白靄の向かいに
――翌朝のこと
早朝の村は白く強い霧に覆われどこもかしこも袖の濡れそうなほどのしっとりとした湿り気を帯びていた。道の両側に生えるエノコログサの茶色みを帯びた葉っぱも水滴を帯びていてその重さから先端をお辞儀させているほどだった。寝起きの浅い呼吸でその水分をたっぷりと含んだ空気を吸い込むと令嬢は胸の中にどこか冷えたものが溜まっていき、半ば寝ぼけて呆然としていた意識が覚めていくのを感じていた。
傍らで一緒に歩いていた侍女のマヘリアがとんとんっと指先を背中の真ん中に当てて軽く叩いてくる。
「お嬢様。ちゃんと起きれていますか?」
すでにいつもの正装たる漆黒の喪服を纏っていながらも、どこか気の抜けて仄かに重たそうな瞼を半開きにした令嬢は周りでマヘリアだけしか見ていないのをいいことに稚気を見せて大きなあくびをふぁむと漏らした。
「少し眠いかな。結局、昨日は本当に遅くまで、それこそ満ちた月の影が見えなくなるまで宴が続いたのは少し辛かったわ。そういえばあなたは結局ご飯を食べることができたの?」
「え?ええ、まあ、お嬢さまが知らないところでちょこちょこっと村の人たちに食べさせてもらってましたから。」
「そうなの?でもあなたってお肉は食べられなかったんじゃ?」
「ええなのでピラウの肉もよけたりとか、あとは奥様方がつまんでいた野苺や木の実を分けてもらえましたので。」
「それだけで大丈夫だったの?倒れない?」
「小食のお嬢様に言われたくはないですけれどね。大丈夫ですよ。それで、こんな朝早くに起こすよう私に頼まれたのは何か意味があるんですか?」
「分かっているでしょう?村長に会いに行くためよ。」
「こんなに早く起きていますかね。」
「知らないの?老人の朝は早いものよ。」
「そんなものですかね。」
令嬢のあくびが感染ったのか自分もふわりとあくびをしてしまいながら侍女は好き勝手歩いていく令嬢の後ろを何も文句も言わずついていく。ただ侍女はそのうちも視線をめぐらし全身の産毛を逆立てるような勢いで肌に触れる変化すらも鋭敏に感じ取ろうと周囲に気を配っていた。そこまで神経質になっている理由は足音の数だった。前を行く令嬢の歩く音、そしてついていく侍女自らの足音、さらにもう一人の足音が重なって聞こえてくる。朝の霧のせいで遠くが見えないせいで誰かいるかまではようとして知れない。それでも軽い二人の足音よりも随分と重い音がすることが心配だった。昨日の宴会で侍女は目端を利かせてて人々を眺めていたが、そんな音がするほどまでに体格のいい人間は村人に二人三人といるかどうかだ。近くの足音の主が今どういうつもりで今村の中を歩いているのか、農作業の準備などをしているだけかもしれず、それは侍女の心配のしすぎかもしれないが、ただ妙にこちらへと向かって近づいているように聞こえていた。
「マヘリア?どうかしたの?」
「いえ、なにも?ただ、もしかしたら誰かと出会うかもしれません。」
「それは勘?」
「まあ勘です。」
「マヘリアのそういう予感は当たりやすいものね。」
気軽に言う令嬢の後ろでマヘリアは全神経をもう一つの足音の方へと向ける。距離はさほど離れていない。このまま近づけばきっと霧を超えて顔が見える所まで来るだろう。そこまで来たところで何もしてこなければ良いのだけれどと杞憂かもしれないが注意を払う。
やがてもう一つの足音は一歩二歩とどんどんと近づいてきた。おおよそ人影の見えるだろう距離まで来たところでマヘリアは首だけ振り返らせて後ろへと視線を向ける。うっすらと黒い影のように浮かんだ人の背丈は随分と高い。少なくとも村の人よりはよほどに大きいだろう。
