恋を知らぬ君に
「ふてえ野郎だな。てめえの命と罪悪感を使って取引したってことだろ」
朝食の時間が終わり、ふらりと寄った談話室で窓の向こう側を見てニヤニヤしている所を偶然、元ヤクザの岩谷に見られた。ついニヤけた理由を、隠すこと無く夕生は話した。すると、このように言って一重まぶたの鋭い目で夕生をじっと見た。
隠さなかったのは、岩谷は今更何にも動じるように見えなかったからである。案の定そうだった。
「取引なんて、もっとロマンチックに言って欲しい」
「ロマンチック」そう言って岩谷は吹き出した後、絶句した。きっと、ロマンチックなんて言葉を久しぶりに口にしたに違いなかった。「……で、」岩谷は夕生に聞く。
「そんなに強く出れたのは、少しはその気がある予感でもあったのか? でなきゃあ、酷え話だぜ。お前が余命短えから、そいつは何とかその間は演じきるつもりなのかも知れないが」
岩谷の言葉は容赦が無かった。朝臣が自分の為に演じることを決意したとは思いたくはない。でもその可能性は無くは無いのはわかっている。高校時代から諦めを演じて来たのだから、今度は朝臣の番。それでいいのではないかと思ってしまう。
「抗えない流れさえあれば、落ちるかもくらいは前から思ってたよ」
朝臣を追い詰めさえすれば、どうにかなる。そう思い続けていたのは本当だ。朝臣はそんな弱さと隙がある男だった。これまでは追い詰める方法が思いつかなかったのである。
「へえ。そりゃあ強気なこったなあ。だが、抗えない流れとは切ねえな。しょうがねえか、男と男じゃあ」
何か思う所でもあるような口振りに思える。岩谷は窓の遠くを眺めると、自らの病院支給の寝間着を探る。カサカサとした軽い音が聞こえる。煙草だ。
「理解してくれるんだ。岩谷さん」
「……わかったわけじゃねえよ。そんなのは当事者でなきゃあな……ちょっと一服行ってくる」
ゆらりと岩谷は立ち上がった。夕生は何気なく忠告してしまう。
「辞めたほうがいいのに」
「今更か。俺はこれでいいんだ。お前だってそう思うから、相手の男を巻き込んだんだろ」
「煙草とは違うよ」
「そうかな。俺ぁ、世間が嫌煙に変わっても値上がりしても、死にかけてもこいつは辞められないし、愛しているのに」
「なんだ。岩谷さんも結構ロマンチストじゃん」
愛している。の所で照れが垣間見えた。歳は40手前。ひょっとすると、今まであえて使わない言葉だったのかもしれない。そこで背を向けてゆっくりと廊下の奥へと歩いて行った。夕生は一息ついて、窓の外を再び見る。
朝臣の姿が見えて驚く。時計を見れば、まだ10時前である。早い。
昨日の今日で、朝から来てくれるなんて。と夕生は舞い上がった。ついでに色んな期待が持ち上がった。
結構、本気で接してくれるってことなんだ。自分で持ちかけた話の癖に夕生は信じられない。驚いてしまう。本質的に真面目な男なのは知っている。そういう所も好きだった。
夕生は自分の病室に戻る。微かに震えていた。
◆
やっと到着した病院のエレベーターに乗る。
点滴をぶら下げた患者が何人も乗ってくる。その様を見て朝臣は、ああやって病院内を歩くことに付き合えば良いのだろうかと思ったりした。
夕生の部屋のドアは開け放たれていたが、丈の短いカーテンは閉じられている。看護師が来ているのを見て、少し待つことにした。
何か、談笑しているのが微かに聞こえる。元気なら良い。でも少し緊張している。こんな重病人に接したことが無かった。小学校低学年の頃に母方の祖母が入院したことは覚えている。遠方に住んでいた故に接触が少なかった。故に思い出もあまりないまま数年で亡くなっていた。父方の方は祖母や叔父や叔母共に折り合いが悪いらしく、話題に上がらないまま現在に至る。何事も無いのだろうと勝手に思う。何も子供の自分から、親に気まずい話題を振ろうとは思わなかった。
素早く看護師が出てくると、こちらに気づいたようだった。「よろしいですよ」
「ああ、はい」
その笑みに助けられた気持ちになって、部屋に入った。「おはよう」
「おはよう。ちょうどさっき、来る所見えたよ」
穏やかに笑う夕生の顔色は昨日より良いように思えた。朝臣は窓の外を指差す。
「ここから?」
「ここからじゃないけどさ。ね……嬉しいよ。こんなに早く来てくれて」
そこでじっと視線が合ったが、朝臣は目を伏せた。色んな意味を持った視線に過剰に反応してしまう自分を感じた。だから淡々と言う。
「講義は昼過ぎだから。それまでと思って」
「そっか」
座って。と促されて折りたたみの椅子に腰掛けた。
「……きのう」
二人の声が同時に重なった。朝臣は言う「いいよ。先に話せ」
「いや。いいよそっちから」
「ダメだ。お前からだ」
朝臣は強く言う。本当は、夕生がどう出てくるかがわからないのが嫌だった。
「えーっと、昨日の今日で早速こう来てもらって、我ながら信じられないね。今になってドキドキしたりしてる」
「そういうのって身体に障らないのか?」
朝臣はつい神経質な質問をする。
「わかんないけど、こういうのは悪くないんじゃないかな。ときめきってことだし……で、一晩たってどう思った? やっぱり嫌じゃない?」
急に心配そうに言う。強気な所があっても、後から焦るのは夕生らしいのかもしれない。
