余白ない君に
「一年最強は、樫木に教えてやれよ」
いちいち、当て付けがましく言う。顧問教師も何も言わない。防具の中で小さく舌打ちする分には、気付かれなかった。
仕方がない。元々、向上心で入部した訳ではない。割り切って、基本動作のすり足から教えることにした。元サッカー部の夕生は運動神経は悪くなかった。よって、飲み込みは早かった。手間取ることがほとんど無く楽に打ち込めた。普段過ごすクラスも同じだったお陰で、直ぐに親近感が沸いた。
夕生はいつの間にかクラスの女子とも打ち解けていた。それ故か、情報網が発達しているらしくある時、こう言いだした。
「ねえ、篠井くんさあ。聞いたんだけど、二年にも三年にも二段は居ないんだって。一年最強は間違ってる。一年が部内最強なんだ。ウケるよね」
付け慣れない防具の面の内側で夕生は笑っていた。軽い新人イビリの対象となっていることを全く気にはしていない様子だ。弱い先輩を嘲笑っている。
「そうなのか。なんかめんどくせえなあ。俺的にそんなつもりじゃなかった」
弱いと知っていたら入らなかった。そんな打算を見抜くかのように、身体を近づけて夕生は聞く。本当は顔が見えにくいから近づいて来たのだろう。
「どんなつもりだったの?」
「どんな?」
変な質問をする奴だと朝臣は思った。思わずつっけんどんに返す。
「そりゃあ、強い先輩が指導するんだと思ってた。普通そうだろ」
「ごめんね。未経験なのに入ってさ。同学年に俺みたいなのが居るから、篠井くんが割りを食ってる」
急にしおらしいことを言われて、このままでは二段がすたると朝臣は思った。
「……俺の強さと指導力舐めんじゃねえよ。お前だってやればある程度まで強くなれるし、強くするぞ」
「なんかすごいね。……篠井さんって呼んだほうが良いみたい」
そう感嘆の声を聞くと、くすぐったかった。実は中学の同級生には既に篠井さんと呼ばれていたが、黙っていた。
「名前で呼べよ。そしたら、同等になってお前も舐められなくなる」
「朝臣、お前もっと俺に優しくしろよ! とか言えばいい?」
「俺、厳しいか?」
冗談めかして、本当のことを言ったのかと朝臣は思った。
「ううん。優しいよ。ちょっと怖いだけ。デカイからかな、身長いくつあるの」
「182」
怖いと言う割に、どんどん懐に入ろうとする気概がある。これはやりようによっては本当に強くなるのかも知れないと朝臣は思った。
この時は朝臣が胸中で気概と称したものの正体が、恋愛から来る関心、好奇心だとは夢にも思っていなかった。けれど、夕生が自分に関心を向けているのはいい気分だった。
何故かは朝臣なりに考えてみたが、良くはわからない。男子にしては、むさ苦しくない風貌が良いのかも知れなかった。屈託がないのも良い。ただ、楽しいだけとも言える。
日々が経過すると、部活の先輩方も夕生を変に扱わなくなって来ていた。懲りないから手応えが無く、馬鹿らしくなったに違いない。元々くだらない行為なのである。その懲りない態度が自分と全然違っていて面白かった。
体育館使用には他の部活との兼ね合いで順番があった。使えない日には、基礎体力作りをする。柔軟体操や、筋トレ、外練でのランニング等々……夕生はランニングに関しては、元サッカー部らしく速度も持久力も申し分無かった。夕生の纏っている余裕はそういう持久力に自身があったからかも知れない。
「朝臣、追いつけると思ったのに」
約5キロのランニングが終わった時、息を切らした夕生が言った。汗を拭いながら、芝生に座り込んだ。
追いつかれないように、朝臣は必死だった。しかし、そうは言わなかった。
「お前だって、もう、充分だよ」
「デカイからずるいな。これくらい勝たせて欲しかった。自信あったのになあ」
