届く距離
ザナンが王都へ戻る日の朝、クロードはいつものように木剣を持って修練場へ向かった。
ここ数日毎日のように通った修練場へ入ると、先に来ていたザナンが壁際に置かれていた一本の長い棒を手に取るところだった。
木剣よりもずっと長く、クロードの身長を越えているが、先端には何もついていない。
「今日はそれなの?」
「ああ、最後だしな」
ザナンは棒を持ち直すと、クロードが先端を見ていることに気づいたのか軽く持ち上げて見せた。
「本物の槍を使ったら危ないだろ」
「それはそうだけど」
昨日は木剣が当たっただけでも十分に痛かったのだから、本物の槍など使われたら困る。
クロードは自分の木剣を確かめてから、ここ数日何度もザナンと向かい合った場所まで歩いた。
「僕はこれでいいの?」
「そのままでいい」
「分かった」
向かい合って構えると、ザナンとの距離は昨日までとそれほど変わらないように見えた。
クロードは棒の先だけに目を取られないようザナンの身体全体を見ながら、自分の木剣が届くところまでどう入るかを考える。
「行くよ」
「来い」
地面を蹴って距離を縮め、もう少しで木剣を振れると思ったところで、ザナンの持つ棒が真っ直ぐ伸びてきた。
反射的に足を止めると、棒の先はクロードの胸の前にあり、それでも木剣を振ってザナンへ届かせるにはまだ遠い。
「今ので終わりだな」
「まだ何もしてないよ」
「俺はした」
ザナンが棒を引くのを見ながら、クロードは二人の間に残っている距離を見た。
昨日までなら、ザナンの木剣が届く頃には自分の木剣も届くところまで入れていた。
けれど今日は違う。
自分がまだ何もできないところから、ザナンの攻撃だけが届いている。
「もう一回」
「おう」
今度は最初から棒が伸びてくることを意識し、ザナンの手が動いたところで身体を横へずらした。
棒の先が脇を抜けたため、そのまま前へ踏み込もうとしたが、入れたと思った瞬間にザナンが一歩後ろへ下がった。
クロードが振った木剣は服にも触れないまま空を切り、その木剣を戻しきる前には横から棒が迫ってくる。
慌てて木剣で受け止めると乾いた音と一緒に腕へ衝撃が伝わり、少し下がって構え直した時には棒の先がもうこちらへ向いていた。
「……また遠くなった」
「俺も動くからな」
「うん」
ザナンが動くことなら、ここ数日の稽古で何度も見ている。
それでも長い棒を持ったザナンを相手にすると、自分が近づかなければならない場所そのものが昨日までとは違って見えた。
クロードはすぐに飛び込まず、今度は少し横へ動きながら様子を見る。
こちらに合わせるように棒の先が向きを変え、さらに回り込もうとするとザナンの足も動いて、クロードが欲しい距離を簡単には作らせてくれない。
近づけば棒が届き、それを避ければザナンも動くため、木剣を振れるところまで入るだけでも思っていたよりずっと難しかった。
クロードはいったん足を止め、息を整えながらザナンを見る。
長い棒を持つその姿は、木剣を持っていた時よりも手と足の動きが滑らかで、棒だけではなく身体全体が一緒に動いているように見えた。
「ザナン兄様」
「何だ?」
「槍の方が得意なんだよね」
「そうだな」
「やっぱり剣の時と違う」
ザナンは自分の手にある棒を見てから、少し不思議そうにクロードへ視線を戻した。
「そうか?」
「うん」
本人にはあまり分からないらしく、それがおかしくてクロードは少し笑った。
「もう一回やろう」
「まだ来るのか」
「今日で最後なんでしょ?」
ザナンも笑いながら棒を構え直した。
「じゃあ来い」
次は棒を避けたところで急いで木剣を振らず、下がるザナンの足を追うようにもう一歩深く踏み込んだ。
さっきより近いところまで入れたため、そのまま振った木剣の先がザナンの服のすぐ手前を通り過ぎる。
「惜しい」
「自分で言うのかよ」
「さっきより近かったから」
「まあ、それはそうだな」
クロードは木剣を戻しながら、ザナンの棒と自分の木剣を交互に見た。
どちらが長いかなど見ればすぐに分かるのに、その違いが自分の動きまで変えることは、実際に向けられるまで考えていなかった。
そのあとも何度かザナンへ向かい、棒を避けながら近くへ入れることはあったものの、最後まで木剣をきれいに当てることはできなかった。
「よし、ここまでだな」
ザナンが棒を下ろしたので、クロードも木剣を下ろして大きく息を吐いた。
「ありがとうございました」
「おう」
