元男役トップスターから求婚される②
■12
七月下旬。
東京都台東区元浅草。
日本の夏の暑さに驚く訪日観光客で、浅草の街は朝からごった返していた。
自動販売機で買った水を一気に飲む人。慣れない日傘を差す人。寺社の前で記念写真を撮りながら、携帯扇風機を顔へ向けている人。
そこから浅草通りを西へ進み、地下鉄稲荷町駅を越えると、観光客の姿は少しずつ減っていく。
古い商店。寺院。新しいマンション。小さな会社の入った雑居ビル。
その一棟に、鳳城プロダクションはあった。
ビルの二フロアを借り、上階が事務所、下階が撮影スタジオになっている。
外の熱気を遮るように閉め切られた事務所では、エアコンが低い音を立てていた。
応接用のテーブルには、A4サイズのノートパソコンが一台置かれていた。
画面の中で、真壁由紀が無数の記者を前に話している。
『自分こそが朝倉真琴だと思う方は、ここから応募してください』
スクリーンに、公開オーディションのQRコードが表示される。
そこで、記者会見の録画が終わった。
凛子は画面を見たまま、隣に座る女性の気配を意識していた。
鳳城礼、三十六歳。
昨年まで、花乃宮歌劇団・天組の男役トップスターとして舞台に立っていた。
演技力と圧倒的な存在感で長く劇団の顔を務め、惜しまれながら退団。現在は、自分に代わる次代のスターを見つけ、育てるため、自らの名を冠した芸能事務所を経営している。
本物の鳳城礼が、すぐ隣にいる。
白いTシャツにジャケット、ジーンズ。
舞台の上よりずっと飾り気のない格好なのに、不思議と目を引いた。
舞台や映像では、何度も見たことがある。
だが、生で見るのは初めてだった。
近い。
とにかく、顔が近い。
同じノートパソコンを覗き込んでいるため、少し横を向けば、鳳城礼の整った横顔が視界いっぱいに入る。
長い睫毛。
すっと通った鼻筋。
舞台用の化粧などしていないのに、顔の輪郭が完成している。
うわあ。
本当に鳳城礼だ。
やっぱり、ものすごく綺麗。
「新納さん?」
鳳城礼の鑑賞会は本人の一言で終了した。
凛子は何事もなかったように顔を上げた。
「はい」
「今の会見、どう思った?」
「ずいぶん大がかりなオーディションですね」
「そうね」
鳳城がノートパソコンを閉じた。
「単刀直入に言うわ」
凛子へ身体を向ける。
「このオーディションに、うちの所属俳優を出したいの」
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「単刀直入に言うわ」
「このオーディションに、うちの所属俳優を出したいの」
「森下紬さんですね」
凛子は、事前に受け取っていた資料へ目を落とした。
森下紬、十五歳。埼玉県出身。
「ええ。私が見つけた子よ」
「資料と、これまでの映像は拝見しました」
「どう?」
「目を引くものはあります」
「ただ、現時点では、既にエントリーを表明している神谷プロの霞坂玲奈さんとは比較になりません」
鳳城の口元が上がった。
「はっきり言うのね」
「そのために呼んだのでしょう?」
「ええ。気に入ったわ」
鳳城は、テーブルの上に置かれた二人の資料を見る。
森下紬。
霞坂玲奈。
「演技を教えることには自信があるの」
鳳城は自分の資料ではなく、紬の写真に指を置いた。
「紬を朝倉真琴に近づける。その部分なら、霞坂玲奈が相手でも勝負できる」
「はい」
「でも、今回のオーディションは、それだけじゃない」
専用SNSのフォロワー数。
演技課題動画。
歌唱課題動画。
「私は、こういうのには自信がないの」
鳳城礼は、自分にできないことを口にするのに、まったく躊躇しなかった。
「だから、助けて」
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「だから、助けて」
「そう言われましても」
凛子は資料を一枚めくった。
「私は、SNSマーケティングを専門にしているわけではありませんよ」
「潮入市長選挙、見たわ」
凛子の手が止まる。
「表に名前は出ていなかったけど」
鳳城は、ゆっくりと脚を組み替えた。
ただそれだけの動作なのに、妙に艶めかしい。
長い脚が重なり、パンツスーツの裾から細い足首が覗く。指先の置き方から背筋の角度まで、どこを切り取っても一枚の絵になる。
何万人もの視線を集めてきた人間は、座って脚を組むだけでも違うらしい。
それが長年の習慣なのか、凛子へ見せるための演技なのかは、まだ分からなかった。
「蒼路野誠司を一週間で、無名の市議から全国ニュースの主役にした」
「私は、少しお手伝いをしただけです」
「獅子堂純一郎を、二十年ぶりに街頭へ引っ張り出したのも?」
「それは、獅子堂元総理ご本人がお決めになったことです」
「その獅子堂純一郎が集めた記者を、全部、蒼路野誠司のために使ったのも?」
「結果的には、そうなりましたね」
鳳城が楽しそうに笑う。
「噂どおりね」
「どんな噂でしょう」
「表では有名じゃない。でも、依頼を受けた相手を、誰も想像していなかった場所まで連れていく」
鳳城が凛子を見る。
「天才事業コンサルタント、新納凛子」
「ずいぶん大げさな噂ですね」
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「私は、噂にならない人の噂を集めるのが得意なの」
鳳城が、少しだけ身を寄せた。
再び、顔が近くなる。
さっきは同じ画面を見るためだった。
今度は違う。
鳳城は、意図的にこの距離まで近づいている。
「それと」
「はい?」
「私の顔、好きでしょう?」
「ええ」
凛子は素直に認めた。