「……勝たせねえよ」
疲労で朝臣から思わず本音が出てしまった。
全て勝って居なければ気が済まない。朝臣は剣道に関してはたまたま二段だが、元々は物事に対してくじけやすい。表面上見せている人格はより卑屈だ。今この剣道部だって、先輩に目を付けられた状態で干渉されるだけであれば、辞めていた可能性が高かった。
人からの攻撃にも殊の外軟弱で、小学生の頃、弁の立つ気の強い女子に集中的に苛められたこともあった。それを親や教師に告げることも到底出来なかった。親なんてもってのほかで、全くその発想は浮かばなかった。より一層厳しい言葉を浴びせられるだけだと、子供なりの頭で考え諦めていた。朝臣は何の解決に至る行動を取ろうとはしなかった。しかし、その日々は奇跡的に終わりを向かえた。
ほとんど、その時までハッキリとしない存在の女子だった。大人しいと思っていた。その女子が朝臣を助けに来た。そのやり方は酷く暴力的で、正義感だったのか、何なのか困惑した。それほどに凄まじい、殴打と蹴りだった。
全員泣いた。朝臣も驚いて泣いた。泣いていると、その女子は泣いている朝臣の髪の毛を掴んで、上を向かせた。恐ろしかった。
「テメエが弱すぎなんだよ、このクソ野郎が! 少しは抵抗しろ、そして勝つこと考えろや!」
そう怒鳴り散らすと、走り去っていった。その女子の名前は冴島と言った。しかし、朝臣の記憶はここで終わっている。強烈な思い出のはずなのに、その後どうしたか覚えていない。だが、その事件以降に自分が強く有ることについて意識したのは確かだった。その次の年には剣道大会で優勝した。そこで、久しぶりに冴島のことを思い出してみたものの、既に転校した後だった。
自分にとって都合の悪い記憶は失くなってしまうらしい。弱かった頃の、苦い記憶。高校生になった自分が思い出せるのが、こんな断片なのだからもっと歳を取ってしまったら、殆ど消えてしまうのかも知れない。その方がいい。早く歳を取りたいと思った。
「すごい負けず嫌い」
夕生は呆れたように朝臣に目を向ける。
「ある時に……俺が弱いとわかったから、強くなろうと思ったんだ」
「そう。すごいね」
「でもお前もすごいと思うよ」
お互いを讃えて、満足しようとしていた。だがこの「弱いとわかったから、強くなろうと思った」部分を詳細に語るとすれば、どう思われるだろう。
女子に苛められ、女子に助けられた。朝臣はこの屈辱的な一件を、過去の情けない思い出として未だに昇華出来ない。そんな自分が嫌いだった。「けっこう情けないね」そう言って笑う夕生を思い浮かべる。
「なに?」
実際の朝臣の視線に気づいた夕生は聞いた。
「いや、本当の事言うと色々必死なだけだよ」僅かに本音を吐露するくらいは、自分に許した。すると、こう返ってきた。
「知ってるよ。負けず嫌いの人って大変だね。でも俺だって、負ければ口惜しいこともある。ただ、朝臣よりかは受け入れる余白部分があるかもしれないってだけ」
「余白」
朝臣は繰り返してみた。
グランドの芝生で散り散りに休んでいた部員に号令が掛かった。集まった部員に、顧問教師は、明日からの稽古内容が言い渡され、予定表が配られる。
そこには部内戦と記載されていた。それを見てひとりだけ初心者の、夕生が声を上げた。
「部内戦って俺も関係あるってことなの?」
「当たり前だろ、樫木」
顧問教師はそう言って笑うと、他の部員も笑った。
◇
寄席文字風の名札が調度良く届いた。防具一式もそうだがこれを見て、こんなに和風なものを手にするようになるなんてと夕生は不思議な気分になる。
入学式で篠井朝臣を見かけて、そして同じ部活に入って親しくなるところまでこぎつけた。夕生にとっての篠井朝臣とは、とてつもない磁力を持った男だった。見た目、格好いいからちょっと仲良くなってみようかな。ただそれだけで行動が止まらない。
