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新納凛子(32)は今日も求婚される  作者: 冬室すずめ
元男役トップスターから求婚される
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10/11

元男役トップスターから求婚される⑤

■36


翌日、午前10時。


越谷レイクタウン駅から、開店したばかりのショッピングモールへ向かって人の流れが続いていた。


駅前広場には、グレーのTシャツと黒いハーフパンツを着た鳳城礼が立っていた。


帽子もサングラスもない。


最初に気づいたのは、20代くらいの女性だった。


「えっ……鳳城礼?」


礼の横を通り過ぎかけて、何人かの通行人が足を止める。


「本物?」


「なんでレイクタウンにいるの?」


「というか、あの服、どうしたの?」


「プライベートの鳳城礼って、ああいう恰好をするの?」


スマートフォンを向けようとした人々が、少し離れた場所に立つ凛子に気づく。


凛子は白い撮影スタッフ用のビブスを着て、小型のアクションカメラを構えていた。


背中には、『封鎖都市』の主演候補・森下紬と、美山遥を演じる鳳城礼の名前。そして、専用アカウントへつながる大きなQRコードが印刷されている。


「ああ、そういうことね」


「鳳城礼が15歳役やってるのか」


「鳳城礼、よくなるな」


「よく、そういうレッスン考えるもんだな」


「これ、配信してるみたい」


一人がQRコードを読み取ると、周囲の人々も次々にスマートフォンを取り出した。


凛子が持つ端末の画面で、配信の視聴者数とフォロワー数が少しずつ増えていく。


礼は集まる視線を気にすることなく、改札から出てくる人々の中に紬を見つけた。


「おーい、真琴! こっち、こっち!」


■37


白いブラウスにデニムのスカートを合わせた紬が、改札から出てきた。


礼の声に気づき、足早に近づいてくる。


そして、礼の服装を見た瞬間、その足が止まった。


目を大きく見開き、礼の姿を上から下まで確かめる。


「遥ちゃん、なんでそんな格好してるの?」


呼び方も、口調も間違っていない。


凛子には、私服のダサい親友に呆れる朝倉真琴に見えた。


しかし、礼は見逃さなかった。


最初に目を見開いた、ほんの一瞬。


美山遥の服装を見慣れている朝倉真琴なら、驚くより先に呆れるはずだった。


今の反応は、元男役トップスターが本当にTシャツとハーフパンツで現れたことに驚いた、森下紬のものだった。


「何? 変?」


礼は指摘せず、美山遥のまま自分の服を見下ろした。


「変っていうか……本当にそれで一日、私と歩くつもり?」


紬の目から、先ほどまでの驚きが消えていた。


今度の反応は、朝倉真琴だった。


「うん。動きやすいよ」


礼はその場で軽く屈伸してみせた。


「ほら」


「運動しに来たんじゃないんだから」


「でも、今日はたくさん歩くんでしょう?」


「そういう問題じゃないよ」


紬は大きく息を吐いた。


「とりあえず、服を買うから」


「えっ、最初に?」


「最初に」


「先に、お昼に何を食べるか決めようよ」


「だめ。その格好で一緒に歩く、私の気持ちも考えて」


「真琴、ひどくない?」


「遥が気にしなさすぎるの」


「別に、誰も見てないって」


紬は礼の周囲へ目を向けた。


二人の様子を遠巻きに見ながら、スマートフォンで配信を確認している人が何人もいる。


「見られてるから」


「それは、私たちがかわいいからじゃない?」


「遥は黙ってて」


紬は礼の手首をつかんだ。


「行くよ。まず服屋さん」


礼は引っ張られるまま、凛子のカメラへ一瞬だけ目を向けた。


昨日の朝倉真琴は、美山遥に手を引かれていた。


今日は、真琴の方から遥の手を取った。


礼は嬉しそうな顔を見せそうになり、すぐに美山遥の不満そうな表情へ戻る。


「そんなに変かなあ」


「変。絶対に着替えて」


紬は礼の手首をつかんだまま、ショッピングモールへ向かって歩き始めた。


凛子がカメラを構え、二人のあとを追う。


二日目の特訓が始まった。


■38


昼過ぎ。


二人は、レイクタウンのフードコートで昼食を取っていた。


礼が着ているのは、白いTシャツに薄い水色の半袖シャツ、ゆったりとしたデニムパンツ。


すべて真琴が選んだ服だった。


鳳城礼のオーラまでは消しきれていない。


それでも遠くから見れば、友達とショッピングモールへ遊びに来た、背の高い女子高校生に見えなくもなかった。


