ただそれは狼にとって世界に開いた落とし穴にしか見えず
まるで散歩をするように。
月狼に向かって歩いていくその佇まいは夜の中にあっても、一際に空間の穴かのような茫洋とした黒さを湛えていて、改めて目をこすった子爵は、その存在があまりにも闇に溶け込むほど希薄なのにも関わらず、逆に見つめれば見つめるほど目を引き付けられる吸い込まれる暗さがあったことに気を取られてしまう。
それがあまりにも目を引くものだから、なんとも幽々してしまって、月狼の方へともう一歩、令嬢がさらに進もうととしたとき、その段になってようやく子爵は彼女が今すぐにでも襲われそうなほど近づきすぎていると気が付いた。慌てて子爵は携えていた剣を握りしめ駆け出そうとする。最早あっという短な雄たけびで威嚇ような暇もないほどに近い。言ってしまえば月狼が飛び掛かって首筋に牙を突き立てるのに何の不自由もないような、そんな距離だった。危うい。危うい。危うすぎる。瞬きするよりも早く三度もそんな恐怖が子爵の心に湧いて出てきていた。
やにわに駆け出して子爵は黒い喪服の端を追いかけようとしようとするが、警戒してねめつけている月狼に向かって、最後の一線のその間際にまで令嬢は足を踏み入れていく。
「おい、待てっ!!」
ようやく子爵がその言葉を口に出せた時だった、令嬢はまったく意にも介さずにまた一歩を踏み出した。それは地面と靴底が触れる音すらも聞こえないほどに微かな一歩であり、ほのかにスカートの裾が揺らいだだけのようですらあったが、確かに一歩ほど令嬢と狼の距離は近づいていた。それは。それは明らかに月狼の警戒線を踏み越えていた。
ただその瞬間だった。
令嬢が微かに近づいたその瞬間、月狼は喉奥から「ひぅっ!」とどこか悲鳴めいた甲高い声を上げると、二三跳ねるようにして令嬢を睨みつけるままに視線を切らず後ろへと飛びのいた。
目の前で起こった事態に子爵は何度も目を瞬きをしながら信じられない思いで硬直してしまい、しかしそれでも確かに月狼が逃げたのだと、そう見えざるをえなかった。
一度二度警戒しながら跳ねて後ろずさる狼は軽く態勢を低くして、まるで下から睨みつけるような態勢ながら、大きく口角を開いて牙を見せ唸り声をあげることで分かりやすく威嚇の声を放っている。ただどこをどう見ようとも、それこそ外から眺めている子爵から見ても侍女から見ても月狼と令嬢との関係は恐ろしいものと、それに迫られている弱い獣と言う構図にしか見えなかったのだった。
「あれはなんだ。どうして月狼の方が逃げ出す?」
隣にやってきた侍女に子爵は慄きながら疑問を口にしてしまう。
「あの狼も怖いのでしょう。お嬢様のことを。」
「見た目は女ではないか……あそこまで狼が恐怖するものが何かあるか?」
「本能的に死に近いものを感じているのかもしれません。獣だからこそ分かる機微と言うものもございましょう。」
「なにを馬鹿馬鹿しいことを……。」
吐き捨てるように子爵は言うが、それでも目の前で確かに月狼は恐怖したように後ろずさっていく。
しばらくしてやがて月狼は踵を返し、むしろ自分が獣から逃れるかのように去っていくのだった。
なぜか少し寂しそうに一瞬だけ地面へと目を落とした令嬢は軽く息を吐くと静々とした足取りで二人の元へと戻ってくるのだった。慌てて侍女が駆け寄って、その体を受け止めるようにぎゅっと抱きとめて胸の中に引き寄せる。
「お嬢様っ。お怪我はなかったですか!?」
「心配しすぎよ。あなただって何もなかったことは見えていたでしょう。」
「ですけれど、どこか痛めたりとか。」
「大丈夫。足だって挫いてないして。マヘリアが抱き着きたいだけじゃないの。」
「お嬢様ぁ。」
「分かってる心配してくれてるのは分かっているわ。でもまあ、抱き着きたいだけでも良いのよ。」
その二人の会話は今さっきまで狼に狙われていたのを全く感じさせないような、なんとも緩やかなものだった。そこに子爵は自分の常識との齟齬を強く感じざるを得なかった。
「あの、違爵。俺の勘違いかもしれないが、もしかしてこれぐらいのことはいつも起きているのか?」
「いつもかと問われると語弊はあるかもしれませんが、そうですね、時折はあります。」
「どいつもこいつも、ああやって逃げていくのか。」
「何故でしょうかね。獣の方々はああ逃げていきます。いつも。私としてはもっと近寄っていただいても構わないのですが。」