木剣を片付けながら壁際へ戻っていくザナンを見ると、ここ数日で身体の鈍りはかなり戻ったはずなのに、出来ないことは前より増えたような気さえした。
剣を振るだけなら出来る。
けれど相手が動けば当たらず、近づけば自分も攻撃され、相手の武器が長くなれば今度は近づくことさえ難しくなる。
簡単だと思っていたわけではないが、一つ分かるたびにその先が出てくるところは、どこか魔法の練習にも似ていた。
◇
昼を過ぎると、屋敷の前には王都へ向かう馬車が止まっていた。
荷物を積み終えたザナンが家族へ挨拶をしている横では、イリアが寂しそうな顔で兄を見上げている。
「また帰ってきてね」
「帰ってくるって」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
念を押すイリアの頭をザナンが軽く撫でると、それでも離れたくないらしく、イリアはしばらくその場から動かなかった。
やがてザナンが馬車へ乗り込んだため、クロードもその近くまで歩いていく。
「ザナン兄様」
「ん?」
「王都でも練習するんだよね」
「そのために早く戻るんだからな」
「槍も剣も?」
「ああ」
朝の稽古で長い棒を構えていたザナンを思い出し、クロードは少しだけ笑った。
「じゃあ僕も練習する」
「そうしろ」
「今度は当てるから」
「言ったな?」
ザナンが笑ったところで馬車がゆっくりと動き始め、イリアが何度も手を振る隣でクロードも手を上げた。
馬車が道の向こうへ小さくなっていくまで見送り、やがて姿が見えなくなると、クロードは静かになった道から屋敷へ視線を戻した。
◇
その夜、クロードは机に向かい、実家へ戻ってから毎日書き続けてきたノートを開いた。
今日の稽古についてもすでにいつものように書き終えてあるため、新しく何かを書こうとはせず、最初の日から順番に頁をめくっていく。
最初の記録には、学園生活の間に少し鈍っていた身体の感覚が残されていた。
その次には木剣を狙ったところへ振ることは出来ても、動いているザナンには当たらなかったことが書いてある。
足だけを追っても駄目で、剣だけを見ても駄目だったことや、一つずつ考えてから動いていたのでは間に合わなかったことも、その時に感じたまま残っている。
何度も同じ動きを繰り返すうちに、考えるより先に身体が動いたことを書いた頁を越えると、昨日の記録では自分から深く踏み込んだ時にザナンの木剣を受けていた。
そこまで読んでから今日の頁を見ると、今度は長い棒を持ったザナンへ近づこうとして、木剣を振るより前に何度も止められたことが書かれている。
クロードは鉛筆を持たず、その頁を眺めたまま朝の稽古を思い返した。
昨日は自分の木剣が届くところまで近づいたことで、ザナンの木剣も自分へ届いた。
今日はそこまで近づく前から棒が届き、避けて先へ進もうとしてもザナンが動けば距離まで変わっていった。
同じザナンを相手にしているのに、持っているものが違うだけで自分の動き方まで同じではいられなかった。
クロードはそのまま少し前の頁まで戻り、盗賊と遭遇した日に書いた記録を思い出す。
見ている間にも変わり、考えている間にも変わって、次はこちらの都合など待ってくれない。
あの時に感じたことは今でも変わらないのに、数日剣を振ったところで何をすればいいのか分かったわけではなかった。
「……難しいな」
小さく呟きながら頁を戻すと、魔法について書いてきた記録も目に入る。
雷を狙ったところへ飛ばすことも、曲げることも、《丸くする》ことも簡単ではなく、今も出来ていないことはいくらでもある。
剣なら手で持って振れるから、魔法より分かりやすいところもあると思っていたが、振れることと相手へ当てられることはまるで違った。
クロードは椅子の背へ少し身体を預けながら、ふと黒木光哲だった頃のことを思い出した。
「……前世でも剣道くらいやっておけばよかったかな」
製鉄所へ行って働き、家へ帰る生活の中で、いつか別の世界で兄と木剣を振ることになるなど考えたこともない。
少し想像してみたものの、そんな理由もないのに剣道を始める自分はどうしても思い浮かばなかった。
「いや、無理か」
自分で言って少しおかしくなり、クロードは小さく笑った。
もう一度ノートへ目を落とすと、そこには数日前には知らなかったことがいくつも残っている。
けれど、それを全部並べても盗賊と向かい合った時にどうすればよかったのかという答えにはならない。
クロードはしばらく今日の頁を見つめたあと、ノートを閉じた。




