その果実の味を知ってしまったが故に
それは見た目には老宰相と令嬢がただ握手するだけの一風景のようでしかなかったが、一方で両者の間に横たわる緊迫は尋常なものではなかった。
どこか怯えた様子で老宰相が手を差し出すと、頷いて黒い装いをした令嬢は両手に履いていたレース生地の手袋を静々と外した。喪服に覆われた令嬢の中で唯一肌の露わとなったその腕は暗い室内ですらどこか光を反射するかのように白くあまりにほっそりとしていた。一見した兵士たちはそれを見て王宮の廊下に立てかけられる白磁の彫像を見る様な荘厳な心持になってしまう。ただ一人だけ落ち着き払っている令嬢が手を伸ばすと、老宰相は目を見開きながら軽く上体を反らし全身の筋肉を強張らせてしまう。
「落ち着いてください。右手には触れたとしてまかり間違っても傷つくことはありませんから。」
右手には、と言うのはどういう意味なのかと縛られ床に座り込んだルース男爵が疑問に思っていると、息を大きく吐いて落ち着いたらしき老宰相が手を伸ばし、それを令嬢がまるで王からの下賜品を拝命するかのように最上級に恭しい態度で右手で触れるのであった。そうして触れて、ほんの数瞬の間があったのちに老宰相は再び大きく息を吐く。今度は先ほどとは違い何かを酷く安堵した溜息のようであった。その行動の意味も理由も理解できずに男は目を何度も瞬かせる。今彼らは何をしていると言うののか、今から始まるのは処刑ではなかったのか、そう男が疑問に思ったのも当然であり、目の前では処刑とは無関係とも思われる仕儀がどんどんと進められていく。
首を傾げて男が見つめてしまっていると、ようやくヴェールで顔を隠した令嬢が緩慢な動きで振り返った。
「それではルース男爵も、よろしいでしょうか?」
「あ、あの。なにをするのですか?違爵様が私を処刑するのです……よね?」
「ああ……私のことをあまり知りませんでしたか。ええ、私が務めさせていただきます。」
「ど、どうやって……。貴族として服毒となるのであればあまり苦しくないものが。」
「恐れなくとも大丈夫です。毒ではありませんが、苦しみはありませんから。痛みも、苦しみも、何一つとしてありません。そして失敗も。し損ないも。一度もありません。では男爵、同じように手を御出しください。」
言われるままに男は慌てて縛られた両手を差し出した。
それに対してどこかお淑やかに令嬢は左手を差し出して、そうして触れる直前で手を止めた。
「宜しいですか?私があなたに触れたとき、その瞬間、あなたの処刑は完了します。覚悟が出来たら仰ってください。」
触れただけで?と男は疑問を抱えたが、誰もそのことに違和感を覚えていないようでみながみな緊迫感をもって見つめてくるので、恐らくその時に何か首を刈られるなり何かされるのだろうという予測をするしかなかったが、それでも男は覚悟を決める。もうすでにさっき諦めた命だった。最後はなるべく穏やかな気持ちで挑もうと令嬢に向かって頷いた。
「お願いします。」
「そうですか……。」
言葉尻に何か言い淀んだかのような余韻があったが、令嬢は何拍か呼吸を置いて男へと向かって手をもう一つ分だけ伸ばした。細く白い令嬢の指先と栄養を失い罅割れて荒くごつごつした男の掌とが触れた瞬間、その瞬間だった、男はもうその次の瞬刻には、何一つとして知覚をしていなかった。闇すらも感じていない。最早、男にとって触れた刹那より先に、世界はどこにも存在していなかった。
ぐしゃりと鈍い音が鳴ったかと思うと、気が付けば男の体がかくんっと糸の切れた傀儡人形かのように地面へとへばりついていた。それはまるで骨がある生き物が倒れたのとは違い、蛸のような軟体動物が地面に打ち付けられたかの如くに歪で奇妙な姿であった。
ただ。
ただ問題はそちらではなかった。居並ぶ人間たちが注目していたのはもう既に、倒れた男の行方ではなかった。
列席した重鎮の皆が恐れと羨望の眼差しで見つめてのは令嬢が触れていたもう一人の存在。老宰相の姿だった。
始まりは令嬢が触れていた掌の表皮であった。
皺だらけで血管や筋すらも浮いた浅黒くなった掌が見る間に澄んだ透明のみずみずしい肌へと打ち替わっていく。
列席者のどよめきが蠢く部屋の中で、暗い室内でまるでそこだけ輝いているかのように宰相の肌は張り艶を得はじめていた。そうしてまるで骨の粉みじんに砕けるかのようなあまりに大きな鈍い音が鳴り響いたかと思うと、腰の曲がって軽く屈むように立っていたはず宰相が自分がそう出来ることに気づいたように徐に背筋を伸ばし始め、令嬢よりも低くすら見えていたはずの背が頭二つ以上は高くなっていく。やがてほとんどが白くなって弾力をなくしていた髪すらもブラウンの溌剌とした毛並みへと変じ始めていた。少なくともつい先ほどまで老人であったと誰もが認識していたはずの人物が、たった今の目の前では明らかに全盛期と見まごうほどに隆々とした姿となっていたのだった。有体に陳腐な言葉で表現してしまえば、若くなっていた。歳のおよそ六十を超えようとしていた引退間際の老人が、高く見積もっても二十代、見る人によっては十代のうら若き青年にしか見えなかったのだった。
その変化に周囲の人物たちは、場に居た殆どの人々が、ただただ目を見張って息を飲んでしまい、若くなった宰相本人も自らの肌が明らかに変わったことに対して信じられないとひたすらに驚きと耐えがたい感激とで目を見開き手足を震わしていた。一人だけ、部屋の奥で椅子に深く座る若い皇帝だけは満足した様子で口角を上げながら軽く頷いている。
「どうだ宰相。この褒美はお前の働きに見合っていたか?」
「へ、陛下……。」
あまりに何度も浅い呼吸を繰り返してしまい言葉に詰まった宰相は抑え込むように何度も自らの胸を叩くとようやく次の言葉を口に出すことが出来た。
「私はこのような……。このようなありがたき褒美をいただけるとは……。ああ……なんという事でしょうか……。」
癖になってしまっていたのだろう、先ほどまでの幾星霜も歳を重ねた姿のままのような弱弱しくなんとも老人めいた仕草で目頭を押さえた宰相の姿は、今では青年であるがために周りから見ればどうにも違和感があって感じられる。それでも周囲の人間たちは彼が感極まっているのをよく理解していた。
その宰相の傍らで気が付けば黒い令嬢は二人から手を離しおえ距離を置きながら手袋をつけなおしている最中であった。
それを壁際で椅子に座っていた人たちのうち何人かは、事の次第に何の感慨も持っていなそうなその少女の様子から視線を離せずにずっと目で追っていた。そのうちの一人である頬に傷を持った将軍は隣に座っている元老筆頭にひそひそと声をかけたのだった。
「自分は初めてこの仕儀に参加しましたが、あれが黒装の令嬢ですか……。」
その声には驚きと畏怖と多大な興味の響きが隠されていた。




