元男役トップスターから求婚される⑤
■36
翌日、午前10時。
越谷レイクタウン駅から、開店したばかりのショッピングモールへ向かって人の流れが続いていた。
駅前広場には、グレーのTシャツと黒いハーフパンツを着た鳳城礼が立っていた。
帽子もサングラスもない。
最初に気づいたのは、20代くらいの女性だった。
「えっ……鳳城礼?」
礼の横を通り過ぎかけて、何人かの通行人が足を止める。
「本物?」
「なんでレイクタウンにいるの?」
「というか、あの服、どうしたの?」
「プライベートの鳳城礼って、ああいう恰好をするの?」
スマートフォンを向けようとした人々が、少し離れた場所に立つ凛子に気づく。
凛子は白い撮影スタッフ用のビブスを着て、小型のアクションカメラを構えていた。
背中には、『封鎖都市』の主演候補・森下紬と、美山遥を演じる鳳城礼の名前。そして、専用アカウントへつながる大きなQRコードが印刷されている。
「ああ、そういうことね」
「鳳城礼が15歳役やってるのか」
「鳳城礼、よくなるな」
「よく、そういうレッスン考えるもんだな」
「これ、配信してるみたい」
一人がQRコードを読み取ると、周囲の人々も次々にスマートフォンを取り出した。
凛子が持つ端末の画面で、配信の視聴者数とフォロワー数が少しずつ増えていく。
礼は集まる視線を気にすることなく、改札から出てくる人々の中に紬を見つけた。
「おーい、真琴! こっち、こっち!」
■37
白いブラウスにデニムのスカートを合わせた紬が、改札から出てきた。
礼の声に気づき、足早に近づいてくる。
そして、礼の服装を見た瞬間、その足が止まった。
目を大きく見開き、礼の姿を上から下まで確かめる。
「遥ちゃん、なんでそんな格好してるの?」
呼び方も、口調も間違っていない。
凛子には、私服のダサい親友に呆れる朝倉真琴に見えた。
しかし、礼は見逃さなかった。
最初に目を見開いた、ほんの一瞬。
美山遥の服装を見慣れている朝倉真琴なら、驚くより先に呆れるはずだった。
今の反応は、元男役トップスターが本当にTシャツとハーフパンツで現れたことに驚いた、森下紬のものだった。
「何? 変?」
礼は指摘せず、美山遥のまま自分の服を見下ろした。
「変っていうか……本当にそれで一日、私と歩くつもり?」
紬の目から、先ほどまでの驚きが消えていた。
今度の反応は、朝倉真琴だった。
「うん。動きやすいよ」
礼はその場で軽く屈伸してみせた。
「ほら」
「運動しに来たんじゃないんだから」
「でも、今日はたくさん歩くんでしょう?」
「そういう問題じゃないよ」
紬は大きく息を吐いた。
「とりあえず、服を買うから」
「えっ、最初に?」
「最初に」
「先に、お昼に何を食べるか決めようよ」
「だめ。その格好で一緒に歩く、私の気持ちも考えて」
「真琴、ひどくない?」
「遥が気にしなさすぎるの」
「別に、誰も見てないって」
紬は礼の周囲へ目を向けた。
二人の様子を遠巻きに見ながら、スマートフォンで配信を確認している人が何人もいる。
「見られてるから」
「それは、私たちがかわいいからじゃない?」
「遥は黙ってて」
紬は礼の手首をつかんだ。
「行くよ。まず服屋さん」
礼は引っ張られるまま、凛子のカメラへ一瞬だけ目を向けた。
昨日の朝倉真琴は、美山遥に手を引かれていた。
今日は、真琴の方から遥の手を取った。
礼は嬉しそうな顔を見せそうになり、すぐに美山遥の不満そうな表情へ戻る。
「そんなに変かなあ」
「変。絶対に着替えて」
紬は礼の手首をつかんだまま、ショッピングモールへ向かって歩き始めた。
凛子がカメラを構え、二人のあとを追う。
二日目の特訓が始まった。
■38
昼過ぎ。
二人は、レイクタウンのフードコートで昼食を取っていた。
礼が着ているのは、白いTシャツに薄い水色の半袖シャツ、ゆったりとしたデニムパンツ。
すべて真琴が選んだ服だった。
鳳城礼のオーラまでは消しきれていない。
それでも遠くから見れば、友達とショッピングモールへ遊びに来た、背の高い女子高校生に見えなくもなかった。
「午後、映画を観に行こうよ」
冷やしうどんを食べながら、紬が言った。
向かいに座る礼は、ハンバーガーを両手で持ったまま紬を見る。
「いいよ。何を観る?」
