元男役トップスターから求婚される③
■19
東京都港区赤坂。
株式会社神谷プロダクション。
老舗最大手の一角であり、俳優、アイドル、タレントを数多く抱える芸能事務所だ。
自社ビルのメイクルームで、霞坂玲奈は午後から始まる握手会の準備をしていた。
霞坂玲奈、15歳。
日本人の母とアメリカ人の父を持つ、日米ハーフ。
母譲りの柔らかな輪郭に、父譲りの高い鼻と淡い色の瞳。アジア系とヨーロッパ系、双方の美点を集めたような顔立ちをしている。
母は、平成を代表するトップアイドルにして、現在は国民的大女優の霞坂玲美。
父は、ハリウッドで何本もの主演作を持つ映画俳優。
玲奈自身も、師岡幼稚舎から師岡女子部へ内部進学。幼い頃からバレエ、ピアノ、ボイストレーニングを続け、英語はネイティブ。
現在は中国語も学びながら、子役やモデルとして活動してきた。
血統。
環境。
教育。
そのすべてに恵まれている。
■20
「玲奈ちゃん、昨日も8時までレッスンだったんでしょう?」
玲奈の髪を整えながら、メイク担当が尋ねた。
「はい」
「そのあと、弟さんのお迎え?」
「21時30分には塾へ着きました」
「それまで、弟さんは?」
「塾の自習室で、居残り勉強をしながら待っています」
「11歳なのに偉いね」
「自分から残っているというより、先生に解き直しが終わるまで残りなさいって言われている日の方が多いですけど」
玲奈が笑う。
「昨日も、算数のテストで捕まってました」
「玲奈ちゃんが遅くなったら、どうするの?」
「塾は22時で完全下校なので、そこだけは何があっても間に合わせます」
「夕飯は?」
「昨日は朝のうちに、鶏肉のトマト煮を作っておきました。弟は塾へ行く前に温めて食べて、私は帰ってから」
「あれ、SNSに載せてたやつ?」
「はい。鶏もも肉が百グラム七十八円でした」
「本当に普通のスーパーで買ってるんだ」
「三軒茶屋のスーパーですよ。夕方に行くと、もっと安くなります」
玲奈が六歳、弟が二歳の頃、父親の浮気が原因で両親は離婚した。
母である霞坂玲美は二人の子どもを連れて日本へ帰国。それ以来、再婚せず、世田谷区太子堂のマンションで三人で暮らしてきた。
玲奈は、両親の離婚以来、父とは会っていない。
養育費だけは、毎月欠かさず送られてくる。
母はそれを生活費には入れず、姉弟それぞれの名義で積み立てていた。
玲奈は、自分の分だけを、毎月そのまま慈善団体へ寄付している。
父から連絡が来ても、玲奈が応じることはなかった。
玲奈は父親について尋ねられると、決まってこう答える。
「俳優としては、すごい人だと思っています」
「でも、父みたいな人と結婚したいかと聞かれたら、それは違います」
霞坂家に、住み込みの家政婦はいない。
母の仕事は、毎日決まった時刻に終わるものではなかった。
撮影が深夜まで続く日もあれば、地方や海外のロケで、何日も家を空けることもある。
そんな日は、玲奈が弟を塾へ迎えに行く。
食事は、家にいる方が作る。玲美が出国前に作り置きすることもあれば、玲奈が朝のうちに用意することもあった。
それでも玲奈は、自分のレッスンを休まなかった。
自分が恵まれていることを、誰よりもよく知っている。
だからこそ、与えられたものを努力不足で失うことを、自分に許さなかった。
■21
メイクルームのドアが開いた。
「玲奈、準備はできた?」
マネージャーの久世圭子が入ってきた。
「はい」
玲奈は手元のタブレットを閉じた。
「今日、来てくださる先輩方のプロフィールと、直近の出演作も確認しました」
「ありがとう。いつも先回りしてくれて助かるわ」
久世が鏡の中の玲奈を見る。
「今日の握手会には、神谷所属の先輩が三人、応援に入るわ。それぞれのファンにも、あなたの専用アカウントを告知してもらいます」
「ありがとうございます」
「神谷の看板も、人脈も、所属タレントの人気も、使えるものは全部使いなさい」
久世は玲奈の肩に手を置いた。
「そして、あなたも考えて」
