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新納凛子(32)は今日も求婚される  作者: 冬室すずめ
元男役トップスターから求婚される
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7/14

元男役トップスターから求婚される②

■12


七月下旬。


東京都台東区元浅草。


日本の夏の暑さに驚く訪日観光客で、浅草の街は朝からごった返していた。


自動販売機で買った水を一気に飲む人。慣れない日傘を差す人。寺社の前で記念写真を撮りながら、携帯扇風機を顔へ向けている人。


そこから浅草通りを西へ進み、地下鉄稲荷町駅を越えると、観光客の姿は少しずつ減っていく。


古い商店。寺院。新しいマンション。小さな会社の入った雑居ビル。


その一棟に、鳳城プロダクションはあった。


ビルの二フロアを借り、上階が事務所、下階が撮影スタジオになっている。


外の熱気を遮るように閉め切られた事務所では、エアコンが低い音を立てていた。


応接用のテーブルには、A4サイズのノートパソコンが一台置かれていた。


画面の中で、真壁由紀が無数の記者を前に話している。


『自分こそが朝倉真琴だと思う方は、ここから応募してください』


スクリーンに、公開オーディションのQRコードが表示される。


そこで、記者会見の録画が終わった。


凛子は画面を見たまま、隣に座る女性の気配を意識していた。


鳳城礼(ほうじょう・れい)、三十六歳。


昨年まで、花乃宮歌劇団・天組の男役トップスターとして舞台に立っていた。


演技力と圧倒的な存在感で長く劇団の顔を務め、惜しまれながら退団。現在は、自分に代わる次代のスターを見つけ、育てるため、自らの名を冠した芸能事務所を経営している。


本物の鳳城礼が、すぐ隣にいる。


白いTシャツにジャケット、ジーンズ。


舞台の上よりずっと飾り気のない格好なのに、不思議と目を引いた。


舞台や映像では、何度も見たことがある。


だが、生で見るのは初めてだった。


近い。


とにかく、顔が近い。


同じノートパソコンを覗き込んでいるため、少し横を向けば、鳳城礼の整った横顔が視界いっぱいに入る。


長い睫毛。


すっと通った鼻筋。


舞台用の化粧などしていないのに、顔の輪郭が完成している。


うわあ。


本当に鳳城礼だ。


やっぱり、ものすごく綺麗。


「新納さん?」


鳳城礼の鑑賞会は本人の一言で終了した。


凛子は何事もなかったように顔を上げた。


「はい」


「今の会見、どう思った?」


「ずいぶん大がかりなオーディションですね」


「そうね」


鳳城がノートパソコンを閉じた。


「単刀直入に言うわ」


凛子へ身体を向ける。


「このオーディションに、うちの所属俳優を出したいの」


■13


「単刀直入に言うわ」


「このオーディションに、うちの所属俳優を出したいの」


「森下紬(もりした・つむぎ)さんですね」


凛子は、事前に受け取っていた資料へ目を落とした。


森下紬、十五歳。埼玉県出身。


「ええ。私が見つけた子よ」


「資料と、これまでの映像は拝見しました」


「どう?」


「目を引くものはあります」


「ただ、現時点では、既にエントリーを表明している神谷プロの霞坂玲奈(かすみざか・れな)さんとは比較になりません」


鳳城の口元が上がった。


「はっきり言うのね」


「そのために呼んだのでしょう?」


「ええ。気に入ったわ」


鳳城は、テーブルの上に置かれた二人の資料を見る。


森下紬。


霞坂玲奈。


「演技を教えることには自信があるの」


鳳城は自分の資料ではなく、紬の写真に指を置いた。


「紬を朝倉真琴に近づける。その部分なら、霞坂玲奈が相手でも勝負できる」


「はい」


「でも、今回のオーディションは、それだけじゃない」


専用SNSのフォロワー数。


演技課題動画。


歌唱課題動画。


「私は、こういうのには自信がないの」


鳳城礼は、自分にできないことを口にするのに、まったく躊躇しなかった。


「だから、助けて」


■14


「だから、助けて」


「そう言われましても」


凛子は資料を一枚めくった。


「私は、SNSマーケティングを専門にしているわけではありませんよ」


「潮入市長選挙、見たわ」


凛子の手が止まる。


「表に名前は出ていなかったけど」


鳳城は、ゆっくりと脚を組み替えた。


ただそれだけの動作なのに、妙に艶めかしい。


長い脚が重なり、パンツスーツの裾から細い足首が覗く。指先の置き方から背筋の角度まで、どこを切り取っても一枚の絵になる。


何万人もの視線を集めてきた人間は、座って脚を組むだけでも違うらしい。


それが長年の習慣なのか、凛子へ見せるための演技なのかは、まだ分からなかった。


「蒼路野誠司を一週間で、無名の市議から全国ニュースの主役にした」


「私は、少しお手伝いをしただけです」


「獅子堂純一郎を、二十年ぶりに街頭へ引っ張り出したのも?」


「それは、獅子堂元総理ご本人がお決めになったことです」


「その獅子堂純一郎が集めた記者を、全部、蒼路野誠司のために使ったのも?」


「結果的には、そうなりましたね」


鳳城が楽しそうに笑う。


「噂どおりね」


「どんな噂でしょう」


「表では有名じゃない。でも、依頼を受けた相手を、誰も想像していなかった場所まで連れていく」


鳳城が凛子を見る。


「天才事業コンサルタント、新納凛子」


「ずいぶん大げさな噂ですね」


■15


「私は、噂にならない人の噂を集めるのが得意なの」


鳳城が、少しだけ身を寄せた。


再び、顔が近くなる。


さっきは同じ画面を見るためだった。


今度は違う。


鳳城は、意図的にこの距離まで近づいている。


