ただいま
馬車を降りたクロードは、目の前にある見慣れた屋敷を見上げた。
ついさっきまで馬車の窓から見ていた時よりも、帰ってきたという実感が強くなる。
街道で起きたことは、まだ頭の中に残っている。
けれど今は、それとは別の気持ちがあった。
帰ってきた。
そう思った時、屋敷の扉が開いた。
「おにいちゃん!」
聞き覚えのある声が響く。
クロードが顔を向けると、金色の髪を揺らしながらイリアが走ってきた。
「イリア」
「おにいちゃん!」
「ただい――」
最後まで言う前に、イリアがそのまま抱きついてきた。
クロードは持っていた荷物を落とさないよう慌てて腕に力を入れる。
「ちょっと、イリア」
「遅い!」
「遅い?」
「もっと早く帰ってきてほしかった!」
顔を上げたイリアが頬を膨らませる。
「学園があったから」
「でも遅い」
「それは僕に言われても」
「遅いの」
「……うん」
言っても仕方がないと思い、クロードは頷いた。
後ろからザナンの笑い声が聞こえる。
「相変わらずだな」
「何が?」
「いや、何でもない」
ザナンはそう言って先に屋敷へ向かった。
イリアはまだクロードから離れない。
「イリア、クロードが荷物を持っているでしょう」
穏やかな声が聞こえた。
「母さま」
エリスが屋敷から出てくる。
黒い髪を見た瞬間、クロードはようやく家へ戻ってきたのだと思った。
「ただいま、母さま」
「おかえりなさい、クロード」
エリスが笑う。
「元気そうね」
「うん」
「道中は大丈夫だった?」
クロードは少しだけ黙った。
開いた馬車の扉。
動き続ける人。
外れた雷。
さっきまで考えていたものが、また頭へ浮かぶ。
「途中で、盗賊に襲われた」
エリスの表情が変わった。
「怪我は?」
「してないよ」
「ザナンは?」
「大丈夫」
エリスは後ろにいるザナンへも目を向けた。
「護衛の人も大丈夫だったよ」
「そう」
エリスは短く答えてから、もう一度クロードを見る。
「詳しいことはあとで聞くわ」
「うん」
イリアは何も言わず、クロードの服を掴んだままだった。
クロードはその手を見る。
「イリア」
「なに?」
「そろそろ離して」
「やだ」
「荷物が置けないよ」
イリアはクロードの荷物を見る。
少し考えたあと、抱きついていた腕を解いた。
そのままクロードの空いている手を握る。
「……イリア」
「なに?」
「手を繋いでる」
「うん」
「離れてないよ」
「これなら荷物持てるでしょ?」
「持てるけど」
イリアは満足そうにクロードの手を握っている。
クロードはそれ以上何も言えなくなった。
光哲にも妹はいた。
けれど、ずいぶん違う。
光哲の妹は大人になり、やがて結婚して家を出た。
こんなふうに帰ってきた兄を捕まえて離さない妹ではなかった。
クロードは自分の手を握っているイリアを見る。
同じ妹でも、こんなに違うものなのかと思う。
「おにいちゃん、行こう」
「うん」
手を引かれながら、クロードは少し笑った。
違うけれど、イリアはイリアだ。
そしてクロードは、そんな妹がかわいくて仕方がなかった。
屋敷へ入ってからも、イリアは当然のようについてきた。
荷物を置く間も隣にいる。
クロードが鞄を開くと、その横から中を覗き込んだ。
「イリア」
「なに?」
「近いよ」
「何が入ってるの?」
「着替えとか教本とか」
「ほかは?」
「ほか?」
イリアがじっと鞄を見ている。
クロードはしばらく考えてから、その意味に気づいた。
「お土産?」
イリアがすぐに顔を上げる。
「ある?」
「あるよ」
「イリアのも?」
「ある」
ぱっと表情が明るくなった。
「どれ?」
「ちょっと待って」
クロードは荷物の中を探し、イリアのために選んだ包みを取り出した。