「俺さ、恋人ごっこって言われても誰とも付き合ったことねえし、色々想像が付かねえっていうか。そんなんでお前に満足なもの与えられるかどうかわかんねえなって思ったよ」
「えっ」
夕生は驚きと共に少し笑う。元々直ぐ笑う奴だった。
「……浮いた話ひとつ聞かないとは思ってたよ。でも本当にそうだとは思わなかった。だって、今もう大学生だしさ。今頃、こんな話しって順序おかしいけど」
さっきから全部、お互いに質問がおかしかった。後手になっている。
「なんだ。そういうの誰かから聞いたから、強気に出てきたんじゃねえのか」
「昨日はやっぱり強気だったね。勢いがあって本音が言えたんだ。でもでもそれじゃあ、俺の押しつけって後で思ったりもしたから」
「そんなことないよ。ただ、完全な恋を求められると正直わからねえってのもあるよ」
朝臣は白状した。そう言っておかないと単なる嘘つきになってしまう。
「……なるほどね。俺が教えてやる。すればいいんだろうけどさ、こんなだから」
片言のように言って自虐を薄めたようだった。夕生は自分の胸のあたりに手を当てる。やはり、身体を見ると痛々しくて直ぐに反省した。同時に、冗談にならない自虐をどうしたものかと朝臣は思う。
「いや。ごめん、それは俺が自分で考えるべきだった」
「考えるんじゃないんだよ。恋とは。だから思ったことは言った方がいいんだ。それに俺が申し出たのはごっこだし、完全でなくてもいいんだよ」
そうだ。夕生の発案は恋人ごっこなのである。なまじ未経験がそれを大袈裟に捉えていたようだ。
「そうか」朝臣は頷いた。
「そうだよ。でも、ごっこでもなんでも話すこと」
夕生は諭すように言った。だがそれには少し諦めが漂っている。やはり完全な恋なんて表現をしなければ良かった。後悔を切るように言い返す。
「じゃあ。お前もそうしろよな」
「あぁ、うん」
「お前の、母さんはどうしてるの? 大丈夫なのか」
夕生の家は早くから両親は離婚して母親と二人暮らしだったと記憶している。
「母さんは仕事もあるからね。でも週4ぐらいは来るかな。でも、あんまり来なくても良いって言ってるんだ。最近、疲労が目に見えてきたし」
「そうだな……一応、連絡先を聞いておくかな」
朝臣がそう言ってスマートフォンを取り出すと、夕生は尻込みした。
「そんなことまで、いいの?」
「散々くっちゃべっておいて何も知らなかったってのもなあ。お前が俺のこととか全て話すのなら余計に、挨拶もしないとならないし。最後に会ったのって卒業式の時だったか」
「すごい律儀」酷く感心したように夕生は言う。「疎遠になりかけてたのって一体何だったんだろうってぐらいに」
夕生は両手を坊主の頭に持っていく。少し落ち着きがない。
「……お前が、告ってきたから関係性が変わったんだぞ」
別に追い打ちをかける訳ではない。誤魔化しの意味もあった。疎遠になろうとしたのは、進路が、思い描く将来が、あまりにも違うからってこともある。
学生なりの自由は手にしているが、夕生のほうがもっと、ずっと自由に見えた。そして華やかだった。それに、不安定な世界だとしても、夢を手にして早くに仕事をしていることに負い目を感じていたのである。
一転して負い目だったものが同情に変わった。
その心情の変化を夕生は本来は良しとしないだろう。だが、それを計算の上で迫ってきたようにも思えた。命がけで。
「うん。……朝臣のこととか含めて、全て話すかどうかは迷ってるよ。これは病気に関係なく、墓場まで持っていく決意をして生きている人も居るから。もちろん話す人もいる。俺がどうするかってのは昔から問題にしていたけど、ずっと先送りにしてる」
「知りたくなかったって思われることもあるだろうしな」
朝臣は高校時代に、夕生に告白された頃のことを思い出していた。そんなこと知らせないで欲しいというのが本音のひとつでもあった。恋を知れば一緒に居られない。その方が、寂しいことだと思った。今は、いつか近いうちに会えなくなる事を寂しいと強く感じている。これには同情とは関係ないとも思う。そこまでの思考に至ると朝臣は、自分の夕生への執着を感じた。
仮にこの事態が他の相手だとしたら、どうしたのだろう。そう、ふと朝臣は思った。
「そっか。知りたくないってのが、有るかもしれないよね」
「でもお前が話したいと思うなら、それも大事だと思う」
◆
少し無理をして入った高校だった。だから、部活は初めから自分の得意なものを選んで楽をしようと目論んで朝臣は剣道部へ入部した。剣道は警察官である父親の影響があって小さな頃から習い、小学生の頃から大会ではいつも優勝していた。そして、中学三年生で二段となった。この高校は一応は文武両道を掲げているが特に剣道が強い学校では無かった。球技の方が全体としては力が入っていた。しかしそれよりも、主要五教科と素行の良さの方が優先的だ。
剣道部の先輩方には、どういうわけか篠井朝臣が二段であるということが、先に知れていた。
「一年最強」
確かに、それは事実だったが何とも面倒な渾名がついたものである。他の一年は、全くの未経験と一級数名と五級が数名。その全くの未経験者が樫木夕生だった。
回想入ります




