寄り道
その日は、いつもの交差点でひかるに会った。
「帰る?」
「うん」
並んで歩き出す。
もう、どちらからともなくそうするようになっていた。
少し進んだところで、ひかるが足を止めた。
「今日、こっち行ってみない?」
指したのは、いつもの帰り道とは違う細い道だった。
「なんで?」
「なんとなく」
「またそれ?」
「今日は『色々』じゃないだろ」
「似たようなものじゃん」
ひかるが笑う。
私は細い道の先を見た。
通れないわけではない。
家から遠くなるわけでもない。
ただ、普段は使わない道だった。
「まあ、いいけど」
角を曲がる。
それだけで、見慣れた町が少し違って見えた。
古いクリーニング店。
小さな喫茶店。
軒先に鉢植えを並べた家。
何度も近くを通っているはずなのに、知らない場所ばかりだった。
「こんなところあったんだ」
「こはく、この辺通らないの?」
「いつも同じ道だから」
「学校と家の往復?」
「だいたい」
「真面目だな」
「面倒なだけ」
そう言ってから、自分でも少し納得した。
事件があってから、寄り道をしなくなった。
学校から家へ。
家から学校へ。
必要なところにだけ行く。
知らない店に入れば、人と顔を合わせる。
どこかに長くいれば、自分を知っている人に会うかもしれない。
そんなことを考えるくらいなら、まっすぐ帰る方が楽だった。
「こはく」
声に顔を上げる。
ひかるが一軒の店を見ていた。
大きな看板はない。
ガラス張りの小さな店で、棚に食器や小物が並んでいる。
「こういう店、前からあった?」
「知らない」
「見てく?」
「何を?」
「何があるか」
「買うものないよ」
「見るだけなら無料」
ひかるは店の中を覗いている。
私は少し迷った。
知らない店に入る理由なんてない。
けれど、帰らなければいけない理由もなかった。
「……ちょっとだけね」
扉を開けた。
小さなベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
奥から声がした。
私は反射的にそちらを見る。
カウンターにいた女性が、軽く頭を下げた。
「ごゆっくりどうぞ」
「はい」
答えてから、店の中へ進んだ。
棚には、形の違うグラスや器が並んでいた。
透明なもの。
青いもの。
緑色のもの。
光が当たるたびに、色が床へ薄く落ちている。
「こういうの好きだったよな」
ひかるが言った。
「私?」
「昔、ガラス玉集めてたじゃん」
「ああ……」
言われて思い出した。
子どもの頃、色のついたビー玉やガラス片を集めていた。
綺麗だからという理由だけで拾って、箱の中にしまっていた。
いつからか、そんなこともしなくなった。
棚の端に、小さなグラスがあった。
薄い琥珀色。
飾り気のない形で、光の当たるところだけ少し明るく見える。
私は足を止めた。
「それ?」
ひかるが聞く。
「何が?」
「気になったやつ」
「見てただけ」
値札を見る。
買えない金額ではなかった。
でも、必要なものでもない。
「買わないの?」
「使わないし」
「グラスなんだから使うだろ」
「家にある」
「じゃあいらないか」
ひかるはあっさり言った。
「勧めないんだ」
「いらないって言ったの、こはくだろ」
「そうだけど」
もう一度、グラスを見る。
綺麗だと思った。
ただ、それだけで物を欲しいと思ったのは久しぶりだった。
結局、私は何も買わなかった。
店を出ると、まだ少し明るかった。
「どうだった?」
ひかるが聞く。
「普通」
「絶対それ言うと思った」
「普通だったし」
「グラス、気に入ってたじゃん」
「買ってない」
「気に入るのと買うのは別だろ」
少し先を歩くひかるの背中を見る。
「……ひかるって、昔のことよく覚えてるね」
ひかるが振り返った。
「こはくが忘れすぎなんじゃない?」
「そんなに忘れてない」
「ラムネも忘れてた」
「あれは忘れてたんじゃなくて、すぐ出てこなかっただけ」
「それを忘れてたって言うんだよ」
私は少し笑った。
知らない道だった。
知らない店だった。
何も買わなかった。
それでも、来てよかったと思った。
しばらく歩くと、見覚えのある大きな通りへ出た。
「あ」
いつもの帰り道だった。
少し離れた場所に、毎日通っている交差点が見える。
「ここにつながってるんだ」
「知らなかった?」
「知らなかった」
ひかるは何も言わず、少し笑った。
私は振り返る。
さっきの細い道は、もう建物の間に隠れかけていた。
ずっと近くにあったのに、今まで一度も入ろうと思わなかった道。
明日から使うかと言われたら、たぶん使わない。
でも。
あの店の前なら、もう一人でも通れる気がした。




