第1話 泣けば、褒められる
朝が来たことを教えてくれるのは、いつも天井近くの小さな格子窓だった。
石壁の高いところに切り取られた、わたしの手のひらほどの四角い穴。そこから差しこむ光が灰色から白へ変わっていくのを見上げて、わたしは今日も自分が生きていることを知る。
起き上がろうとすると足首の鎖が鳴った。
じゃらり、という乾いた音にはもう驚かない。驚かなくなったのがいつからなのか、わたしにはもう思い出せなかった。
寝床と呼んでいる藁の山は湿っていて、身体の下になっていた左腕がひどく冷えている。指を一本ずつ曲げてみる。ちゃんと動く。それを確かめると少しだけ安心して、それから少しだけ悲しくなる。
――動かなくなってしまえば、楽なのかもしれないのに。
そんなことを考えてしまう自分がいやで、わたしは膝を抱えて小さく丸くなった。
お腹が鳴ったのは、それからしばらく経ってからだった。
最後に食事をしたのはいつだっただろう。昨日の朝はなかった。その前の夜もなかった気がする。硬いパンの端を齧ったのは、たしか窓の光が三回白くなる前のことだった。
お腹が空いているという感覚は、ある日を境にすうっと遠くなる。痛いのでも苦しいのでもなくて、身体の真ん中に冷たい穴がぽっかりとあいたような感じになる。その穴を抱えたまま、わたしはただじっと鉄扉のほうを見つめていた。
足音が聞こえたのは、光がすっかり白くなった頃だった。
重たい靴が石段を一段ずつ降りてくる。鍵束の触れあう音がして、鉄扉の下のほうにある小さな差し入れ口が軋みながら開いた。
「起きてるか」
看守のドルフさんの声だった。
返事をしようとしたけれど、喉がかすれて声にならない。わたしはこくりと頷いて、それが扉の向こうからは見えないことに気づいてもう一度小さく咳をした。
「……起きて、います」
「そうか」
差し入れ口から木の盆が押しこまれてくる。
その上に載っているものを見た瞬間、わたしの身体は勝手に前へ乗り出していた。鎖がぴんと張って、足首の古い傷に食いこむ。痛い。でもそんなことはどうでもよかった。
丸いパンがひとつ。湯気の立つスープの椀がひとつ。
スープの匂いがした。玉ねぎと、ほんの少しの塩の匂い。たったそれだけのことで、お腹の中の冷たい穴がぎゅうっと縮んで、目の奥が熱くなる。
手を伸ばした。
あと少しで指先がパンに届く――そう思ったとき、盆がすっと遠ざかった。
「悪いな」
ドルフさんの声は少しも悪いと思っていない声だった。
「奥様のご命令だ。お嬢様が『お務め』を果たすまで、飯は見せるだけにしろってな」
盆が差し入れ口の外へ引き戻されていく。
わたしは伸ばした手を下ろすことも忘れて、それを見ていた。スープの匂いだけがまだ牢の中に残っていて、それが余計に意地悪く感じられた。
「待って、ください」
かすれた声がこぼれる。
「少しだけでいいんです。パンの端だけでも……」
「俺に言うなよ。欲しけりゃ、ほら」
扉の向こうで、ドルフさんが笑ったのが分かった。
「泣きゃあいいんだ。お嬢様の得意なことだろう」
差し入れ口が閉じる。鍵のかかる音が、石の壁に長く響いた。
わたしは暗がりの中に手を伸ばしたまま、しばらく動けなかった。
泣けばいい。
その言葉を、わたしはもう何度聞いてきたのだろう。
物心ついたときから、わたしのまわりの大人たちはみんな同じことを言った。泣きなさい。泣けばいいのよ。どうして泣かないの。
わたしが泣くと、涙は頬を伝い落ちる途中で固くなる。
小さな石になるのだ。
ぽろりと床に落ちて、からんと音を立てる。青くて黒い、夜の底みたいな色をした石。大人たちはそれを「魔石」と呼んで、とても大切そうに拾いあげる。わたしのことはあんなふうに拾いあげてくれたことがないのに、その石だけは宝物みたいに両手で包む。
だからわたしは知っている。
この家の人たちが欲しいのはわたしではなくて、わたしの目からこぼれるものなのだと。
知っているのに――。
お腹の穴が、きゅうっと鳴った。
わたしは唇を強く噛んで、膝に顔をうずめた。
◇ ◇ ◇
衣擦れの音が聞こえたのは、窓の光が少し傾きはじめた頃だった。
ドルフさんの重たい足音とはまるで違う、軽やかで、ゆっくりとした足音。絹の裾が石段を撫でるさらさらという音。それから、ふわりと甘い花の香り。
その香りを嗅いだだけで、わたしの背筋は勝手にまっすぐになった。
鉄扉が開く。今度は差し入れ口ではなく、扉そのものが。
ランプの明かりが牢の中へ流れこんできて、わたしは思わず目を細めた。光の中に立っていたのは、淡い藤色のドレスをまとった美しい人だった。
「おはよう、リシェル」
お母さまだった。
結い上げた金色の髪。白い手袋。胸元でいくつもの青い石がきらきらと光っている首飾り。