「午後、映画を観に行こうよ」


冷やしうどんを食べながら、紬が言った。


向かいに座る礼は、ハンバーガーを両手で持ったまま紬を見る。


「いいよ。何を観る?」


「遥ちゃんは、何が観たい?」


「私が聞いたんだけど」


「私は恋愛映画」


紬は店内の上映案内へ目を向けた。


「でも、遥ちゃんは絶対に途中で寝るでしょう?」


「寝ないよ」


「去年も寝たじゃん」


「去年のは、話がつまらなかったから」


「じゃあ、ホラーにしようか。遥ちゃん、好きでしょう?」


「真琴、怖いの苦手じゃなかった?」


「苦手だけど、観られないほどじゃないよ」


礼はハンバーガーを一口食べた。


その間も、紬の表情を見ていた。


昼食を決めるとき、礼は「何を食べる?」としか聞かなかった。


紬は鳳城礼の顔色をうかがわず、昨夜の祭りで食べすぎた朝倉真琴として、冷やしうどんを選んだ。


映画も同じだった。


自分が観たい作品ではなく、美山遥と一緒に観る作品を選んでいる。


原作に、二人がどんな映画を好むかまでは書かれていない。


正解は、どこにもなかった。


それでも紬の中では、朝倉真琴と美山遥の過去が、少しずつ作られ始めている。


「じゃあ、ホラーで決まりね」


礼が言った。


「途中で怖くなっても、手は握ってあげないから」


「別に、そのくらい平気だし」


「本当に?」


「遥ちゃんこそ、びっくりして声を出さないでよ」


紬が笑った。


礼も、美山遥として笑い返した。


■39


映画館を出ると、凛子が配信を再開した。


「楽しかったね」


紬が満足そうに言った。


「真琴、途中で三回くらい目を閉じてたけど」


「閉じてないよ」


「じゃあ、四回?」


「増えてるじゃん」


「怖かったなら、手を握ってあげたのに」


「遥ちゃんの方が、大きな音がするたびに跳ねてたでしょう?」


「気のせいじゃない?」


二人は笑いながら、出口へ向かって歩いた。


「そろそろ帰ろうか」


紬が言いかけて、足を止める。


「どうしたの?」


「遥ちゃん。明日のプール、水着は持ってる?」


「持ってるよ」


「どんなの?」


「黒いやつ」


「黒?」


「うん。泳ぎやすいし、水の抵抗も少ない」


紬は、礼が着ている服を見た。


白いTシャツ。


薄い水色の半袖シャツ。


ゆったりとしたデニムパンツ。


すべて今日、紬が選んだものだった。


そして、その前に礼が着てきたのは、無地のTシャツとハーフパンツだった。


紬の表情が変わる。


「それ、遊びに行くときの水着じゃなくて、泳ぐ練習をするときの水着でしょう?」


「プールで泳ぐんだから、同じじゃない?」


「違うよ」


「何が?」


「全然違う」


紬は来た道を振り返った。


「帰るんじゃなかったの?」


「予定変更。水着売り場に行くよ」


「今から?」


「明日、その真っ黒な水着で来られたら困るから」


「別にいいじゃん。泳げるんだし」


「よくない。明日は水泳の授業じゃないの。友達と夏休みに遊びに行くの」


紬は、礼の手首をつかんだ。


その瞬間、礼の胸の内に、指導者としての声が浮かんだ。


――そうだ、紬。それでいい。


役者が演じるのは、台本に書かれた瞬間だけではない。


限られた台詞と設定から、その人物がどんな過去を生きてきたのかを考える。


そして、台本に書かれていない明日を迎えても、その人物なら何を考え、どう動くのかを選べなければならない。


今日の遥の私服を見て、明日の遥の水着を想像する。


過去と未来がつながって初めて、役は台本の中の登場人物ではなく、一人の人間になる。


それが、鳳城礼の教えようとしている演技だった。


「ほら、行くよ」


「真琴、買い物好きだね」


「遥が何も考えてなさすぎるの」


紬は礼を引っ張り、再びモールの中へ戻っていく。


礼は美山遥のまま、不満そうな顔でそのあとをついていった。


■40


午後7時。


三人は、八潮駅へ戻ってきた。


駅前にはまだ昼間の熱気が残り、仕事帰りの人々が改札から次々に出てくる。


凛子がアクションカメラを下ろした。


「はい、カット!」


礼の声が、美山遥から鳳城礼へ戻った。


「お疲れさまでした」


凛子が二人へ頭を下げる。


紬は、その場で大きく息を吐いた。


遥の私服と水着が入った買い物袋を持つ手から力が抜け、張り詰めていた肩が下がる。


朝倉真琴から、同い年の森下紬へ戻った。


「お、お疲れさまでした……」


「疲れた?」


礼が尋ねる。


「はい。でも、昨日より少しだけ、真琴でいられた気がします」