「剛毅なことだ。だが鼻の効く獣はともかくとして鈍い野盗の類ではそうもいくまい。」
「そこはそれ。マヘリアがどうにかしてくれるのですよ。」
「お前の侍女が?それこそどうやったって無理だろう……。」
「そうですか?私にとっては最も頼りになる方ですよ。」
子爵にとって信じられはしなかったが、それでも先ほどのように逃げていく狼を目の当たりにしては、侍女の方も侍女の方でなにがしか戦闘の心得や手管があるのかもしれないと思えてきてしまう。
ただそうやって悩んでいる子爵の顔を覗き込むようにして令嬢は屈みこんでいた。
「あの子爵様。」
「なんだ。」
「もう来ないと思いますから、警戒している兵士たちには休ませてあげてください。私も寝ますので。」
「あ……ああ。」
呆気にとられた返事を子爵がしているうちにさっさと令嬢は自分の敷いていた布のところへと戻り、そして身支度を済ませると、同じ布団の中で侍女と身を温めあうように密着して寝入り始めるのだった。
子爵は思わず呆れて間抜けにも大きく口を開けてしまっていた。あれだけを見れば本当に無防備な野盗のカモとしか見えないと思うのだが、彼女たちはあれで何の心配もしていないようであった。無知なのかそれとも自信があるのか。本当のところは全くわからないままに子爵は焚火の元へと戻る。兵士たちも兵士たちで剣を収めてめいめいにその場へと戻ってきているようだった。その顔は不思議と言う言葉を顔にはっつけたような分かりやすい表情で子爵はそれに少し笑ってしまう。
一人の兵士がその困惑した表情のままに子爵の顔を覗き込む。
「若ァ。あ、いや子爵様。あれは何ですか。なんなんですか。」
「知らん。知らんが、あれこそが国葬の令嬢だということなのだろう。」
「じゃあ、私ら要りませんかね。」
「さあてな。」
今でこそあの女性は何事もないような顔をしているが、それが長旅の中でいつまで続くものかと子爵はいぶかしんでした。そしてそれを抜きにしても、二人で対処できるのならばそれこそ自分たちが護衛に任命されたのなぜなのかと言う疑問もわいてくる。
「他の国に逃がさないため……か。」
「なんですか、それ。」
「陛下より賜った御言葉だ。違爵が逃げ出さないようにしろとな。」
「へえ、逃げるんですか?あのお方たちが。」
「そうは見えそうもないがな。」
そう。少なくともどこにもそんな素振りは見せてこないし、なにより土地勘もなかろうと子爵は勘ぐっていた。
「ただ、もしかしたら護衛よりもそっちの方が本筋なのかもしれんぞ。今見たように護衛が必要ないって言うのなら、その方がありうる。」
「ええ!?嫌ですよ俺たちは。国葬の令嬢なんかに触りたくもないっていうのに。」
「王命だ。覚悟しておけ。」
うへぇぇっと兵士たちが分かりやすく苦い顔をして立ち去って行った。
しかしと、子爵はそこで一つの疑問を持つ。
彼女たちの話であれば、今までは二人で旅をしてきたのだというし、王はそれを認めてきた。
疑問が疑念になり、一人ごちるようにして子爵は焚火に向かってつぶやく。
「今更、逃げられないようにしようと危機感を持ったのはなぜだ……。聞けば今までだって野放図にさせてきたのだろうに。」
もしかしたら、と子爵は釈然としないまま拳に顎を乗せて考え込む。もしかしたら、なにがしかの国外の勢力が狙い始めてきているのかもしれないし、ともすれば王宮近辺がきな臭くなっているのかもしれない。それか、違爵と一緒にいない間に王都で何か策謀が動かされているのか……。そこまで考えたところで、そうまでなったら子爵程度がかかわれる陰謀でもあるまいと彼自身で一笑に付してしまった。
目の前でぱちりと焚火の破片が跳ねた。
どこまでも同じような風景の野辺に見るべきところもなくって子爵は仕方なしに空を見上げる。どこか薄暗く、流れてきた風は生臭い匂いがした。土以外の匂いがするのは雨が近い証拠だ。明日も寒いだろう。雨の中をあの二人が耐えられるのだろうか。
さっさと根を上げるところを見てみたいものだと、子爵は本気でそう思っていた。
あの澄ました顔も絶望している時ぐらいはぐしゃぐしゃにみっとうもなく泣き出すのだろうか。考えながら子爵は今回のつまらなそうな旅の目的を、それ見ることが出来るかに思い定めたようであった。