王都で何にするか迷いながら選んだものだ。
「はい」
「イリアの?」
「うん」
イリアは包みを受け取ると、嬉しそうに開き始めた。
クロードはその様子を見ながら、前に人形を渡した時のことを思い出した。
あの時も、受け取った人形を何度も見て喜んでいた。
包みを開いたイリアが中を見る。
「わあ……!」
もう一度中を見て、それからクロードを見る。
「ありがとう、おにいちゃん!」
「うん」
次の瞬間には、また抱きつかれていた。
「だから荷物が」
「ありがとう!」
「分かったから」
そう言いながらも、クロードはイリアを離そうとはしなかった。
「母さま、見て!」
イリアはクロードから離れると、すぐにエリスのところへ向かう。
前に人形を渡した時も、嬉しそうに母さまへ見せていた。
そこは変わっていないらしい。
「よかったわね」
「うん!」
「それから、母さまにもあるよ」
「私にも?」
「うん」
クロードは別の包みを取り出した。
母さまの分を選んでいる時には、以前贈った万年筆のことも思い出した。
「どうぞ」
「ありがとう、クロード」
エリスが受け取る。
包みを開いたあと、クロードを見て柔らかく笑った。
「大切にするわ」
「気に入りましたか?」
「ええ、とても」
その言葉を聞いて、クロードも安心した。
イリアがまた横から覗き込んでいる。
自分のお土産を持ったまま、今度は母さまのものも気になるらしい。
クロードはそんなイリアを見てから、屋敷の中へ目を向けた。
「父上は?」
「今日はブラインと一緒に仕事へ出ているわ」
「ブライン兄さまも?」
「ええ」
クロードは頷いた。
父上とブライン兄さまの分も持って帰ってきている。
クラリッサ様とセレナ様の分もある。
そして鞄の奥には、アルト兄さまへ買った本も入っていた。
クロードは一度だけ鞄へ目を向ける。
今は渡す相手がいない。
それでも、本はここまで一緒に帰ってきた。
「おにいちゃん」
「なに?」
「今日はイリアといる?」
クロードは顔を上げた。
「今日?」
「うん」
「ずっと?」
「ずっと」
「ずっとは無理だよ」
「なんで?」
「荷物も片づけたいし、みんなにもお土産を渡したいから」
イリアは少し考える。
「じゃあ、一緒に行く」
「どこに?」
「全部」
「全部?」
「うん」
「それ、ずっとついてくるってこと?」
「一緒にいるの」
「……そうだね」
エリスが小さく笑った。
クロードはイリアを見る。
家の子どもたちの中で女の子はイリアだけだ。
少しくらいわがままになるのも、家族が甘くなるのも分からなくはない。
そして自分も、その中の1人なのだろう。
「じゃあ、荷物を片づけるところからね」
「うん!」
結局、自分の部屋へ戻る時もイリアはついてきた。
クロードが荷物を出している間も、すぐそばにいる。
服を片づけても、教本を置いても、どこかへ行こうとはしない。
「イリア」
「なに?」
「暇じゃない?」
「暇じゃないよ」
「何もしてないけど」
「おにいちゃん見てる」
「それは楽しいの?」
「楽しいよ」
クロードにはよく分からなかった。
けれど、そう言われると追い出す気にもなれない。
鞄の奥にある本へ手が触れた。
アルト兄さまのために買ったものだ。
クロードは少しだけ手を止めたあと、そのまま本を鞄へ残した。
「おにいちゃん」
「なに?」
「学園、楽しかった?」
「楽しかったよ」
「お友だちできた?」
「できた」
「誰?」
最初に浮かんだのはノーゼスとエクリアだった。
「ノーゼスとエクリアっていうんだ」
「どんな人?」
「ノーゼスは土属性で、エクリアは水と風を使えるよ」
「2つ?」
「うん」
「すごい」
「すごいよ」
「ほかは?」
「ほか?」
「学園のお話」
クロードは手を止める。