お母さまはいつも本当にきれいだ。この地下牢の湿った空気の中でさえ、お母さまのまわりだけは舞踏会の広間みたいに明るく見える。
「おはよう、ございます……お母さま」
「まあ、ひどい声」
お母さまは眉をひそめて、けれどすぐに微笑んだ。
「ちゃんとお水は飲んでいるの?」
心配してくれている――。
ほんの一瞬だけそう思ってしまった自分を、わたしはあとで何度も恥ずかしく思うことになる。けれどその瞬間は、胸の奥がほんのりと温かくなったのだ。
「はい。お水は、いただいています」
「そう。それならいいわ」
お母さまは牢の中へは入ってこない。入口の一歩手前で立ち止まって、ドレスの裾が床に触れないよう指先で軽く持ち上げている。
その距離がお母さまとわたしの距離だった。手を伸ばしても、決して届かない距離。
「ねえリシェル。先月のお石、覚えているかしら」
「……はい」
「とても小さかったの。色も濁っていて、あれではろくな値がつかないってお父さまがお困りだったわ」
お母さまはため息をついた。本当に困ったような、少し悲しそうな顔で。
「わたくしね、お父さまに言ったのよ。あの子は本当はもっとできる子なんです、って。だから今日は、わたくしが直接来てあげたの」
わたしは膝の上で両手を握りしめた。
できる子。
その言葉がわたしの中の柔らかいところにそっと触れて、そこからじわりと何かが滲みだしそうになる。
だめ。
わたしは慌てて俯いた。まだ泣きたくなかった。どうして泣きたくないのか自分でもよく分からないまま、ただ泣きたくなかった。
「顔を上げて、リシェル」
お母さまの声はやさしかった。
「わたくし、あなたのことがとても心配なのよ。あなたはほら、他に何もできない子でしょう? お勉強もだめ、お作法もだめ、外に出せばみんなに笑われてしまう。そんなあなたがこのお家にいていい理由は、ひとつしかないの」
言われていることの意味は分かる。
分かっているから、何も言い返せない。
「あなたが泣けば、たくさんの人が喜ぶの。お父さまも、お兄さまも、わたくしも。ね? 素敵なことだと思わない?」
お母さまは小首をかしげた。
「それなのにあなたは、わたくしたちを喜ばせたくないのかしら」
「ちが……」
「違うの?」
「違います。わたし、そんな――」
「じゃあ、どうして泣いてくれないの?」
声が少しも尖っていないのが怖かった。
怒鳴られたほうがまだましだった。怒鳴られれば、わたしは身体を小さくして耐えればいい。痛みが通りすぎるのを待てばいい。
でもお母さまの声は、まるで小さな子どもに言い聞かせるみたいに穏やかで、その穏やかさの中に逃げこむ場所がどこにもなかった。
「お腹、空いているでしょう」
お母さまがちらりと振り返ると、入口の陰にいたドルフさんがさっきの盆を掲げて見せた。スープはもう冷めているのか、湯気は立っていなかった。それでもわたしの喉はごくりと鳴った。
「ほら、あなたのためにちゃんと用意してあるのよ。わたくしはあなたに意地悪がしたいわけじゃないの。ただ、あなたにあなたの役目を果たしてほしいだけ」
お母さまはやさしく、本当にやさしく笑った。
「ね、リシェル。泣いてちょうだい」
泣きたくない。
泣きたくないのに――。
鼻の奥がつんと痛くなった。
お腹が空いていた。寒かった。足首が痛かった。お母さまのドレスがきれいだった。手を伸ばしても届かなかった。
「他に何もできない子」という言葉が、胸のいちばん奥に刺さったまま抜けなかった。
視界がにじむ。
まばたきをしたら終わってしまうと分かっていて、わたしは必死に目を見開いていた。けれど瞳の縁に溜まったものはどんどん重たくなって、とうとう支えきれなくなった。
ひとしずく。
頬を伝い落ちていく途中で、それはひやりと冷たくなって、固くなって――からん、と石の床で小さな音を立てた。
一度こぼれてしまうと、もう止まらなかった。
からん。からん、からん。
わたしは声を殺して泣いた。泣いているあいだじゅう、自分の涙が石に変わって床に散らばっていく音を聞いていた。それはまるで、わたしの中の何かが少しずつ削られて、こぼれ落ちていく音みたいだった。
どれくらい泣いていたのか分からない。
気がつくと、お母さまがわたしのすぐそばにしゃがみこんでいた。
牢の中に入ってきてくれたのだ。あんなに汚れるのを嫌がっていたドレスの裾が、湿った床に触れている。
お母さま、と呼ぼうとして顔を上げた。
けれどお母さまはわたしを見ていなかった。
白い手袋の指先が、床に散らばった石をひとつ、またひとつと拾いあげていく。いちばん大きなひと粒をランプの明かりにかざして、お母さまはうっとりと目を細めた。
「まあ……」
青黒い石の奥で、光がゆらりと揺れた。
「今日は上出来ね」
お母さまが微笑んだ。