しかし逆にその大きさがヒントとなった。
ようやく侍女は相手がだれか当て推量的に推察して軽く声をかけた。
「子爵様。なにかお嬢様に御用ですか?」
相手が行動する前に機先を制すつもりで侍女が話しかけると、後ろを追いかけてきていた人影がわずかに止まる。
「ああ、前にいたのはお前たちか。」
どこかのんびりとした様子で近づいてきた人影は、3ヤードほどの距離まで来たところでようやく人相の区別がついて、やはり子爵であったと侍女にも令嬢にもわかった。ただ子爵は偶然会ったとでもいうようになんともわざとらしい驚いた表情を見せ、まるで本心から不思議そうに口を開いた。
「なんとも偶然だな。こんな朝早くからどこへ行こうというんだ?」
どうも白々しく上ずった調子のその言葉を侍女は聞きとがめる。
「偶然ですか?私には子爵様が先ほどからこちらを付けてきていたように感じていましたが。」
「誤解だ。そんなことをする必要がない。」
「ではなぜ、腰に帯びた剣が揺れて金具のこすれる音がしなかったのでしょうか。わざわざ音を消していたのですか?」
不自然さを指摘されると疑われながらも子爵はむしろ面白そうに笑った。
「ああ耳聡いな。そうか。そんなにも疑われるのだったら、様子を伺って後など着けずにさっさと顔を合わせてしまえば良かったか。」
今までの話を横で聞いて事情は理解しつつ令嬢は強いて特に表情を変えないまま子爵へと軽く会釈をして疑問を口にする。
「おはようございます。子爵様。今朝の草藻をも潤す露の見目は数多の宝玉よりも澄んで輝きを放ちながらもあまりにも儚くって、かすかな靄と共に消える様子は神の御国とも見まごう景色で嘆息を飲むばかりです。子爵様も同じように風景を見て同じく景色をめでる気持ちでも持っていてくれていれば幸いかとも思ったのですが、それだけではなくなんと私たちの身の安全の方もお心配りいただいていたようで、ありがたいのですが。ただ、それはいったい何故なのかだけお聞かせいただけないでしょうか。」
「なんだそのすらすらと出てくるけったいな美辞麗句は。似合いもしない。本当にお前は堅苦しくて真面目な奴だな。ああ確かにさっきまで俺が二人に付いて歩いていたのは、偶然ではないさ。お前らがどこに行くかを監視する目的ではあったよ。忘れたか。俺に授けられた王命の一つはお前を逃がさないことだ。人気の薄い朝に動き出したら見張らぬわけにはいかんだろう。」
全く面倒だと、むしろこんな朝早くに出かけるお前らが悪いとでも言わんばかりの子爵の言葉だったが、むしろそこまできっぱりとしたことを言われると清々しい気持ちで令嬢は裾についた水滴を軽く払いながら愉快そうに眉を上げてしまう。
「ああ、それはそれは。ご苦労をおかけしますね。ただ私たちは村長に会いに行くつもりなのですよ。」
「村長に?いったいどうして。そういえば昨日の歓待では村長が会いに来なかったが、咎めにでも行こうというのか。そう言うのなら俺も同行しても良いというものだが。」
「いえ。昨日村長が参加できなかったのは病気だそうで、出迎えていただいた村の人から伺いました。」
「そうなのか。まあ俺のような子爵が来ているにもかかわらず挨拶にも来れないというのならそういうものか。」
「ええそれで、私たちが村長へと会いに行くのは咎めようなどと言うことではなく、むしろ逆で、国王陛下からの下命で村長に私の力を使わせることになっているからです。」
そこでぴくりと子爵は視線を向ける。
腕を組みながらもどこか警戒している表情を見せている。
「ほう、違爵の力を、と言うのは、それはつまり……?」
その言葉には幾ばくか興味を含んだ問いがあり、令嬢はにこりともせず頷いた。




