欠けた月影にもう一つ穴が見えたならそれを狼だと恐れるべきだ――ある旅人の警句
佇まいを直し侍女は多少なりに神妙な顔つきで事情の説明をし始める。
「そもそも違爵になる者は他者に借りを作ることを厳しく戒められております。借財は固く禁じられておりますし、貴族なら当たり前のようなパーティの招待を受けることすらもできませんし、エスコートされることも許されておりません。」
「随分と厳しいな。なぜそんなことに。」
「考えてもみてください、もしお嬢様が誰かに借りを作り、力を振るうようにゆすられたり脅されたりしたらどうなると思いますか?」
「ああ……。」
そこまで言われてようやく気付いたように子爵は苦い顔をする。つまり誰かに借りを作ること自体が国にとって危ういと思われているということなのだろう。それは確かにこの国での違爵の力を用いた褒賞が重く扱われていることを理解すれば当然の制限なのかもしれない。国王の宝物庫から財物を盗み出して私物化するようなものだ。
子爵の反応に理解したのだろうと感じた侍女は膝をついたまま神妙に頷く。
「お嬢様も悪意があって子爵様の言うことを断っているわけではないのだと私は理解しておりますが……。とは言いましても、これは私の勝手な考えでお嬢様の意図とは違うかもしれません……。」
「いや、少しは納得した……が、あまりにも頑なだな。それで自分が死んでいいわけでも無かろうに。」
少し咎める様なその言葉に侍女は口角を緩めた。
「何を笑う。」
「いえ、お二人は似てるなと。似ている人だから苛立つのかもしれないと思いまして。」
それを口にした瞬間、侍女の目の前で風が横切ったかと思うと、瞬く間もなく眼前には子爵の持つ剣の切っ先が迫っていた。
「ずけずけと遠慮のないことを言う。貴族を相手にそう言う人を見切ったことを言うのは気に食わんな。爵位のないお前は今切り捨てても構わんのだぞ。」
「そうですか。」
呆れた様子で鼻で笑うように侍女は息を漏らしたものだから子爵は瞬くよりも早く髪を逆立てて目を見開いた。
「もし脅しだと思っているのなら――」
切っ先を更に髪の毛一本ほどの距離へと近づけながら言いかけたところで子爵は違和感を覚える。侍女は全くも震えもせずどこか余裕のある威風泰然とした様子で子爵の目をしっかりと見据えていた。それはまるで、自分が死なないと確信しているとしか思えない、そんな表情であった。うぬぼれているのだろうか、本当に自分には死は訪れないのだと。そんな勘違いをしているなら、今すぐ誤りだったと思い知らせてやろうか。そんな仄暗い思いが子爵の心の中に灯りかけようとしていたところだった。
「マヘリア。」
ふいとエヴァリング違爵令嬢の声がして、緊迫感を漂わせていた二人の意識が一気に引っ張られてしまう。
剣を向けていたことを咎められるかと子爵は身構えたが、存外、令嬢はまったく子爵の方も見ずに、むしろ焚火の光が届かない微かに小高くなった丘の方へと視線を向けていた。剣と向き合っていたはずの侍女もいつの間にかこちらの方が最優先とでも言うように令嬢へと顔を向けている。
「お嬢様、なにかありましたか?」
「マヘリア。死の匂いが近づいてきているの。」
「死の匂い?なんだそれは。」
呼ばれてもいないのに子爵は立ち上がって令嬢の側へと歩み寄る。
「ああ、そうですね。子爵様もおそらくすぐ分かると思いますよ。……ほら来ましたから。」
揺蕩うように言葉を漏らして令嬢が地面へと下ろしていた視線を人のいない方へと流して向けた先には人の背丈ほどに盛り上がった起伏のある荒地があった。起伏の陰から微かに、本当にほんの微かながらに土を踏む音が聞こえてくる。その音に聞き覚えのある子爵は緊張を肌に走らせながら軽く揺れる向こうの影を睨みつけ音が鳴るほどに奥歯をかみしめる。
「はぐれた月狼か……。厄介な……。」
都合よく抜いていた剣を子爵は改めて握り直して身構え、焚火の周囲でくつろいでいた兵士にも声をかけると警戒態勢へと移させていく。
寝かけていた兵士たちは慌てて立ち上がり装備を手に取るが、中でも一人は分かるほどに慄いているほどだった。
「よりにもよって月狼か。」
「面倒なんですか?」
めいめいに剣を構えていく兵士たちに守られながら侍女は一歩下がって子爵に尋ねる。
「ああ……。あいつらは疲れたところ弱いところ休んだところを狙ってを襲ってくる。軽々には襲ってこないが、ずっとああやって少し遠いところからこちらを見つめ続けてくる。いつ弱みを見せるかとな。しかもこちらから倒しに行くのも難しい。なんたって足が速いからな、どうしたって諦めてくれるまで持久戦になりがちだ。」
「と言うことはあまり強くはないのですか。」
「一度に食われて死ぬと言うのは珍しいが、襲われれば傷は負うし、それが重傷化することだってある。だが一番きついのは馬の脚が狙われたりすることだな。歩けなくなったら俺たちがその馬を捨てていかないといけないことを理解している。だからああやって夜中ずっとこちらを睨みつけて圧力をかけ、そうして隙を見せるのを待ってるんだ。」
「なるほど。勉強になります。」
「まあ、お前たちは守ってやる。一応は命令だからな。」
「ありがたいことです。でも、あれぐらいでしたらお嬢様がどうにかすると思いますよ。」
「どうにかなんて。あんなか細いご令嬢に何ができると?」
舐めているのかふざけているのか、心底から呆れてむしろ怒りさえを覚えそうになった子爵の横をまるで針葉樹林の細長い影の如きものが揺らいだように、すうっと音もたてずに一つの影が通り過ぎた。それが違爵令嬢であったことに気が付いた時にはもう一歩も二歩も遅かった。スカートの裾を風に揺られて、まるで散歩にでも来たときのようなゆったりとした雰囲気で令嬢ははぐれ月狼の元へと進みゆく。
「おい、危ないから下がれ。」
「まあ、そうなのでしょうね。皆様にとっては……。ええ、そうなのだと思いますよ。」
「馬鹿!こんな場合に世迷言など吐いている場合か!?」
「それこそ危険ですので子爵様は下がっていてください。」
言葉の意味が分からずに呆気にとられた子爵が目を何度も瞬かせてしまっているうちに、気が付けば令嬢は日暮れ際の影かのように音もなく狼の方へと近づいていたのだった。




