知ってるよ
それからも、ひかるとは何度か会った。
約束はしていない。
連絡先も知らない。
なのに、帰り道で顔を合わせることが増えていた。
その日は、公園の前にひかるがいた。
「こはく」
名前を呼ばれる。
何度聞いても、その声にはまだ少しだけ慣れなかった。
「今日もいた」
「またその言い方」
ひかるが笑う。
私も笑って、隣に並んだ。
しばらくは学校の話をした。
先生が授業で教科書のページを間違えたこと。
購買のパンが売り切れていたこと。
少し前まで、こんなことを誰かに話そうとも思わなかった。
学校で起きたことは、学校に置いてくるものだった。
ひかると会うようになってから、どうでもいいことまで覚えて帰るようになった。
「こはく」
「なに?」
「さっきから、それ見てるけど」
ひかるが視線を向けた先に、小さなパン屋があった。
「ああ」
何度も前を通っている店だった。
ガラス越しに、焼きたてのパンが並んでいる。
「入る?」
「別に」
「食べたそうだけど」
「見てただけ」
ひかるは少し考えてから、
「じゃあ俺、ちょっと休みたい」
と言った。
「疲れた?」
「少し」
珍しく素直な答えだった。
「……入る?」
「うん」
扉を開けると、小さなベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
店の奥から声がする。
店員の女性と目が合って、私は一瞬だけ肩に力を入れた。
けれど、女性はすぐに商品の方へ視線を戻した。
私は息を吐く。
最近は、誰かに見られるたびに考えてしまう。
私を知っているのか。
父のことを知っているのか。
それとも、何も知らないのか。
ひかるは窓際の席へ向かった。
私はパンを一つ選び、会計を済ませる。
「こちらでお召し上がりですか?」
「はい」
トレーを持って席へ行く。
ひかるの向かいに座った。
「それ好きなの?」
「初めて買った」
「じゃあ何で選んだの」
「なんとなく」
袋を開けると、少し甘い匂いがした。
一口食べる。
「どう?」
「おいしい」
「ならよかった」
ひかるは窓の外を見ていた。
その横顔を見ていて、ふと気づく。
そういえば、ひかるは何も聞いてこない。
学校が楽しいかとは聞いた。
最近どうしているかも聞いた。
でも、一番大きなことだけは、まだ一度も聞かれていなかった。
私はパンを置いた。
「ひかるってさ」
「ん?」
「何で何も聞かないの?」
ひかるがこちらを見る。
「何を?」
「……色々」
「色々じゃ分からない」
少し迷った。
自分から話題にしたくはなかった。
でも、ずっと気になっていた。
「私のお父さんのこと」
ひかるの表情が変わった。
ほんの少しだけ。
笑っていた目が静かになる。
「知らないんでしょ」
だから普通に接してくれるのだと思っていた。
昔の私しか知らないから。
父が事件を起こす前の私。
ニュースで名前が出る前の私。
そういう私のまま、ひかるの中には残っているのだと思っていた。
ひかるは少し黙った。
「知ってるよ」
「……え?」
「事件のこと」
私は手を止めた。
「いつから?」
「最初から」
最初から。
あの日。
道路の向こうから私を見つけて、
「あれ? こはく、久しぶり」
と笑ったときから。
知っていた。
「……なんで」
聞きたいことがいくつも浮かんだ。
どこで知ったの。
どこまで知っているの。
どうして何も言わなかったの。
でも、口から出たのは別の言葉だった。
「なんで普通なの?」
ひかるが少し眉を寄せる。
「普通?」
「だって……」
みんな、知ったあとで変わった。
近くにいた人ほど、どう接していいのか分からなくなった。
それが普通なのだと思うようになっていた。
「私のお父さんが――」
「こはくがやったの?」
言葉を遮られた。
「……違う」
「うん」
ひかるは一度頷いた。
「お父さんがしたことを、軽く言うつもりはないよ」
声が少し低かった。
「起きたことがなくなるわけでもない」
私はひかるを見る。
その言葉だけ、今までより少し強く聞こえた。
「でも、それとこはくは別だろ」
静かな声だった。
慰めるようでもない。
無理に笑わせようとしているわけでもない。
当たり前のことを確認するように言った。
「俺が話してるのは、こはくだし」
「……そういうもの?」
「少なくとも俺はそう」
胸の奥に入っていた力が、少し抜けた。
事件を知っている。
最初から。
なのに、私を見る目は変わらなかった。
泣きそうになって、私は残っていたパンを口に入れた。
さっきより甘く感じた。
「ひかる」
「ん?」
「どこで知ったの?」
ひかるは少しだけ目を伏せる。
「まあ、色々」
「またそれ」
「そのうち話すよ」
前にも聞いた答えだった。
私はパンの袋を畳んだ。
「そのうち、ばっかり」
「便利だからな」
「ずるい」
ひかるが少し笑った。
私も、それ以上は追及しなかった。
店を出ると、夕方の空気が少し冷たくなっていた。
並んで歩く。
知っていた。
最初から。
ひかるには、私の知らないことがある。
たぶん、一つや二つではない。
それでも、事件を知ったひかるが、変わらず私を「こはく」と呼ぶ。
そのことを、私は疑わなかった。




