ザナトス
週の三日目、一限目はナターシャ・ミナルトアの魔法基礎だった。
今日は新しい《印》を覚えるのではなく、昨日学んだ《空中浮遊》と《静止》の復習から始まった。
クロードも教本の雷属性の頁を開き、《空中浮遊》の《印》から順番に確認していく。
昨日の夜にも何度か組んだので、教本を見る回数は少なくなっていた。
それでも途中で指が止まれば頁へ目を戻し、もう一度最初からやり直す。
教室の中でも、生徒たちはそれぞれ自分の属性の頁を開いていた。
水属性の頁を見ている者もいれば、火や土の頁を何度も確認している者もいる。
少し離れた席では、エクリアが水属性の《空中浮遊》を確認したあと、風属性の頁へ移っていた。
二属性ある以上、昨日と同じように二つとも覚えておかなければならない。
それでもエクリアは慌てることなく、一つずつ手を動かしていた。
しばらくしてナターシャが教室を見回す。
「昨日覚えた《印》で、まだ分からないところがある人はいますか?」
すぐに一つの手が挙がった。
「はい」
ナターシャがそちらを見る。
手を挙げていたのはマミヤ・シーナだった。
「《空中浮遊》って、浮かせた魔法が少し動いたら失敗なんですか?」
ナターシャは首を横に振る。
「いいえ。《空中浮遊》は空中へ浮かせるための操作です。浮いているものをその位置から動かさないために使うのが《静止》ですね」
「あ、そっちか」
マミヤは自分の風属性の頁へ目を戻した。
昨日続けて二つ覚えたことで、少し混ざっていたらしい。
その近くで別の手が挙がる。
「先生」
今度はレクシア・オルフェリアだった。
「《静止》って、空中じゃなくても使えるんですよね?」
「使えます」
ナターシャが頷く。
「《静止》は対象をその位置から動かさないための操作です。今回は《空中浮遊》と続けて学んでいるので、浮かせた魔法へ使うことになります」
レクシアは土属性の頁を見ながら頷いた。
「じゃあ、《静止》だけが空中用ってわけじゃないんですね」
「そうです」
クロードも自分の頁を見る。
浮かせることと、動かさないこと。
続けて使うことはあっても、二つは別の操作だった。
「先生」
今度はガレス・ヴァンデルが手を挙げる。
「実習でも最初から二つやるんですか?」
「それはガンザス先生の指示に従ってください」
「じゃあ《空中浮遊》ができたら、勝手に《静止》やったら駄目?」
「実習中なのですから当然です」
「はい」
ガレスがすぐに引き下がり、近くから小さな笑い声が上がった。
少しして、光属性の頁を開いていたベン・ジャスターも手を挙げた。
「先生、昨日は覚えたと思ったのに、今日やったら途中で分かんなくなりました」
「それなら教本を見て確認してください」
「見てもいいんですか?」
「今日は復習ですよ」
ナターシャが少し笑う。
「分からなくなったところを確認するための時間です。分からないまま覚えたことにする方が困ります」
「はい」
ベンは教本へ顔を戻した。
クロードも《静止》の《印》を最初から組み直す。
昨日より迷わなくなっている。
けれど、まだ実際に雷で使ったことはない。
《印》を覚えたことと、魔法として使えたことは別だった。
クロードは手を下ろしてからナターシャを見る。
「先生」
「はい」
「雷も今日の実習で《空中浮遊》を試していいんですか?」
ナターシャは少し考えた。
「実際に何を行うかは、ガンザス先生の指示に従ってください」
「分かりました」
クロードは教本の雷属性の《空中浮遊》へ視線を戻した。
昨日覚えたものを実際に使えば、雷がどうなるのか分かる。
そのつもりで残りの時間も《印》を確認していった。
やがて一限目の終わりを告げる魔導の鐘が鳴った。
ナターシャが教本を閉じる。
「次は魔法実習です。今確認したことを忘れず、ガンザス先生の指示をよく聞いてください」
生徒たちは教本を片づけ、実習場へ向かう準備を始めた。
◇
二限目、クラスは魔法実習場へ移動した。
先に待っていたガンザス・ドルナードは、集まった生徒たちを見渡してから手を叩いた。
「よーし、一限目で復習した《空中浮遊》からやるぞー」
生徒たちがそれぞれ間隔を空けていく。
「まずは自分の魔法を作って、それを《空中浮遊》で手元から離す。できた奴は俺に見せろ」
ガンザスが指を一本立てる。