「かなり好みです」
鳳城が一瞬、目を細めた。
「そこまで正直に言われるとは思わなかったわ」
「言われ慣れているでしょう?」
「もちろん」
鳳城は否定しない。
「でも、あなた、落ち着いてるのね」
「仕事中ですから」
「そういう意味じゃないの」
鳳城礼は知っている。
自分がこの距離で顔を覗き込めば、大抵の女性がどうなるのかを。
目を逸らす。
言葉に詰まる。
意味もなく笑う。
あるいは、自分が意識していることを隠そうとして、必要以上に平静を装う。
凛子は、どれでもなかった。
鳳城の美しさを認めている。
異性を見るのとは違う視線も、隠していない。
それでも、自分がどう見られているかを理解したまま、普通に会話を続けている。
「あなた、女性と付き合ったことがあるでしょう?」
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「あなた、女性と付き合ったことがあるでしょう?」
凛子は、少しだけ眉を上げた。
「分かりますか?」
「分かるわ」
「学生時代と、社会人になってから。数回ほど」
「そう」
「結婚もしましたよ。相手は男性ですけど」
「今も?」
「夫とは死別しました」
鳳城は一瞬だけ黙った。
「そう」
同情するでもなく、慌てて謝るでもなかった。
ただ、事実として受け取る。
「子どももいます」
「何歳?」
「九歳です。今はイギリスで、父方の祖父母と暮らしています」
「あなたは日本で一人暮らし?」
「はい」
「なるほどね」
鳳城は、そこでようやく身体を離した。
「驚かないんですね」
「何に?」
「夫と死別して、子どもをイギリスに残して、日本で暮らしていることに」
「事情があるんでしょう?」
「あります。……あるのかな?」
凛子は、自分で口にしてから少し笑った。
「いえ。説明すれば、それだけのことです」
「そう」
鳳城は、それ以上追及しなかった。
「なら、必要になったときに聞くわ。今回の依頼には関係ないもの」
鳳城は閉じていたノートパソコンを、テーブルの端へ寄せた。
「はい」
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鳳城は、森下紬の資料を凛子の前へ差し出した。
「繰り返しになるけど、この子を朝倉真琴にしたいの」
資料の中で、十五歳の少女が、まだぎこちない笑顔を浮かべている。
「どうかしら?」
凛子は革製のパッドフォリオを開き、見積書を一枚取り出した。
「こちらでよろしければ、お引き受けします」
鳳城は見積書へ目を通した。
「着手金なし。成果報酬のみ?」
「はい」
「それで、このお値段?」
「はい」
「L&P出身の独立コンサルタントとしては、安いわね」
「ああ、そこまでご存じなんですね」
「言ったでしょう。噂にならない人の噂を集めるのが得意なの」
「弊社は、お客様と長くお付き合いさせていただく方針ですので」
凛子は付け加えた。
「まあ、必要経費は精算していただきますけど」
「紬が朝倉真琴役に選ばれなかった場合は?」
「成果報酬ですので」
「ずいぶん、自信があるのね」
「はい」
鳳城が笑った。
「じゃあ、お支払いできるよう、私たちも今以上に全力でやるわ」
鳳城は見積書をテーブルへ戻し、立ち上がった。
「決まり。紬は下のスタジオで待たせているわ」
「もう来ているんですか?」
「ええ。契約が決まったら、すぐ会議を始めるつもりだったから」
「私が断るとは思わなかったんですね」
鳳城が振り返る。
「その人の過去の仕事を見れば、何を選ぶかはだいたい分かるの」
楽しそうに笑う。
「女の勘ってやつかしら。私はみんなの元王子様だけどね」
「さあ、行きましょう。時間がないわ」
「はい」
「森下紬を、朝倉真琴にするわよ」
二人は、紬が待つ下の階へ向かった。
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鳳城が、下階の撮影スタジオのドアを開けた。
「だから、お願い――」
白い壁の前で、一人の少女が朝倉真琴の課題台詞を練習していた。
「紬。そこで前に出ない」
少女が振り返る。
「真琴が遥を追い詰めてどうするの。半歩下がって、逃げ道を作ってあげなさい」
「はい!」
森下紬、15歳。
埼玉県八潮市在住。
埼玉県立浦西高校に通う、高校1年生。
小学生の頃に地域のダンス教室へ通っていた以外、本格的な芸能活動の経験はない。
凛子は、改めて生で紬を見る。
演技の技術は、まだ高くない。
立ち方も、呼吸も、台詞の間も不安定だった。
だが、鳳城の指示を受けた直後、目の前の誰かへ本当に逃げ道を譲ったように見えた。
何かある。
さすが、鳳城礼が見つけてきた少女だった。
「紬、紹介するわ」
鳳城が凛子を手で示す。
「こちらは新納凛子さん。事業コンサルタントよ」
「事業コンサルタント……?」
「今日から、あなたを朝倉真琴にするチームに加わってもらうことになったの」
紬は慌てて頭を下げた。
「森下紬です。よろしくお願いします!」
「新納です。よろしくお願いします」
凛子も頭を下げる。
「演技を教えるのは鳳城さんで変わりません。私は、紬さんの努力と成長を、応援してくれる人たちへ届ける仕組みを作ります」
鳳城が紬を見る。
「紬。これは、あなた一人だけが頑張るオーディションじゃないわ」
紬が顔を上げる。
「あなたを朝倉真琴にするために、鳳城プロも、新納さんも、できることを全部やる」
「私たちも全力で頑張るから」
鳳城は、紬の肩へ手を置いた。
「あなたも、全力でついてきなさい」
「はい!」
紬の声が、スタジオに響いた。




