。お母さまに理由を尋ねると、「あの人は余計なことをしたからよ」とだけ教えてくれた。
余計なこと、というのが何だったのか。
わたしが泣くたびに布で押さえて、涙が石になる前に拭い取っていたことだったのだと知ったのは、ずっとあとになってからだった。
◇ ◇ ◇
格子窓の光が白くなって、また一日がはじまった。
昨日のパンのおかげか、身体は少しだけ軽かった。わたしは藁の上で膝を抱えたまま、ぼんやりとハンナのことを思い出していた。
どうして今になってあの頃のことを思い出したのだろう。
たぶん、お母さまの笑顔のせいだ。
石をランプにかざしていたときの、あのうっとりとした笑顔。あれを見ていたら、「とても喜ばれますよ」と言ったハンナの声が耳の奥によみがえってきたのだ。
ハンナは嘘をついていなかった。
祝福の子は、本当にとても喜ばれる。
ただ喜ばれるのは女の子ではなくて、女の子の目からこぼれる石のほうだというだけで。
「……祝福」
声に出してみると、その言葉は湿った石の壁に当たってすぐに消えてしまった。
小さかった頃、わたしはこの言葉がとても好きだった。自分が何か特別な、きれいなものに選ばれたような気がしていたから。お母さまがそう呼んでくれるたびに、胸の中に小さな灯りがともるような気がしていたから。
今はもう、その灯りの消し方ばかりが上手になってしまった。
鉄扉の向こうで、ドルフさんの足音が近づいてくる。
今日は盆を引っこめられるのだろうか。それとも昨日の「上出来」のおかげで、何も言われずにパンがもらえるのだろうか。
どちらになるのか分からないまま、わたしはただ扉を見つめていた。
祝福の子は、自分の朝ごはんのことさえ自分では決められない。
それがわたしの知っている、祝福というものの形だった。
◇ ◇ ◇
ヴァレンティア侯爵家の当主の書斎は、屋敷の二階の最も奥にある。
重厚な樫の扉の向こうに広がるその部屋へ足を踏み入れることを許されているのは、当主と、その妻と、跡継ぎである長男の三人だけだった。使用人たちは掃除のためにさえ入ることができず、この部屋の床を磨くのは代々、当主夫人の役目と決められている。
その書斎の机の上に、青黒い小さな石が十一粒並べられていた。
「ご覧になって、あなた」
侯爵夫人は夫の肩越しに身を乗り出して、白い手袋の指先で石のひとつを示した。
「この大きさ。この深い色。先月とは比べものになりませんでしょう?」
「……ああ」
ヴァレンティア侯爵ギルベルトは片眼鏡を押し上げ、拡大鏡で石を一粒ずつ検めていった。
五十を少し過ぎた、痩せた男だった。整えられた灰色の髭と、何事にも動じない冷ややかな灰色の瞳。帝都の社交界では「慎み深い名門の当主」として知られている男は、今もその評判どおりの落ち着いた手つきで、自分の娘の涙を値踏みしていた。
「悪くない。とくにこれは上物だ。純度も申し分ない」
「でしょう? わたくし、昨日は少しばかり工夫をしてみましたの」
「工夫?」
「ええ。食事を見せてから下げさせたのよ。それから、わたくしが直接話をしてあげたの」
夫人は楽しげに微笑んだ。
「あの子、わたくしが優しく話しかけると、面白いくらいに崩れるのよ。怒鳴るよりずっと効き目がありますわ」
「なるほど」
侯爵は短く頷いただけだった。
妻の言葉に眉をひそめることも、感心することもない。まるで領地の麦の収穫について報告を受けているかのような、淡々とした相槌だった。
「効果があったのなら、記録しておこう」
侯爵は立ち上がり、壁一面を埋めている書棚の前に立った。
そこには革で装丁された分厚い帳面が、何十冊も整然と並んでいる。背表紙はどれも色褪せ、古いものは端がすり切れて表題も読めなくなっていた。
そのうちの一冊――最も新しく、最も背表紙の色が鮮やかな一冊を、侯爵は棚から引き抜いた。
表紙には金の箔押しでこう記されている。
《第七代涙晶母体 採取記録》
「父上。またその帳面ですか」
声をかけたのは、窓辺の長椅子で書物を広げていた青年だった。
ヴァレンティア家の長男ユリウス。二十三歳になる彼は父譲りの灰色の瞳と、母譲りの華やかな金髪を持っていた。退屈そうに頬杖をついたまま、机の上の石にちらりと目をやる。
「毎回律儀に書きつけて、何になるというんです。石の数なら宝物庫の目録を見れば分かるでしょう」
「数だけを記すのではない」
侯爵は帳面を開き、羽根ペンを取った。
「その日の食事、睡眠、体温、与えた言葉、与えた痛み。何をすれば石が大きくなり、何をすれば濁るのか。それを書き残すことが当主の務めだ」
「ずいぶん熱心なことで」
「お前もいずれこの務めを継ぐのだ、ユリウス。今のうちに見ておけ」
侯爵は書棚の最も古い一角を、ペンの先で示した。