話せることはいくらでもあった。
授業のこと。
魔法のこと。
寮のこと。
ノーゼスやエクリアと過ごしたこと。
考えてみれば、家を出てからいろいろなことがあった。
「長くなるよ」
「いいよ」
「本当に?」
「うん」
イリアはクロードのそばへ座った。
どうやら聞く気らしい。
クロードは片づけの途中だった荷物を見る。
それからイリアを見る。
「じゃあ、片づけながらでいい?」
「いいよ」
結局、そのあとは学園の話をしながら荷物を片づけることになった。
イリアは途中で何度も質問した。
クロードが答えるたび、また別のことを聞いてくる。
その日、クロードが屋敷の中を歩く時には、ほとんどいつも金色の髪が近くにあった。
◇
日が落ちてしばらくしてから、ガルディオが屋敷へ戻ってきた。
クロードは父の姿を見ると、昼間とはまた違う意味で帰ってきた実感を覚えた。
「父上」
ガルディオがクロードを見る。
「帰ったか」
「ただいま」
「ああ」
ガルディオの視線がクロードの身体を上から下まで動く。
「怪我はないか」
「ないです」
「そうか」
それだけ聞くと、ガルディオは小さく頷いた。
街道で盗賊に遭ったことは、ザナンと一緒に話した。
馬車の中にいたこと。
途中で外へ出ることになったこと。
雷を使ったこと。
2回とも当たらなかったこと。
ザナンと護衛に大きな怪我がなかったこと。
ガルディオは最後まで聞いた。
「分かった」
短く答える。
クロードは父上のために持ち帰ったお土産も渡した。
それからしばらくして、クロードはガルディオへ声をかけた。
「父上」
「なんだ」
「修練場を使ってもいいですか?」
ガルディオがクロードを見る。
「何をする」
「剣と魔法の練習です」
「そうか」
ガルディオは少しだけ考えた。
「今年で10歳になる」
「はい」
「危険なことをせず、無理をしないなら使っていい」
クロードの顔が少し明るくなる。
「ありがとうございます」
「魔法を使う時は、特に気を付けろ」
「はい」
ガルディオは頷くと、近くにいたザナンへ目を向けた。
「ザナン」
「ん?」
「暇があれば見てやってくれ」
ザナンがクロードを見る。
「俺が?」
「ああ」
「剣ならいいけど」
ザナンは少し間を置いた。
「魔法を見ても、当たったかどうかくらいしか分からないぞ」
「それでいいよ」
クロードが答えると、ザナンが眉を上げた。
「いいのか?」
「うん」
ザナン兄さまは雷魔法を使うわけではない。
分からないものを分かったふりをされるより、その方がいい。
「じゃあ、暇な時な」
「お願い」
「分かった」
クロードは自分の手を見る。
学園へ入ってから、魔法の練習ばかりしていた。
《放つ》を使い、《曲がる》を覚え、《丸くする》を何度も試した。
鉄球も使った。
その間、父上から教わった剣を使う時間はずっと減っていた。
忘れたわけではない。
けれど身体が前と同じように動くかは分からない。
それに、街道で分かったこともある。
魔法を使えるだけでは駄目だった。
相手は動く。
味方も動く。
考えている間にも状況は変わる。
だからといって、剣なら大丈夫なのかは分からない。
剣を持てば相手が止まってくれるわけでもない。
剣が届くところまで近づかなければならない。
それがどれくらい難しいのかも、まだ分からなかった。
以前、剣が相手へ当たる直前に雷を使うやり方も練習していた。
剣と魔法を一緒に使うなら、あれももう一度試してみたい。
できることはある。
確かめたいこともある。
けれど、どれが答えなのかはまだ分からない。
クロードは握った手を開いた。
家へ帰ってきたばかりだった。
時間はある。
まずは、自分が今どれくらい剣を使えるのか。
そこから確かめてみようと思った。




