それは散りしきる雨のようで
――翌日
ポツッ――
冷たいものが一つ、歩く馬の背に揺られながら道の先を眺めていた令嬢の頬に触れる感触がした。次いで手首に同じ感触を憶えて視線を下した令嬢は肌に水滴がついているのに気が付く。空を見上げると昼間なのにもかかわらずおとぎ話に出てくる竜の肌のように分厚く凸凹とした雲によって一面が鈍色に暗くなってしまっていて、令嬢が見つめる視界の中で一筋の水滴がまっすぐに落ちてきて再び頬を微かに濡らした。
「雨ですね……。」
令嬢の腕の中で同じように空を見上げていた侍女がそう呟いた。
目を細めて令嬢が頷くと胸元に居た侍女は心配そうに眉尻を下げて彼女の被っていた油張りしたコートのフード部分を引っ張って、服が濡れないようにと身づくろいを整えていく。微かに令嬢が息を吐くと白く靄のようになって後ろへと流れていき、馬上で侍女は世俗のしがらみの様にどこまでも肌へと付きまとってくる寒さに身震いをした。
やがて空からは地表を吹き流れている風さえも貫くような勢いで雨粒が落ちてきて、二人とその乗っている馬を容赦なく濡らし始めていった。次第とフードの縁で玉のように丸く溜まった水滴が零れ落ち、令嬢の仄かな桜色の唇に触れて肌を冷やしていく。知らず令嬢と侍女は互いの温めあうために体を密着させていた。
その二人の幾ばくか先を進んでいた子爵は振り返り隊の誰も欠けていないかを念のために数えていく。そうして雨の中でも寒さを堪えながら耐えようとしている令嬢が視界に映って子爵は眉を顰めてしまう。しばらく視界の端でその様子を伺っていたが我慢ができずに子爵は馬の速度を緩めて令嬢の近くへと寄った。
「おい……!おい!……違爵!」
進行方向を警戒していると言えば聞こえが良いが、どこに声をかけてるのか良く分からない方へと顔を向け子爵は声を張り上げていた。
肌に雨が触れぬようにと微かにだけ顔を上げた令嬢が気が付いて子爵の方へと視線を向けた。拍子、ほんの僅かだけ顎先に細かな雨粒が降り落ちていく。
「なんでしょうか?」
「休め。こんな雨の中で征き征きても、お前たちではそのうち倒れてしまう。」
「この程度の小雨なら私どもでも大丈夫ですので、皆様が進めるなら私たちもついていきます。」
その返答に苛立ったように子爵はため息を漏らす。
「そんな意固地にならずとも、雨なのだから休んだってよかろう。と言ってるのだ。」
言われたことがあまり意図が理解できず少し思案して押し黙った令嬢は、ふと何かを勘違いしたのか勝手に得心して「ああ」と頷いた。
「兵の方々を休ませたいということでしたら、私を理由にしていただいても構いませんが。」
「侮辱するつもりか!?うちの兵が女ごときよりも先に根を上げると?そんなこと天の星が全て落ちようともありえないことだ。ふざけたことは二度と抜かすな。」
「そうですか。なんにせよ。」
何を怒っているのだろうと理解できない心持ちながらも令嬢は間をおいてじっと荒くれた細い道の先をじっと見つめて応える。
「私たちは可能な限り早く目的の村に着くつもりですので、今まで通りに進んでいくつもりです。もし休まれるのでしたら、後から追いついてきてください。」
「それでは護衛の意味がないだろうが……。お前ら如きに後れを取るようなこと毛ほどもありえないが、だが、なぜそうも無理して急ぐ。」
「私に下される命令と言うものは、大抵の場合において時間にあまり余裕のない類のものが多いものですから。」
「どういうことだ?期限はないのだろう?」
「……今回の村についてみればわかるかと思います。わざわざ私の能力を使うということがどういうことなのか。」
「む……?意味は分からんが、試すような物言いは癪に障るな。」
「申し訳ありません。ただ、あまり遅れますと騒動になりますからね。それこそ殺気立った騎士団が探しに来るぐらいには。我らが敬愛なる国王陛下は心配症でございますから。」
聞きながら子爵は心配性などと言うのはあのどこでも獅子のように泰然とした陛下にもっとも似つかわしくない形容だろうと首をひねったが曖昧に頷くことにして言葉を続ける。