「勝手に《静止》まで進むなよー。できたかどうかは俺が見るからな」
いくつもの返事が重なった。
クロードも周囲との距離を確かめ、自分の場所へ移動する。
一限目に確認した《空中浮遊》を頭の中で辿りながら右手を上げようとした。
「クロード、お前は待て」
ガンザスの声が飛んできた。
クロードは手を止める。
「はい?」
ガンザスがこちらへ歩いてくる。
「《空中浮遊》をやるつもりだったか?」
「はい」
「やっぱりな」
ガンザスは少し困ったように笑った。
「お前はまだやるな」
クロードは一瞬、言われた意味が分からなかった。
「どうしてですか?」
「前に《丸くする》を試した時、雷が手元から外れたことがあっただろ」
クロードは、形を作りかけた雷が手元から外れ、そのまま斜め下へ走って地面へ落ちた時のことを思い出した。
「ありました」
「《空中浮遊》は、その雷を自分から手元から離す操作だ」
ガンザスはクロードの右手を見る。
「まだ《丸くする》も安定してない。その状態で手から離した雷の制御まで外れたら、今までより危ないだろ?」
クロードは自分の右手を見る。
そこまでは考えていなかった。
《印》を覚えた。
だから次は試せばいいと思っていた。
けれど《空中浮遊》では、今まで手元にあった雷を自分から離すことになる。
そのあとで制御できなければ、どこへ向かうのかも分からない。
「……確かに危ないですね」
「だろ?」
ガンザスが頷く。
「できないって言ってるわけじゃないぞ」
クロードは顔を上げた。
「ただ順番だ。まず《丸くする》を続けよう」
「はい」
理由が分かれば、無理に先へ進む必要はない。
クロードは《空中浮遊》ではなく、何度も練習してきた《丸くする》の《印》を思い出した。
周囲ではすでに実習が始まっている。
ガレスの手元では火が揺れ、カイルは水を集めていた。
風属性のリーゼはまとまりかけた風がほどけ、もう一度やり直している。
土属性のノーゼスは自分の前へ集めた土を見ながら、どう浮かせるか試していた。
クロードも右手を上げる。
雷を集め、そこから《丸くする》の《印》へ進む。
細い光が手元で揺れた。
丸い形へまとめようとする。
バチッ。
乾いた音とともに雷が弾けて消えた。
「……まだか」
クロードは右手を開いて確認する。
痛みはない。
もう一度やろうとしたところで、少し離れた場所から声がした。
「おいおい」
顔を向ける。
ザナトス・アルマイナがこちらを見ていた。
ザナトスの火は手元から離れ、少し揺れながら宙に浮かんでいる。
「首席様が蓋を開けたら、三流魔法使いだったとはな」
クロードは瞬きをした。
どうやら自分に言っているらしい。
何と返そうか考えるより先に、別の声が飛んだ。
「何だよそれ」
ノーゼスだった。
自分の土から手を離し、ザナトスを見る。
「できてないから三流って、意味分かんないだろ」
「できてないのは本当だろ?」
ザナトスが返す。
「雷と火じゃ条件が違うでしょ」
今度はエクリアだった。
水を手元へ集めたまま、ザナトスを見ている。
「だからガンザス先生も止めたんじゃない」
「でも首席なんだろ?」
ザナトスはクロードを見る。
「首席なのに《丸くする》もできないのかよ」
「首席と全部の魔法が一番なのは別でしょ」
エクリアがすぐに返す。
「そうだぞ」
ノーゼスも加わる。
「クロードは雷なんだから、お前の火と同じじゃない」
「二人して何なんだよ」
「聞いてて腹立っただけ」
ノーゼスが言う。
「私も」
「エクリアまで……」
クロードが口を挟んだ時には、もう三人ともこちらを見ていなかった。
「別にお前らに言ってないだろ」
「クロードに言ってただろ」
「だから何だよ」
「だから――」
「おーい」
ガンザスの声が実習場へ響いた。
三人の声が止まる。
ガンザスが腕を組んでこちらを見ていた。
「お前ら四人、実習中に何してる?」
クロードは周囲を見る。
四人。
自分も入っている。
「先生」
「ん?」
「僕もですか?」
ガンザスがクロードを見る。
「お前のことで喧嘩してるんだから、まず止めろ」
「止める前に始まって……」
「じゃあ今止めろ」
「はい」
クロードは素直に頷いた。
横でノーゼスが少し笑いそうになり、ガンザスの視線がそちらへ動く。
「ノーゼス」
「はい」
笑いはすぐ消えた。
ガンザスはザナトスを見る。