「はい」
「神谷プロのために、あなたは何ができる?」
玲奈は鏡の中の自分を見る。
メイクは完成している。
髪にも、衣装にも、乱れは一つもない。
「朝倉真琴になります」
玲奈は立ち上がった。
「そして、今よりもっと大きな看板を、神谷プロへ持ち帰ります」
久世が頷いた。
「いい答えね。行きましょう」
二人は地下駐車場へ降りた。
神谷プロのワゴン車が、すでに二人を待っている。
玲奈はスタッフが開けた後部座席へ乗り込んだ。
「玲奈」
久世に呼ばれ、顔を上げる。
「今日も、一人残らず、あなたのファンにしてきなさい」
「はい」
ドアが閉まる。
霞坂玲奈を乗せた車は、握手会の会場へ向けて赤坂を出発した。
「全ては神谷のために」
■22
池袋、サンシャインシティ。
吹き抜けの噴水広場を、幾重もの人垣が取り囲んでいた。
大型モニターには、『封鎖都市』のロゴ。その隣に、霞坂玲奈の写真が映し出されている。
本日開設されたばかりのオーディション専用アカウントへつながるQRコードが、会場のいたるところに掲示されていた。
「霞坂玲奈さんです!」
司会者に呼び込まれ、玲奈がステージへ出る。
歓声が、吹き抜けの上階まで駆け上がった。
玲奈は中央まで進むと、四方へ深く頭を下げた。
「本日は、私のために足を運んでくださって、本当にありがとうございます」
顔を上げる。
「朝倉真琴役に選んでいただけるよう、精いっぱい頑張ります。今日から一週間、よろしくお願いします」
もう一度、大きな歓声が上がった。
続いて、モニターに二本の短い映像が流された。
どちらも、第一課題として指定された長台詞の一部だった。
Aは、感情を露わにした朝倉真琴。
信じたい気持ちと、裏切られた恐怖が、声にも表情にも表れている。
Bは、感情を抑えた朝倉真琴。
親友を疑いたくない気持ちを押し殺し、静かに真実を求める。
演じているのは、どちらも玲奈だった。
二本の上映が終わると、玲奈はステージの中央で両手を広げた。
「これから、皆さん一人ひとりと握手をさせていただきます」
右手を少し持ち上げる。
「Aの朝倉真琴がよかったと思った方は、私の右手と」
今度は左手を上げる。
「Bがよかったと思った方は、左手と握手してください」
客席から、楽しそうな声が上がった。
「皆さんが選んだ方は、スタッフが集計します。よろしくお願いします」
握手会が始まった。
一人目が玲奈の左手を取る。
「A、すごくよかったです」
「ありがとうございます」
次の参加者は、右手を選んだ。
「原作の真琴に近いのはBだと思います」
「参考にします。ありがとうございます」
玲奈は、一人ひとりの目を見た。
年下の少女には、少し身をかがめる。
緊張して言葉が出てこない相手には、玲奈の方から話しかける。
母親の名前を出されたときにも、笑顔は崩さない。ただし、自分自身を応援してくれた言葉には、それより少しだけ強く手を握り返した。
一人の参加者が、迷った末に玲奈の両手を取ろうとした。
「どっちもよかったので、選べません」
玲奈は笑いながら、両手を身体の前へ引いた。
「ごめんなさい。今日は両手ではだめなんです」
周囲から笑いが起こった。
「どちらか一つを選んでください」
「じゃあ……Bで」
差し出された左手を、玲奈が握る。
「ありがとうございます」
右手と左手。
選ばれるたび、左右に置かれたカウンターの数字が増えていった。
列は途切れなかった。
■23
第一部の終了を告げるアナウンスが流れた。
「ここで15分間の休憩をいただきます」
玲奈がステージを下りる。
控室へ入ると同時に、スタッフが冷たいタオルと飲み物を差し出した。別のスタッフはカウンターを回収し、集計結果をタブレットへ入力している。
「現時点で、Aが53.2パーセント。Bが46.8パーセントです」
数字だけを見れば、Aの優勢だった。
久世は玲奈へタブレットを渡した。
「玲奈は、どう感じた?」
玲奈は画面ではなく、自分の両手を見た。
「Bです」