「しかし、流石に王都へは欠かさずに連絡ぐらいしているのだろう?」
「しておりますが、逃げるかもしれないと思っている相手からくる連絡など、どれほど信用されましょうか。そういうものなのですよ。」
「お前は爵位を持ちながら、まるで喜捨を求める浮浪者のように捨て鉢なことを言う。」
言われて令嬢は今までにないほどにきょとんとした顔をした後、それが人生初めてのように子爵へと向かって幼く口元を緩めた。
「……なるほど。はじめて言われました。ですが、ええ、そのようなものですから、そう思っていただいて結構ですよ。」
「ふん、家を持たぬ浮浪の家門か。まあ、お前たちのような存在は、その程度のものなのだろうな。」
「はい。違いありません。」
奇もなく衒いもなく頷いた令嬢の同意に、子爵は逆に苛立って軽く「ハン」と不満げな声を漏らす。
「まあ、なんだ、雨に辛くなって歩けなくなる前には俺たちの裾にでも縋りついてこい。その時は意地を張ってすみませんでしたとか謝らなくても良い。女と言うのは謝ることを知らぬ生き物と言うからな。」
あまりの乱暴な言いように令嬢の腕の中で侍女が唸りながら眉を顰めていて、今にも食って掛かりそうなほどの勢いで何かを言いだしそうだったので、それを令嬢が肩をぎゅっと抱き寄せて何とか落ち着かせる。
「何から何までご心配いただきありがとうございます。」
そういって恭しく頭を下げた。怒らせるつもりで言ったのにも余裕をもって頭を下げられたのが余計に腹が立ってしまい子爵は酷く苛立つような苦々しいような複雑な表情を見せた後に「それが慇懃無礼だというのだ」と言葉を吐き捨てて馬を再び進めて陣営の先頭へを歩き出す。その傍らにまるで待っていたかのようにして兵士の一人が馬を駆け寄らせてきた。
「あのお嬢様、休ませないんですか?」
「スミス、それはお前が休みたいから言ってるのか?」
「休みたいっちゃ休みたいですがね。急いでいないなら無理な旅って言うのは誰だって避けたいでしょう?リスクは増やすな、危ないことを同時にするな、旅をしているときに盗みを犯すな。そんなものは旅人にとって常識でしょうが。」
「あちらはそうではないらしい。」
「なんでしょうね。昨日からずっと。なんていうか、まるで死ぬために生きてるみたいなお嬢様だ。」
言われてみて子爵はなんとなくその言葉が妙にしっくりきたものだから、その言葉に大きく頷いた。
「そうなんだろうな。きっとそうなんだろう。死にたがっているんだ。あれは。」
ただそうだと思うことに妙に嫌な感じがして。なぜ苛立っているのか、それを自分でも理解できずに子爵は吐き捨てるように言った。再び子爵は振り返っていまだに体を丸め寒さを堪えながら馬を歩ませ続けている令嬢へと視線を向ける。
白い息を口元から漏らしながら令嬢は皮手袋をはめながらも震える指先で手綱を握っている。その手を取って侍女は表面の水を自らの服の布で拭うと、手綱を操る邪魔にならないようにと、片方ずつ胸元に引き寄せて自らの肌に触れさせ温めようとしていく。恐らくその指先に触れているとき、侍女の体は凍るように冷たくなっているのだろうけれど、それをおくびにも出さず、そうして令嬢の方も彼女のことを信頼して手を温めてくれることに感謝しているようだった、
今この時この道で列を組み進んでいく隊の中でも、彼女たち二人だけが、まるで他に何も必要としないほどに、閉ざされた世界に生きているようにすら見えた。
今にも雪が混じりそうなほどに透明で清くそして凍えた雨の中、最早溺れそうなほどしきりに降り続ける水滴に包まれながら歩む馬に揺られた令嬢と侍女の二人は、鞍の上で互いの指を握り温めあいながらその肌にも水滴が一切にも触れないようにと、コートに覆われていない肌を密着させて、まるで一匹のそういう形の動物であるかのように固まって佇んでいる。
雨が止んだのは次の日の昼であり、その間ずっと、令嬢と侍女はただ二人で体温を温めあうことのみで、それ以外はずっと馬を歩かせ続けていたのだった。




