そして二人は共に出会いたくはなかった
――同日、午後
「ひぃぃぃっ!やめっっ!やめてくれ!!頼む!やめてっっ……!あ、ああっっ……!?」
新月の夜に出かける時よりも闇に満ち足りた石造りの通路の中で、一人の男が無理やりに引き摺られて足を床へと擦りつけながらもあらんかぎりに懇願して喚いていた。彼を縛り付けている縄を両手で掴んで、どうしても重さでゆっくりとなる歩みながらも止まらずに進んでいく兵士の顔は、男の悲鳴を聞いているにもかかわらずどこまでも無表情で身に着ける甲冑のこすれて鳴る金属音ぐらいが叫び声以外に聞こえる唯一の音であった。やがて右も左も知れぬような暗闇の中を進む先にぼんやりとした明かりが見え始める。身をよじってそれが目に入ってしまった瞬間に、引きずられていた男の喉は鈍い呼気でひゅうっと鳴り響き、緊迫した面持ちでカラカラに乾いた口内に残るせめてもの唾液を必死に飲み込んでいた。
やがて男はその明かりの元へと引き摺り出される。そこは通路から繋がった一つの広間であり、周りを照らす光源は壁や各所に灯された蠟燭やランタンの光であった。部屋の中へと連れてこられた男は兵士から蹴りだされるようにしてその中央へと転びながらよたれこんだ。
縛られながら床に手をついた男が顔を上げるとその視線の先には紫檀に染められた毛皮のマントを羽織り、随分とゆったりと椅子に座る少年が一人。髪の毛先が透けそうなほどに輝く金の頭髪をして青い瞳を持つ少年の御姿はこの国で明らかに唯一つの尊き血筋であることを表す誰の目に見える証拠だった。這いつくばっていた男は慌ててさらに頭を下げると床に口を触れさせるような距離で声を張り上げる。
「へ、陛下!エド――」
「囀るな。卿に名前を呼ぶ栄誉は与えておらん。」
一瞬で首を切り落とされたのかと錯覚するほど金属めいた冷たさを帯びた言葉に戦慄し男は即座に口を閉じ膝を曲げて姿勢を正すとその場で畏まって背筋を伸ばした。顔を上げたことで男は相対する陛下だけではなく、この薄暗く広い部屋の中に幾人もの目が自分を見つめていることに気が付く。左へと視線を向ければドーム状に形作られた部屋の壁へと沿うようにして陛下の隣に、腰の曲がった初老の宰相、厳格なる元老筆頭、顔の縦横に傷を持つ将軍、怜悧さのにじみ出た法務官、水面のように寡黙な近衛兵長、煌びやかに着飾った総督代表が椅子に座り、真後ろには逃げ出さないようにか数人の兵士たちが出口を固めていた。そうして、そのまま右側の後ろから目を向ければ、ふくよかで見るからに裕福なる主席市民、顔に深い老齢の皺が刻まれた儀礼長官、名だたる中でも一際に若い財務官、ローブに歴々とした勲章を並べた軍務長官、蛮族と呼ばれた一族の面影を残す属州代表、そして恐らくこの国で最も俊英たる執政官が椅子に座り、そして皆が食い入るような眼で男を観察していた。カエルは蛇に睨まれると身を固め、逃げるため肌に雫になるほどの脂を流すとも言うが、この国の重鎮たちに睨まれている男が流すのはそれとは比べようにもないほど、壁際の蝋燭の火が燃え移りそうなほどにべたついた大量の脂汗であった。
今この置かれた状況が尋常な出来事でないことは、いかな顛末の結果として床に這いつくばるしか無くなってしまった愚鈍な男にでも明らかに分かってしまうことだった。ただ、だからこそ、これほどまでに極まった状況だからこそ、これから何が始まるのかが全く想像もできず、出来れば今すぐにでも意識を失ってしまいたいほどの押しつぶされそうなほどの不安に駆られてしまう。何が起きるのか、何が起こるのか、目を見開いたまま瞬きもできずに男の心には様々な疑問と恐怖とが浮かんでは消えていた。
しかし男が考えようとするのを遮るようにして高らかに一人の兵士が広間に駆け込みビブラートの効いた声を室内に響き渡らせた。
「おわします皆様方に謹んで申し上げます!映えたる国葬の儀に執行人たるエヴァリング違爵!レディ・ユリア・エヴァリング違爵様が栄典の塔に参られました!」
無数の靴が床と擦れる音がすると縛られてた男が連れてこられたのとは別側の通路を塞いでいた兵士たちが一斉に横へと動き道を開けた。真っ暗で何も見えなかったあの通路とは明らかに違い、所々に明かりが灯されていた、灯されてはいたが、一見するとその通路には誰も何も来ていないようにしか見えなかった。いや、何か影が動いたような……。そう男が感じとったとき、まるで斜光で影法師が一瞬に伸びたかのように通路から黒い――闇よりも暗くすら見える――黒衣を纏った一人の女性が音も立てずにやってきていた。入ってきたという言葉が適切なのかも分からなかった。気付いたときには夕暮れに追い立てられて出来た影のように、ただそこに在った。
その姿はありていに一言でいえば『喪服』であった。細部にわたって黒く覆われ、薄っすらとレースの刺繍が見えなくもないがそれも黒く塗り潰された様はこの煌びやかな列席者の中に並んで似つかわしくないほどに飾り気もなく、顔にはヴェールまでをかけてその肌の全てを覆い隠していた。かろうじてスカートの形から女性だろうと言うことは床に這いつくばる男にも察せられたが、そこに居るのはまるで葬式に列席する貴婦人のような佇まいの一角であった。
それ朧なる影、灯を吹き消す風、冥府から滴り落ちる闇の雫。
そんなインスピレーションとともに、そこに有るのは死の形をしたこの世の洞ではないかと男は感じずにはいられなかった。
靴が擦れる音も立てずその喪服の女性はゆっくりと部屋の中心にいる縛られた男へと近づいていく。その歩く様子を眺めながら壁際で椅子に座り列席する重鎮たちは場を壊さない程度の音量でひそひそと隣の列席者と声を交わし始める。
「あれが……。あれが黒装の令嬢。」