「それと」


「はい?」


「私の顔、好きでしょう?」


「ええ」


凛子は素直に認めた。


「かなり好みです」


鳳城が一瞬、目を細めた。


「そこまで正直に言われるとは思わなかったわ」


「言われ慣れているでしょう?」


「もちろん」


鳳城は否定しない。


「でも、あなた、落ち着いてるのね」


「仕事中ですから」


「そういう意味じゃないの」


鳳城礼は知っている。


自分がこの距離で顔を覗き込めば、大抵の女性がどうなるのかを。


目を逸らす。


言葉に詰まる。


意味もなく笑う。


あるいは、自分が意識していることを隠そうとして、必要以上に平静を装う。


凛子は、どれでもなかった。


鳳城の美しさを認めている。


異性を見るのとは違う視線も、隠していない。


それでも、自分がどう見られているかを理解したまま、普通に会話を続けている。


「あなた、女性と付き合ったことがあるでしょう?」


■16


「あなた、女性と付き合ったことがあるでしょう?」


凛子は、少しだけ眉を上げた。


「分かりますか?」


「分かるわ」


「学生時代と、社会人になってから。数回ほど」


「そう」


「結婚もしましたよ。相手は男性ですけど」


「今も?」


「夫とは死別しました」


鳳城は一瞬だけ黙った。


「そう」


同情するでもなく、慌てて謝るでもなかった。


ただ、事実として受け取る。


「子どももいます」


「何歳?」


「九歳です。今はイギリスで、父方の祖父母と暮らしています」


「あなたは日本で一人暮らし?」


「はい」


「なるほどね」


鳳城は、そこでようやく身体を離した。


「驚かないんですね」


「何に?」


「夫と死別して、子どもをイギリスに残して、日本で暮らしていることに」


「事情があるんでしょう?」


「あります。……あるのかな?」


凛子は、自分で口にしてから少し笑った。


「いえ。説明すれば、それだけのことです」


「そう」


鳳城は、それ以上追及しなかった。


「なら、必要になったときに聞くわ。今回の依頼には関係ないもの」


鳳城は閉じていたノートパソコンを、テーブルの端へ寄せた。


「はい」


■17


鳳城は、森下紬の資料を凛子の前へ差し出した。


「繰り返しになるけど、この子を朝倉真琴にしたいの」


資料の中で、十五歳の少女が、まだぎこちない笑顔を浮かべている。


「どうかしら?」


凛子は革製のパッドフォリオを開き、見積書を一枚取り出した。


「こちらでよろしければ、お引き受けします」


鳳城は見積書へ目を通した。


「着手金なし。成果報酬のみ?」


「はい」


「それで、このお値段?」


「はい」


「L&P出身の独立コンサルタントとしては、安いわね」


「ああ、そこまでご存じなんですね」


「言ったでしょう。噂にならない人の噂を集めるのが得意なの」


「弊社は、お客様と長くお付き合いさせていただく方針ですので」


凛子は付け加えた。


「まあ、必要経費は精算していただきますけど」


「紬が朝倉真琴役に選ばれなかった場合は?」


「成果報酬ですので」


「ずいぶん、自信があるのね」


「はい」


鳳城が笑った。


「じゃあ、お支払いできるよう、私たちも今以上に全力でやるわ」


鳳城は見積書をテーブルへ戻し、立ち上がった。


「決まり。紬は下のスタジオで待たせているわ」


「もう来ているんですか?」


「ええ。契約が決まったら、すぐ会議を始めるつもりだったから」


「私が断るとは思わなかったんですね」


鳳城が振り返る。


「その人の過去の仕事を見れば、何を選ぶかはだいたい分かるの」


楽しそうに笑う。


「女の勘ってやつかしら。私はみんなの元王子様だけどね」


「さあ、行きましょう。時間がないわ」


「はい」


「森下紬を、朝倉真琴にするわよ」


二人は、紬が待つ下の階へ向かった。


■18


鳳城が、下階の撮影スタジオのドアを開けた。


「だから、お願い――」


白い壁の前で、一人の少女が朝倉真琴の課題台詞を練習していた。


「紬。そこで前に出ない」


少女が振り返る。


「真琴が遥を追い詰めてどうするの。半歩下がって、逃げ道を作ってあげなさい」


「はい!」


森下紬、15歳。


埼玉県八潮市在住。


埼玉県立浦西高校に通う、高校1年生。


小学生の頃に地域のダンス教室へ通っていた以外、本格的な芸能活動の経験はない。


凛子は、改めて生で紬を見る。


演技の技術は、まだ高くない。


立ち方も、呼吸も、台詞の間も不安定だった。


だが、鳳城の指示を受けた直後、目の前の誰かへ本当に逃げ道を譲ったように見えた。


何かある。


さすが、鳳城礼が見つけてきた少女だった。


「紬、紹介するわ」


鳳城が凛子を手で示す。


「こちらは新納凛子さん。事業コンサルタントよ」


「事業コンサルタント……?」


「今日から、あなたを朝倉真琴にするチームに加わってもらうことになったの」


紬は慌てて頭を下げた。


「森下紬です。よろしくお願いします!」


「新納です。よろしくお願いします」


凛子も頭を下げる。


「演技を教えるのは鳳城さんで変わりません。私は、紬さんの努力と成長を、応援してくれる人たちへ届ける仕組みを作ります」


鳳城が紬を見る。


「紬。これは、あなた一人だけが頑張るオーディションじゃないわ」


紬が顔を上げる。


「あなたを朝倉真琴にするために、鳳城プロも、新納さんも、できることを全部やる」


「私たちも全力で頑張るから」


鳳城は、紬の肩へ手を置いた。


「あなたも、全力でついてきなさい」


「はい!」


紬の声が、スタジオに響いた。


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