どうやら篠井朝臣が剣道部に入るらしいというのは、園田雅也と会話している場面で盗み聞きした。盗み聞きといっても同じクラスなのだから、そう陰湿なものではない筈だ。普通に会話しているところに出くわした。
夕生がどういう目で見て、篠井朝臣を追いかけているかどうかについては、気付かれてはいないだろう。
「部内戦、頑張れよ。夕生」
更衣室で制服から道着に着替えると、園田雅也が声を掛けてきた。園田は一級の奴で朝臣とは出身中学が同じで部活も同じだ。つまり、自分以外に朝臣を一番良く知っている人物だ。親友なのかも知れないが、クラスではさほど絡まない。付かず離れずが維持されているように思えた。
「やるだけやってみる」夕生は答えた。
面と胴だけ正面から真っ直ぐ入れることしか知らないが、仕方がない。
「朝臣は”秒”で勝つから、瞬きしないで見ておけよ。出番は最後かな」
園田は自分のことでもないのに、誇らしげに言った。
「びょうでかつ?」
動画サイトでアップされている試合を見ておけとは言われていたが、その言葉はいまいち良くわからなかった。夕生は他の格闘技も見る趣味が無かった。空いた時間には昔の女性アイドルや女優の演技を眺めるほうが楽しいからだ。
今まで部活で見てきた朝臣はいつも指南役で実際、どれくらい凄いのかはわからなかった。朝臣自身が、あまりひけらかすことを好まない性格なのだろうと思った。というより、目立ちたくない意識が、周囲と比べてもかなり強い気がする。
元々は男子校だったのが共学になった高校で、女子は少ない。その女子の中で見た目の人気があったのは篠井朝臣だ。目立っている。しかし、女子は皆見た目だけという条件を付ける。口数が少ない割に、喋ると俺様的だ。あまり笑わない。だから、性格に難ありと見られている。「たぶんシャイなんだよ」そうフォローを女子に対して言ってみたりしたが、反応は薄い。夕生はその方が都合がいいと割り切った。
更衣室を出て、直ぐに目に入った。
篠井朝臣の竹刀を振る姿が美しかった。いつもはそんなに感じることはない。今日は特別に違う。周囲の空気が止まって見える。
「ねえ、園田。見ろよ、朝臣が。なんか格好いいなあ」
夕生は思わず感激で、浮かれた気分のまま、何も考えずに言葉にした。
「え? まあ、格好いいっちゃいいけど、素振りだよ」
「かっこよくない?! めちゃくちゃ格好いいから俺も頑張ろう。素振り」
そぐわないテンションで、飛び出した本音を誤魔化したつもりになる。朝臣を目で追う。どうしても視線が、朝臣にしか向かない。濃紺の道着がこれほど似合う奴がいるのだろうか。そうして見ていると、三年の先輩が朝臣に声をかけている。
「あいつとやるのか」
それを見た園田は独り言のように言った。その様子に注目していたのは、自分たちだけじゃなかった。その場のざわめきが一瞬消える。その静寂に任せたまま全員が、整列に動いた。時間だ。
顧問教師に呼ばれた順に戦う事と短い説明を聞いた。
夕生の対戦相手は、同じ一年の女子だった。女子は三人しかいない。女子の中に入れられるとは、顧問教師も案外、内面性の一部を見抜いているのだろうか、と夕生は思った。その試合は勝負が付くのに随分時間が掛かった。どっちも、技が入り切らない。力任せに打ってくる竹刀の先が防具の無い部分を直撃してくる。痛すぎる。痛すぎて、互いに腹がっ立っているに違いない。
「やあ!」
夕生の胴に竹刀が入った。面ばかり狙い、脇が上がった。その腕の下を竹刀が通り過ぎる。。
「一本!」赤い旗が上がった。夕生は負けた。「まじかよ」
