真夜中の訪問者 再び
ノックの音が転がり込んだ。リビングのソファに寝転がって本を読んでいたマルキスは顔を上げ、時計を一瞥する。午後九時をまわっていた。
彼は眉を潜めてベルトの後ろに拳銃を挟んだ。夜中の来訪者を歓迎できたことは少ない。マルキスは慎重に玄関に近づき、覗き窓から外を見た。
玄関先には、昼間露店で出会った老人が、何やら申しわけなさそうに立っているのが見える。ロングコートを着た彼は銃を持っておらず、不安げに揉み手をしている。それでもマルキスは鍵を開けず、ドア越しに返事をする。
「どなたです?」
「あ、夜分遅くにすいません。あの、マルキスさんのお宅ですよね? 私、昼間あなたにアンプルをお売りしたものです」
「ああ、何か御用ですか?」
「ええ、実は昼間に売ったあのアンプル、よく調べましたら、一部で出回っている粗悪品の可能性がありまして、もしよろしければ返金させていただこうかと……」
老人はそう言って懐の金貨袋を鳴らした。マルキスは「粗悪品?」と返す。
「だからあれだけ手付かずで残っていたんですよ。まさか、もう使ってしまわれました?」
「あぁー……そうだな」
マルキスは思案し、ひとりうなずいた。
「もう使ってしまったよ。だけどとくに体に不調はない」
「そんな! ああ、私はなんてことを!」
老人はひどくうろたえる。顔を真っ青にして、頭を抱えた。
「あなたのような立派な方の命を危険に晒して! ああ、もう、まことに、まことに申しわけない! 申しわけない! 申しわけない!」
ドア越しに深く頭を下げる老人。彼が大声で何度も謝るので、マルキスはウンザリしてきた。
「わかった、わかりましたから、謝らないでくださいよ。誰も悪くないんですから」
「せめて代金をお返しします。どうか受け取ってください」
「いえ、結構ですから」
「いえ! それでは私の気持ちがおさまりません。玄関先にお代と迷惑料を置いていきます! まことに申しわけありませんでした!」
老人はそうして立ち去った。マルキスは彼の背中が見えなくなると、深いため息をついた。
「まったく、なんなんだ……律儀というか、バカ正直というか……」
マルキスは扉から離れようとして老人の言葉を思い出し、もう一度外を除き見た。すると薄暗い玄関先に、小さな金貨袋がぽつりと置いてあるのが見える。
「ほんとに置いていったのか……」
一瞬、無視しようかともマルキスは考えたが、あのアンプルは決して安くはなかった。もしお金が戻ってくるならば嬉しい。それに、あのまま放置しているとよからぬ輩に盗まれるかもしれない。
「……仕方ない」
マルキスは素早くドアを開け、金貨袋を拾――おうとして、胸を撃たれた。
「がっば……!?」
玄関先に仰向けに倒れたマルキスは混乱しながらも、辺りを見渡す。暗闇に紛れる黒いマントを被った男が、ゆっくりと向かってくるのが見えた。
「だ、だれば……」
吐血しながらも、彼は自分の拳銃を抜く。だがそれを相手に向けた瞬間、その手を銃弾が貫通した。拳銃は彼の胸の上に落ちた。
「いだっあああ……いづあああっ!」
「こんなところに隠れていたとはな、『狂侯爵』マルキス」
現れた男は、あの老人だった。マルキスは目をみはる。
「ぎざ……しょうぎんがぜきが!?」
老人は答えず、手に持った古めかしいレバーアクションライフルを回転させ、次弾を装填する。さらに撃った。マルキスは多量の血を流し、まもなく死んだ。
老人は銃を片手で構えたまま一度建物内に踏み込み、ほかに隠れている人間がいないかをひと通り確かめる。それからマルキスの死体を引っ張り込んで、ドアを閉めた。
彼は死体の横に屈み、懐をまさぐる。老人は苛ついた様子でつぶやく。
「……仕方ない。首を持ってくしかないか」
億劫そうにため息をついた。彼は立ち上がり、マルキス個人の証か、死体の首をはねるのに使えるような大ぶりの刃物がないかを探す。その途中、彼はふと足を止めた。
絨毯の一部だけ、鳴る足音が違う。彼は絨毯をめくると、その下に扉があるのを見つけた。扉を開け、中のハシゴを下り、短い廊下の先に錠前のかかった鉄扉を見つけ、もう一度鍵をとりに死体まで戻る。鍵を開けた。
老人は、その先の惨状に顔をしかめた。
「……こいつはひどい」
首輪に繋がれたエレノアが部屋の奥でうなだれている。老人は彼女に近づき、声をかけた。
「きみ、生きてるか?」
彼の声に反応して、エレノアはゆっくり顔を上げた。彼女の顔を見て、老人は思わずもどしそうになって口を押さえる。
幼い少女の右目は完全にえぐり出されていて、まぶたも切除されていた。ぽっかりとあいた薄暗い空洞には、独特の臭いを放つ白い粘液が溜まっていて、それが血と混ざり、涙のように頬を伝っている。老人は怒り狂った。
「あの、人でなしがッ! クソッ……こんな女の子を、モノみたいに……! ちくしょう!」
近くにあった丸椅子を蹴り飛ばす。拷問器具が並んだ机を叩き壊す。吠える。暴れる老人を、エレノアは片方だけになった目で、ぼんやりと眺めている。
「……もう大丈夫だ。マルキスは死んだ。きみは私が助ける。私が守る……!」
そうして老人は彼女を抱きしめ、首輪を外した。エレノアはすっかり衰弱していて自分で立つこともできなかった。老人は彼女をおぶり、落ちてた縄で体に縛りつけて上へと戻った。
「あ……あ……」
マルキスの死体を目にしたエレノアが声をあげる。老人は彼女を床に下ろした。
「ほら、マルキスは死んだぞ。もうきみを苦しめる人間はいないんだ」
老人は優しくそう語りかけた。エレノアは死体のそばで呆然とへたり込んでいたが、おもむろに死体の胸の上に引っかかったままの拳銃に手を伸ばす。銃口をマルキスの頭に向けた。
少女の手には、銃が重くてフラフラとする。老人は彼女に手を添えて銃を撃てるようにし、そしてしっかりとマルキスに向けてやった。
「さぁ、これで撃てる」
エレノアは老人を見上げ、それからまたマルキスを見、人差し指を引き金にかける。
長い静寂があって、パン、と軽い音がした。
「うぅ……」
銃を下げ、火薬と血の臭いをかいだエレノアの目から涙がこぼれた。嗚咽はだんだん激しくなる。
「うう……うああ……ああ、うあああ……あああ、あああ! うあああ! ああああああッ! ああああああ――」
とうとう彼女は大声で泣き出した。老人は彼女が泣き続けるのを、静かに、ただずっと見守っていた。