「あそこにあるのは初代の記録だ。二百年以上前のものになる」
「知っていますよ。子供の頃から聞かされていますから」
ユリウスは肩をすくめた。それでも父の視線に促されて、しぶしぶといった様子で書棚へ歩み寄る。
色褪せた背表紙を指でなぞっていくと、それぞれの帳面には一人ずつ、女の名前が記されていた。
エレオノーラ。
マリアンヌ。
セシリア。
ロザリンド。
いずれもヴァレンティアの家系図には「夭折」あるいは「病により早世」とだけ記されている娘たちだった。肖像画も残されていない。墓所に刻まれた名前の下には、生年と没年のほかに何ひとつ書かれていない。
けれどこの書斎の中でだけ、彼女たちは分厚い帳面何冊分もの記録として、ひとり残らず生き続けていた。
「わが家に数代に一人、涙を石に変える娘が生まれる。《涙晶化》と呼ばれるこの異能こそが、ヴァレンティアの繁栄の礎だ」
侯爵は帳面に目を落としたまま、低い声で語った。
「世間では、こうした異能を持つ娘を聖女と呼ぶ者もいるそうだがな」
「聖女、ですか」
「愚かなことだ。あれは祈りを捧げて人を救う存在ではない。涙を生み、石を生む。それ以上でも以下でもない」
侯爵のペンが紙の上を滑る音だけが、静かな書斎に響いた。
「だから我々は、あれを娘とは呼ばん。母体と呼ぶ」
「涙晶母体――でしたね」
「そうだ。石を生む母胎。家を富ませる源泉。それを正しく管理し、正しく採取し、次の代へ正しく記録を引き継ぐ。それができた当主だけが、ヴァレンティアの名に恥じぬ当主と言える」
ユリウスは古い帳面の一冊を抜き出して、ぱらぱらとめくってみた。
黄ばんだ紙の上に、几帳面な筆跡がびっしりと並んでいる。日付、天候、採取数、石の色と大きさ。その合間に、ときおり短い覚え書きが添えられていた。
――母体、昨夜より食を拒む。三日間水のみとし、四日目に好物を眼前に置く。採取十四粒、良。
――乳母が母体に同情的な言葉をかけていた形跡あり。即日解雇。以後、母体の世話役は半年ごとに替えること。
――母体を外界と隔てるほど、石の質は安定する傾向にあり。幼少期より他者との接触を最小限とするのが肝要か。
ユリウスは小さく鼻を鳴らした。
「どの代も、やっていることは同じですね」
「同じだからこそ価値がある。二百年かけて磨かれてきた作法だ」
「作法、ね」
ユリウスは帳面を閉じて棚へ戻した。その顔には嫌悪も同情も浮かんでいない。ただ少しばかり、興味の薄い退屈そうな色があるだけだった。
「まあ、僕としては家が潤うなら何でも構いませんよ。あれのおかげで新しい馬も買えましたし」
「ユリウス。言葉を慎みなさい」
夫人がたしなめるように言った。けれどその声には、少しも咎める響きがなかった。
「あの子のおかげで、なんて言い方をしたら、まるであの子が何かをしてくれているみたいじゃないの。あの子は泣いているだけよ。泣くことしかできない子なんだから」
「それもそうだ」
ユリウスは笑い、夫人も笑った。
侯爵だけが笑わずに、黙々とペンを走らせ続けていた。
「ところで、あなた」
夫人は自分の胸元に手をやった。そこでは青黒い石を連ねた首飾りが、窓からの光を受けて静かに光っている。
「今度の品評会には、これよりもう少し大きなものを着けていきたいのだけれど」
「今日の石から選べばいい。ただし一粒だけだ」
「まあ、一粒だけ?」
「残りは売り先が決まっている」
侯爵は短く言ってから、ふと顔を上げた。
「それと、屋敷の外で余計なことを口にするな。あれは七年前に死んだことになっている。墓もある。死亡の届けも帝都に出してある。誰に何を訊かれても、我が家にはもう娘はいない」
「分かっておりますわ。何年同じことをおっしゃるの」
夫人は拗ねたように唇を尖らせたが、すぐに気を取り直して机の上の石を眺めはじめた。どれを首飾りに加えようかと、一粒ずつ指先で転がしては光にかざす。
その横顔は、流行りの帽子を選ぶ少女のように楽しげだった。
侯爵は帳面の最後の行を書き終えると、ペンを置いてインクが乾くのを待った。
そこには、他の頁と何ひとつ変わらない几帳面な筆跡で、こう記されていた。
――第七代母体リシェル。食事を眼前にて下げ、当主夫人自ら言葉をかける。採取十一粒。色、深。大粒一。良好。
――優しい言葉が最も効果的なり。今後もこの方法を継続すること。
インクが乾くと、侯爵は帳面を静かに閉じ、元の場所へ戻した。
二百年分の少女たちの記録が並ぶ書棚の、いちばん端。
そこに収められた一冊の背表紙には、ほかの帳面と同じように、たったひとつの名前だけが記されている。
それが、ヴァレンティア家の地下で生きている娘のために、この屋敷に用意された唯一の居場所だった。