「遥ちゃんは、何が観たい?」
「私が聞いたんだけど」
「私は恋愛映画」
紬は店内の上映案内へ目を向けた。
「でも、遥ちゃんは絶対に途中で寝るでしょう?」
「寝ないよ」
「去年も寝たじゃん」
「去年のは、話がつまらなかったから」
「じゃあ、ホラーにしようか。遥ちゃん、好きでしょう?」
「真琴、怖いの苦手じゃなかった?」
「苦手だけど、観られないほどじゃないよ」
礼はハンバーガーを一口食べた。
その間も、紬の表情を見ていた。
昼食を決めるとき、礼は「何を食べる?」としか聞かなかった。
紬は鳳城礼の顔色をうかがわず、昨夜の祭りで食べすぎた朝倉真琴として、冷やしうどんを選んだ。
映画も同じだった。
自分が観たい作品ではなく、美山遥と一緒に観る作品を選んでいる。
原作に、二人がどんな映画を好むかまでは書かれていない。
正解は、どこにもなかった。
それでも紬の中では、朝倉真琴と美山遥の過去が、少しずつ作られ始めている。
「じゃあ、ホラーで決まりね」
礼が言った。
「途中で怖くなっても、手は握ってあげないから」
「別に、そのくらい平気だし」
「本当に?」
「遥ちゃんこそ、びっくりして声を出さないでよ」
紬が笑った。
礼も、美山遥として笑い返した。
■39
映画館を出ると、凛子が配信を再開した。
「楽しかったね」
紬が満足そうに言った。
「真琴、途中で三回くらい目を閉じてたけど」
「閉じてないよ」
「じゃあ、四回?」
「増えてるじゃん」
「怖かったなら、手を握ってあげたのに」
「遥ちゃんの方が、大きな音がするたびに跳ねてたでしょう?」
「気のせいじゃない?」
二人は笑いながら、出口へ向かって歩いた。
「そろそろ帰ろうか」
紬が言いかけて、足を止める。
「どうしたの?」
「遥ちゃん。明日のプール、水着は持ってる?」
「持ってるよ」
「どんなの?」
「黒いやつ」
「黒?」
「うん。泳ぎやすいし、水の抵抗も少ない」
紬は、礼が着ている服を見た。
白いTシャツ。
薄い水色の半袖シャツ。
ゆったりとしたデニムパンツ。
すべて今日、紬が選んだものだった。
そして、その前に礼が着てきたのは、無地のTシャツとハーフパンツだった。
紬の表情が変わる。
「それ、遊びに行くときの水着じゃなくて、泳ぐ練習をするときの水着でしょう?」
「プールで泳ぐんだから、同じじゃない?」
「違うよ」
「何が?」
「全然違う」
紬は来た道を振り返った。
「帰るんじゃなかったの?」
「予定変更。水着売り場に行くよ」
「今から?」
「明日、その真っ黒な水着で来られたら困るから」
「別にいいじゃん。泳げるんだし」
「よくない。明日は水泳の授業じゃないの。友達と夏休みに遊びに行くの」
紬は、礼の手首をつかんだ。
その瞬間、礼の胸の内に、指導者としての声が浮かんだ。
――そうだ、紬。それでいい。
役者が演じるのは、台本に書かれた瞬間だけではない。
限られた台詞と設定から、その人物がどんな過去を生きてきたのかを考える。
そして、台本に書かれていない明日を迎えても、その人物なら何を考え、どう動くのかを選べなければならない。
今日の遥の私服を見て、明日の遥の水着を想像する。
過去と未来がつながって初めて、役は台本の中の登場人物ではなく、一人の人間になる。
それが、鳳城礼の教えようとしている演技だった。
「ほら、行くよ」
「真琴、買い物好きだね」
「遥が何も考えてなさすぎるの」
紬は礼を引っ張り、再びモールの中へ戻っていく。
礼は美山遥のまま、不満そうな顔でそのあとをついていった。
■40
午後7時。
三人は、八潮駅へ戻ってきた。
駅前にはまだ昼間の熱気が残り、仕事帰りの人々が改札から次々に出てくる。
凛子がアクションカメラを下ろした。
「はい、カット!」
礼の声が、美山遥から鳳城礼へ戻った。
「お疲れさまでした」
凛子が二人へ頭を下げる。
紬は、その場で大きく息を吐いた。
遥の私服と水着が入った買い物袋を持つ手から力が抜け、張り詰めていた肩が下がる。
朝倉真琴から、同い年の森下紬へ戻った。
「お、お疲れさまでした……」
「疲れた?」
礼が尋ねる。
「はい。でも、昨日より少しだけ、真琴でいられた気がします」
「それをこれから確認するのよ」
礼は駅前のカラオケ店を指さした。