「それをこれから確認するのよ」


礼は駅前のカラオケ店を指さした。


「はい。では、今日も昨日と同じカラオケボックスへ行きましょう!」


「もう予約してあります」


凛子が付け加える。


「お母さまにも連絡済みです」


「ありがとうございます」


三人は、今日一日の映像を確認するため、駅前のカラオケ店へ向かった。


■41


カラオケルームの大型モニターには、レイクタウンで撮影した映像が映し出されていた。


礼は映像を止め、ソファに座る紬を見る。


「最初は、まだ森下紬が出ていたわね」


「はい」


「駅前で私の服を見た瞬間。台詞も呼び方も間違っていなかったけど、あれは朝倉真琴の驚き方ではなかった」


「分かりましたか?」


「私を誰だと思っているの?」


礼は再生を続けた。


画面の中では、紬が礼の手首をつかみ、服を買うためにモールへ引っ張っている。


「でも、後半はかなりよかった。私が次に何をするか、鳳城礼の顔を見て正解を探さなくなった」


「はい」


「玲奈ちゃんには、まだまだ勝てないわよ」


礼ははっきりと言った。


「技術も、カメラの前での安定感も、向こうが圧倒的に上。でも、今日の後半だけなら、ぎりぎりプロの俳優を名乗っても怒られない程度にはなった」


紬の顔が明るくなる。


「本当ですか?」


「ぎりぎりよ。喜ぶのは早いわ」


「はい!」


■42


礼の講評が終わると、凛子がスマートフォンを持ち上げた。


「では、私から配信結果をご報告します」


「どうだった?」


「結論から言うと」


凛子は画面を二人へ向けた。


「バズりまくっています」


専用アカウントのフォロワー数は、すでに1万人を突破していた。


特に再生されているのは、紬が礼へ水着を選んでいる場面だった。


画面の中で紬は、ティーン向けの水着を次々に礼へ勧めている。


「というか、私の身長に合う、こういうかわいい水着なんて、あまりないと思っていたけど。探せば結構あるものね」


礼が感心したように言った。


画面の中の礼も、照れたり鳳城礼へ戻ったりすることなく、15歳の美山遥として真剣に受け答えしている。


「コメントを読みますね」


凛子が画面を動かした。


「『えっ、次回は水着回?』」


「『鳳城礼って、今まで水着になったことあったっけ?』」


「『紬ちゃん、ガチで15歳に着せる水着を36歳にコーディネートしてる』」


「『紬もガチだけど、鳳城礼も役者やな』」


「『迫真の演技』」


紬が画面をのぞき込む。


「こんなに見られているんですか?」


「切り抜き動画も、いくつも作られています。ほら」


凛子が短い動画を再生した。


画面には、水着を手にした紬と、それを身体へ当てながら真剣に悩む礼が映っている。


〈元花乃宮男役トップスター、15歳の親友に水着を選ばれる〉


という字幕がついていた。


■43


「紬ちゃんが、完全に真琴として鳳城さんへ水着を勧めているところ。それから、鳳城さんが一切照れず、美山遥として応じているところが評価されています」


「みんな、よく見ているのね」


礼が感心したように言った。


「ただし、明日のプールは、当然といえば当然ですが、施設内の撮影はNGでした」


「そうなんですね」


紬の肩から、わずかに力が抜けた。


「紬」


「はい」


「今、少しほっとしたでしょう?」


「……はい」


紬は正直に認めた。


「市民プールで泳ぐのは平気なんです。でも、水着姿を大勢の人に配信されるのは、ちょっと恥ずかしくて」


「それでいいわ。恥ずかしいと思うこと自体は、何も悪くない」


礼は言った。


「私は、あなたをグラビアで売るつもりはない。でも、作品の中で必要な衣装なら、水着にもなりなさい」


「はい」


「森下紬が見せたいかどうかではなく、その場面に朝倉真琴が必要かどうかで判断するの」


「はいっ」


そのとき、カラオケルームの扉が二度ノックされた。


「こんばんは。真琴が今日もお世話になっています」


扉を開け、紬の母親が顔を出した。


「あっ、お母さん」


「今日もありがとうございました」


母親が三人へ頭を下げる。


紬は荷物をまとめ、立ち上がった。


「じゃあね、遥」


一度は森下紬へ戻っていた表情が、自然に朝倉真琴へ変わる。


「明日は午前十時、原山市民プールの入口だから。遅れないでよ」


「分かってるって、真琴」


礼も美山遥として答えた。


二人は笑って、手を振った。


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