それはさっきまでわたしに向けていた微笑みとは違う、心の底から嬉しそうな笑顔だった。頬がほんのりと上気して、瞳がきらきらと輝いている。
わたしはその笑顔を、ずっと見たかった。
ずっと、ずっと見たかったのだ。
なのに――その笑顔はわたしのほうを向いていなかった。
お母さまの瞳に映っているのは、手のひらの上の小さな青い石だけだった。
「この色なら、お父さまもきっとお喜びになるわ。ドルフ、布を」
「はい、奥様」
差し出された布の上に、石がひとつずつ丁寧に並べられていく。お母さまは数を数えながら、ときどき嬉しそうに小さく声を漏らした。
わたしはぼんやりとそれを眺めていた。
ランプに照らされた石はどれもきれいだった。深い夜の色をしていて、覗きこむと吸いこまれそうなほど冷たくて――。
どうしてだろう。
石を見つめるお母さまの瞳も、それとよく似た色をしているように見えた。
「それじゃあね、リシェル」
布の包みを大切そうに胸に抱いて、お母さまは立ち上がった。
「ドルフ。その子にパンをあげてちょうだい。スープも温め直してね。今日はよく頑張ったもの」
よく頑張った。
その言葉が耳に届いた瞬間、わたしの胸はぎゅっと締めつけられた。
「お母さま」
思わず呼び止めていた。
お母さまが振り返る。その顔はもういつもの穏やかな顔に戻っていて、さっきの輝くような笑顔はどこにも残っていなかった。
「なあに?」
「……あの」
何を言おうとしたのだろう。
わたしを見てください、と言いたかったのかもしれない。あの笑顔をもう一度、今度はわたしに向けてください、と。
けれど言葉は喉の奥でほどけて、形にならなかった。
「なんでも、ありません」
「そう。いい子ね」
お母さまはそれだけ言って、もう振り返らなかった。
絹の裾が石段を撫でていく音が遠ざかって、甘い花の香りも少しずつ薄れていく。最後に鉄扉の閉まる重たい音がして、牢の中はまたいつもの暗さに戻った。
◇ ◇ ◇
温め直されたスープは、ちゃんと玉ねぎの味がした。
わたしは冷たい床に座りこんで、パンを小さくちぎりながら少しずつ口に運んだ。急いで食べるとお腹が痛くなることを、わたしはもう知っていた。
噛むたびに、身体の真ん中の冷たい穴が少しずつ埋まっていく。
美味しかった。
とても美味しかった。
そう思ってしまうことが、たまらなく惨めだった。
窓の光は、いつの間にか夕暮れの色になっていた。
わたしは空になった椀を膝に抱えたまま、今日のことを何度も思い返していた。
お母さまが来てくれた。
お母さまが牢の中に入ってきてくれた。
お母さまが笑ってくれた。
お母さまが「よく頑張った」と言ってくれた。
ひとつずつ並べてみると、まるで幸せな一日だったみたいに聞こえる。そう思おうとすれば、きっと思えてしまう。
でも――わたしは見てしまったのだ。
あの笑顔が向けられていた先を。
お母さまが最後までわたしの顔を見なかったことを。
わたしの涙が頬を伝うあいだ、お母さまが待っていたのは涙が止まることではなくて、涙が石になって床に落ちることだったということを。
それなのに。
それなのにわたしは、「上出来ね」という声を思い出すたびに胸の奥がほんのりと温かくなる。「よく頑張った」という言葉を、宝物みたいにそっと抱きしめている。
泣けば、褒められる。
泣けば、ごはんがもらえる。
泣けば、お母さまが笑ってくれる。
たとえその笑顔がわたしのものではなくても――。
「……ばかみたい」
小さく呟いた声は、誰にも届かないまま石の壁に吸いこまれていった。
頬に触れてみる。
もう乾いていた。涙の跡さえ残っていなかった。わたしの涙はいつだって、わたしの頬に何ひとつ残してはくれない。こぼれた瞬間から、それはもうわたしのものではなくなってしまうのだから。
わたしは藁の寝床に横になって、格子窓を見上げた。
夕暮れの光がゆっくりと夜の色に沈んでいく。
あの窓の外には、どんな世界が広がっているのだろう。わたしの涙が石になったあと、どこへ運ばれて、誰の手に渡っていくのだろう。
そこにいる人たちは、あの石を見て笑うのだろうか。
お母さまのように、うっとりと目を細めて。
――わたしのことなんて、何ひとつ知らないまま。
膝を抱えて目を閉じる。
明日もきっと、泣けと言われるのだろう。
そしてわたしはきっと、また泣いてしまうのだろう。
そう思ったら、また目の奥が熱くなった。
わたしは慌ててぎゅっと瞼に力をこめた。
今ここで泣いても、誰も褒めてはくれない。拾いあげてくれる人もいない。暗い牢の床に、青黒い石がひとつ転がるだけだ。
それがどうしようもなく寂しくて、わたしは声を出さずに唇を噛みしめた。
誰も見ていない夜の涙だけは――せめて、わたしのものであってほしかった。