「はい。では、今日も昨日と同じカラオケボックスへ行きましょう!」
「もう予約してあります」
凛子が付け加える。
「お母さまにも連絡済みです」
「ありがとうございます」
三人は、今日一日の映像を確認するため、駅前のカラオケ店へ向かった。
■41
カラオケルームの大型モニターには、レイクタウンで撮影した映像が映し出されていた。
礼は映像を止め、ソファに座る紬を見る。
「最初は、まだ森下紬が出ていたわね」
「はい」
「駅前で私の服を見た瞬間。台詞も呼び方も間違っていなかったけど、あれは朝倉真琴の驚き方ではなかった」
「分かりましたか?」
「私を誰だと思っているの?」
礼は再生を続けた。
画面の中では、紬が礼の手首をつかみ、服を買うためにモールへ引っ張っている。
「でも、後半はかなりよかった。私が次に何をするか、鳳城礼の顔を見て正解を探さなくなった」
「はい」
「玲奈ちゃんには、まだまだ勝てないわよ」
礼ははっきりと言った。
「技術も、カメラの前での安定感も、向こうが圧倒的に上。でも、今日の後半だけなら、ぎりぎりプロの俳優を名乗っても怒られない程度にはなった」
紬の顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「ぎりぎりよ。喜ぶのは早いわ」
「はい!」
■42
礼の講評が終わると、凛子がスマートフォンを持ち上げた。
「では、私から配信結果をご報告します」
「どうだった?」
「結論から言うと」
凛子は画面を二人へ向けた。
「バズりまくっています」
専用アカウントのフォロワー数は、すでに1万人を突破していた。
特に再生されているのは、紬が礼へ水着を選んでいる場面だった。
画面の中で紬は、ティーン向けの水着を次々に礼へ勧めている。
「というか、私の身長に合う、こういうかわいい水着なんて、あまりないと思っていたけど。探せば結構あるものね」
礼が感心したように言った。
画面の中の礼も、照れたり鳳城礼へ戻ったりすることなく、15歳の美山遥として真剣に受け答えしている。
「コメントを読みますね」
凛子が画面を動かした。
「『えっ、次回は水着回?』」
「『鳳城礼って、今まで水着になったことあったっけ?』」
「『紬ちゃん、ガチで15歳に着せる水着を36歳にコーディネートしてる』」
「『紬もガチだけど、鳳城礼も役者やな』」
「『迫真の演技』」
紬が画面をのぞき込む。
「こんなに見られているんですか?」
「切り抜き動画も、いくつも作られています。ほら」
凛子が短い動画を再生した。
画面には、水着を手にした紬と、それを身体へ当てながら真剣に悩む礼が映っている。
〈元花乃宮男役トップスター、15歳の親友に水着を選ばれる〉
という字幕がついていた。
■43
「紬ちゃんが、完全に真琴として鳳城さんへ水着を勧めているところ。それから、鳳城さんが一切照れず、美山遥として応じているところが評価されています」
「みんな、よく見ているのね」
礼が感心したように言った。
「ただし、明日のプールは、当然といえば当然ですが、施設内の撮影はNGでした」
「そうなんですね」
紬の肩から、わずかに力が抜けた。
「紬」
「はい」
「今、少しほっとしたでしょう?」
「……はい」
紬は正直に認めた。
「市民プールで泳ぐのは平気なんです。でも、水着姿を大勢の人に配信されるのは、ちょっと恥ずかしくて」
「それでいいわ。恥ずかしいと思うこと自体は、何も悪くない」
礼は言った。
「私は、あなたをグラビアで売るつもりはない。でも、作品の中で必要な衣装なら、水着にもなりなさい」
「はい」
「森下紬が見せたいかどうかではなく、その場面に朝倉真琴が必要かどうかで判断するの」
「はいっ」
そのとき、カラオケルームの扉が二度ノックされた。
「こんばんは。真琴が今日もお世話になっています」
扉を開け、紬の母親が顔を出した。
「あっ、お母さん」
「今日もありがとうございました」
母親が三人へ頭を下げる。
紬は荷物をまとめ、立ち上がった。
「じゃあね、遥」
一度は森下紬へ戻っていた表情が、自然に朝倉真琴へ変わる。
「明日は午前十時、原山市民プールの入口だから。遅れないでよ」
「分かってるって、真琴」
礼も美山遥として答えた。
二人は笑って、手を振った。