スタッフの手が止まった。
「理由は?」
「Bを選んだ方の方が、握る力が強かったです。言葉は少なくて、目が真剣でした」
「Aを選んだ人は?」
「緊張していました。手が小さく震えて、脈が速いのが伝わってきた方もいました」
「Aの方が、強く感動したということではなく?」
「違うと思います」
玲奈はすぐに答えた。
「今までの握手会と同じでした」
久世が続きを待つ。
「Aを選んだ方は、朝倉真琴を見たあと、霞坂玲奈と握手していました。私の顔を見て、母の話や、いつも応援していますという話をしてくれました」
「Bは?」
「Bを選んだ方は、握手をしている間も、まだ映像の中にいました。私ではなく、朝倉真琴を見ていたんだと思います」
控室が静かになる。
スタッフの一人が、参加者から寄せられた短いコメントを確認した。
「Aは『玲奈ちゃんがかわいかった』『表情がよかった』という感想が多いです。Bは『真琴が怖かった』『続きが気になる』『遥との関係を知りたい』が多いですね」
「一致したわね」
久世はタブレットの数字を見た。
「Aはアイドルとしての玲奈を強く見ていた。Bは役者として、朝倉真琴を見ていた」
「はい」
「6ポイント程度の差なら、Aを勝者にする理由にはならない」
久世は会場の客層データを開いた。
「ただし、ここは池袋よ。若いアイドルファンが多く、握手会にも慣れている。玲奈本人への好意が、Aの数字を押し上げた可能性は考慮する必要がある」
「では、明日の渋谷、タワーレコードでは?」
「Bを残す」
久世はスタッフへ向き直った。
「今日の反響をもとに、パターンCを作成して。明日の渋谷では、BとCを比較します」
「玲奈! イベントが終わったら撮影よ」
「玲央君のお迎えに間に合うよう、手筈は整えておくから」
「はい!」
「第二部はどうしますか?」
「条件は変えない。AとBのまま、サンプル数を増やします」
第一部の結果だけで結論を出し、途中から条件を変えれば、池袋での比較そのものが曖昧になる。
「第二部開始まで、あと三分です」
久世は玲奈を見た。
「第二部も頑張って」
「はい」
「それから、違和感を覚えたら、どんな小さなことでもすぐに教えてちょうだい。あなたにしか分からない反応がある」
「分かりました」
玲奈は水を一口飲み、鏡の前で表情を確認した。
前髪を整え、両手を軽く握る。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玲奈が控室を出る。
扉の向こうから、彼女を待つ歓声が聞こえてきた。
久世は、その背中を見送った。
29歳だった霞坂玲奈の母、霞坂玲美と初めて会ったとき、久世は、目の前にいる女性がいずれ日本を代表する女優になると確信した。
今、玲奈から感じるものは、あの日の玲美よりも強い。
あの才能を朝倉真琴へ仕上げる。
そして霞坂玲奈を、神谷プロの次の時代を背負う看板にする。
それが、久世圭子の仕事だった。
第一課題、演技PV。
提出締切まで、あと6日。
■24
鳳城プロダクションの事務所では、礼と凛子と紬の三人がノートパソコンを囲んでいた。
画面に映っているのは、池袋・サンシャインシティで開催されている霞坂玲奈の握手会。
『Aがよかったと思った方は、私の右手と。Bがよかったと思った方は、左手と握手してください』
玲奈が両手を広げる。
噴水広場を埋めた観客から、楽しそうな歓声が上がった。
「玲奈ちゃん、強いわねえ」
鳳城は感心したように呟いた。
紬は固まりながら、目を丸くして画面を見ていた。
「これ、今日だけで何人来ているんでしょう」
「数えたくないわね。落ち込むから」
鳳城は冗談めかして笑った。
「でも、人前に立ったときの華なら、紬も負けていないわ」
鳳城に背中を叩かれ、紬は我に帰る。
「私がですか?」
「ええ。自分では分かっていないでしょうけど」
画面の中では、玲奈が一人ひとりと言葉を交わしている。
短い時間で相手の緊張を見抜き、目線の高さや声の調子を変える。大勢を前にしても、動きに迷いがない。