結局、二本目も取られた。二本目は小手を取られた。思わず内心うなだれたが、剣士はそんな態度は表面上取らない。直ぐに中央に戻り、竹刀を横に持ち、気を付けの姿勢を取って一礼する。「ありがとうございました!」
しかし、それほど敗北感は無かった。床に座って面を取ると、想像以上に汗が流れていた。中の手ぬぐいを取ると、髪が濡れている。顔を上げて大きく息を吐く。負けたものの、一種の爽快感があった。勝てばもっと良いものなのだろう。そう思うと、朝臣が二段まで極めた気持ちが少しわかるような気がした。
しばらく試合を眺めた。勝負が付くのに時間が掛かるのは自分たちだけでは無かった。鍔迫り合いで力が拮抗して押し合う場面もあった。挙句、床に倒れる事もあった。その間も夕生は、遠くに座り時々判定にもの申したり、応援している様子を見詰めていた。
三年生同士の対戦が始まった。すると、朝臣がすっと立ち上がり竹刀と面を持ってこちらにやってきた。
「お前、負けたな」
そう言いながら隣にあぐらをかく。
「ご、ごめん」
「相手は女子だけど、経験者だった。でも次は勝てると思うよ」
「そうかな」
「俺の言った通りにやってたのは見てたらわかる」
「そう」
「でも、お前だったらもう少し大胆に、積極的に勧めるのかとも思ってたよ。今回はそれが反省点かもな」
「そうですね」思わず、敬語で答えてしまった。朝臣はそうですね?とおかしげに返すと、頭に巻く手ぬぐいを正座した膝の上に広げた。出番が近いことがわかった。
どうやら朝臣は、夕生の所から戦いに挑むようだ。慣れた手付きで、面を被るところを眺めた。
何故だろうと思った。
朝臣は、戦いに挑む場面をまるで夕生に見送って欲しいかのようだ。古い友だちの園田だっている。見せたいのだろうか。朝臣が近くに来た時点で、夕生の心臓は高鳴っていた。それがますます、激しくなる。
順番がやって来て、勇ましく立ち上がる。その瞬間から朝臣の集中力の冴えを感じた。一切の隙が無く。中央に歩いて行く。夕生は後ろ姿に息を呑む。
「始め!」顧問教師が声を上げる。
一瞬、互いの剣先が微かに交わった後、朝臣の気勢が上がった。竹刀が相手の面に沿うようにしなるのが見えた。
「一本!」白い旗が上がった。
あまりの早さに、夕生は思わず零す。「ちょっと待って。何……」秒で勝つと言っていた園田は何も言わない。その間には二本目が始まろうとしていた。二本目も全く同じように勝った。
「しょうがねえよな。腕もあって身長もあるからな。ハハ」
呆気に取られていると、園田がそう言って周りの一年と笑ったのが聞こえた。朝臣は夕生の所に戻ってきた。そして面を脱ぐ前に言った。
「おまえ、ちゃんと俺のこと見てた?」
「えっ? あぁ……」
どういう意味だろうかと期待が渦巻いた。しかし、ただ純粋な確認だと思いなおす。
「見てねえのかよ」
「見た見た! でも、よくわかんなかったから解説が欲しかったよ」
「そうか。よくわかんないか」
そう淡々と言った後、朝臣は笑った。少し呆れが入っているような、笑みだった。当然と言えば当然だった。
「わかるでしょ、馬鹿じゃないの。樫木って」
同じ一年の女子が、会話を聞いて苛立ったようだった。続けて、興奮気味に囃し立てた。
「篠井くん、やるとは思ったけど凄いね!」
「……ありがとう。でも、今俺はこいつと喋ってるから……」
そう言って朝臣は、夕生の袖の端を摘んだ。小手を付けているから、摘む感じになってしまったようだった。それが不似合いな可愛らしさと独占欲を感じて、夕生はたまらなくなった。嬉しくて、顔が熱くなった。
「わあ、クール」女子がそう言い残して去ると、朝臣は言う。「俺、余白少ねえからさ」
夕生も言う。
「俺、間違ってたよ。俺も余白あんまりないかも」
そう言って篠井朝臣を見詰めた。