「ただ、正直に言うと、技術では勝てないわ」
紬の肩がわずかに下がった。
「今の時点では、よ」
鳳城が付け加える。
「玲奈ちゃんは、幼い頃から必要なレッスンを全部受けてきた。演技も歌も踊りも、カメラの前での振る舞いも知っている。七日間で、その差を全部埋めるのは無理」
「はい」
「まあ、私の力不足以外の何物でもないんだけどね」
■25
「まあ、私の力不足以外の何物でもないんだけどね」
「力不足?」
凛子が聞き返した。
「ええ」
鳳城は脚を組み替え、背もたれへ身体を預けた。
「レッスンの様子を生配信する子は、ほかにもいるでしょう。握手会を開いても、紬にはまだ玲奈ちゃんほどお客さんを呼べない。それに、その時間をレッスンに使わなければ、技術の差は縮まらない」
「だからといって、事務所で一週間レッスンを続けても、専用アカウントのフォロワーは増えませんね」
「そうなのよ」
鳳城は画面の中の玲奈を見た。
「演技を教えることには自信があるし、紬はそれを吸収できる、でも今のままでは時間が足りない」
凛子は何も答えなかった。
画面には、玲奈の二種類の演技が再び映し出されている。
同じ人物。同じ台詞。
それでも、表情や声の置き方によって、別の朝倉真琴に見えた。
「鳳城さん」
「何?」
「鳳城さんの演技指導は、台詞の言い方を一つずつ教えるものですか?」
「それもするけど、中心ではないわね」
「では、何を?」
鳳城は少し考えた。
「その人物が何を見て、何を怖がって、どういう人生を歩いてきたのかを考えさせる。その人間を身体の中に作れば、台詞はあとからついてくるわ」
「台本にあるセリフを言うのではなく、その人物になる?」
「そういうことね」
■26
凛子は、もう一度パソコンの画面を見た。
神谷プロは、完成された霞坂玲奈に複数の朝倉真琴を演じさせ、観客の反応から正解を探している。
ならば、鳳城プロは同じことをする必要がないし、そもそもできない。
「力不足ではありません」
凛子は言った。
「鳳城さんの力を、直接的なレッスンの時間だけ使う必要はないんです」
鳳城が凛子を見る。
「7日間、24時間すべてを、鳳城さんの演技指導に使います」
「つまり、どういうこと?」
「紬ちゃんに、朝倉真琴になってもらいます」
「私が、真琴に?」
紬は目を丸くした。
凛子はスマートフォンを取り出し、周辺の催しを検索した。
画面を何度か動かした指が止まる。
「あっ、やった、よかった!」
「何かあった?」
「ちょうど今日です」
「「?」」
凛子はスマートフォンを二人へ見せた。
「これから、ここに行きましょう!」
「?」
鳳城が少し考える。
「朝倉真琴になる………ああ………そういうことね」
「……でも、ちょっとまって新納さん?」
「それだと、美山遥も必要よね?」
「誰が、美山遥になるの?」
「それは、もちろん」
凛子はまっすぐ鳳城の目を見た。
鳳城は凛子の目を見て全てを察した。
「おっ、お2人は何を話してらっしゃるんですか?」
紬が不安そうに2人のやり取りを見る。
「んーーーーー」
鳳城が天井を見上げて大きく体を伸ばした。
「鳳城礼、36歳、元花乃宮男役トップスター、15歳女子高生役に初挑戦か!」
「いいじゃない!面白そう!」
「紬!」
「はいっ」
「浴衣もってる?」
「はっ、はい、去年買った浴衣が家にあります」
「了解。今すぐ八潮の家に帰って浴衣に着替えて、それで八潮駅集合ね!」
「えっ?」
「私の浴衣、事務所にあったかな………」
「まあ、いいわ。私も着替えて後から行くから、とにかく八潮駅で」
「新納さん?」
「はい。コンプラ関係、紬ちゃんのお母さまへのご連絡、そのほか諸々。お二人が着替えている間に、必要な準備は整えておきます」
紬は、まだ何も分かっていない顔で2人を見比べた。
鳳城は楽しそうに笑った。
「紬のために、できることは何でもやりましょう!」
「ええ!」
凛子も笑っていた。