「ザナトス。他人ができてないことをわざわざ煽るな」
「……はい」
「ノーゼスとエクリアも、言い返して喧嘩を広げるな」
「はい」
「分かりました」
「クロード」
「はい」
「お前も練習に戻れ」
クロードは少し首を傾げた。
「僕だけ注意が違いません?」
一瞬だけ静かになり、ガンザスが吹き出した。
「じゃあクロードも喧嘩するな」
「してません」
周囲から小さな笑い声が上がった。
「とにかく全員、実習に戻れー」
ガンザスが手を叩く。
四人はそれぞれ自分の場所へ戻った。
クロードも右手を上げ直す。
少し離れたところで、ザナトスも再び火へ集中していた。
クロードも《丸くする》へ戻った。
◇
三限目になっても魔法実習は続いた。
二限目の最初と比べると、生徒たちの進み方には少しずつ差が出ていた。
まだ《空中浮遊》を何度も繰り返している者もいれば、ガンザスに確認してもらい《静止》へ進んだ者もいる。
火属性のザナトスは《空中浮遊》を通過し、《静止》の練習へ進んでいた。
宙に浮いた火を一か所へ留めようとしているが、少し揺れるたびに眉を寄せている。
光属性のベンも《静止》へ進んでいたが、一度止まった光がすぐに位置をずらし、もう一度《印》を確認していた。
水属性のピアはまだ《空中浮遊》を繰り返している。
手を離した水が崩れるたびに、教本の水属性の頁を確認してからやり直していた。
土属性のノーゼスは、集めた土を少し浮かせるところまではいったものの、長くは続かない。
少し離れたところでは、同じ土属性のレクシアも自分の前に集めた土と向き合っている。
「難しいな、これ」
ノーゼスが土を見たまま呟いた。
「昨日先生が言ってたでしょ」
近くにいたエクリアが答える。
「分かってたけど、やると違う」
「それはそうね」
エクリア自身も簡単に終わってはいなかった。
水属性では《空中浮遊》をガンザスに確認してもらい、《静止》へ進んでいる。
けれど風属性では、まだ《空中浮遊》を何度もやり直していた。
二属性あるからといって、二つとも同じ速さで進むわけではない。
クロードは二限目から変わらず《丸くする》を続けていた。
右手へ雷を集める。
形を作ろうとする。
パチッ、と音がして消える。
少し休み、また試す。
周囲では昨日覚えた《空中浮遊》や《静止》の練習が進んでいる。
クロードも本当なら試してみたかった。
けれど、ガンザスに止められた理由は分かっている。
なら今は《丸くする》を続ける。
クロードはもう一度《印》を組んだ。
細い雷が手元へ集まる。
形を作ろうとしたところで、また光が弾けた。
「まだ駄目か」
右手を見てから、もう一度やり直す。
ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れたところでザナトスがこちらを見ていた。
目が合う。
ザナトスは何も言わず、自分の火へ視線を戻した。
クロードも手元へ戻る。
やがて三限目の終わりを告げる魔導の鐘が鳴った。
「よーし、今日はそこまでー」
ガンザスの声で、生徒たちが順番に魔法を止めていく。
「《静止》までできなかった奴も気にするな。次も続きからやるぞー」
ノーゼスが土から手を離して息を吐いた。
「結局、《空中浮遊》もちゃんとできなかった」
「僕は《丸くする》のまま」
クロードが言うと、ノーゼスがこちらを見る。
「でも次もやるんだろ?」
「うん」
「じゃあ俺も次だな」
二人で片づけを始める。
エクリアも少し遅れて合流した。
「風の方、まだ?」
ノーゼスが聞く。
「まだ」
「エクリアでもまだなんだ」
「何よそれ」
「いや、すぐできるかと思った」
「水も風も両方すぐできるわけないでしょ」
三人は片づけを終えると、実習で持ってきた教本を戻すために一度教室へ戻った。
教本を鞄へしまい、昼食を取るため食堂へ向かう。
◇
昼時の食堂には多くの生徒が集まり、料理を受け取る列ができていた。
三人も料理を受け取り、空いている席へ座る。
席につくなりノーゼスが食べ始めたが、今日はいつもより少し勢いがなかった。
「まだ怒ってる?」
エクリアが聞く。
「何が?」
「ザナトス」
ノーゼスの手が止まる。
「怒るだろ、あんな言い方されたら」
「僕のこと?」
クロードが聞く。
「お前以外に誰がいるんだよ」
「でも《丸くする》ができてないのは本当だよ」
ノーゼスが眉を寄せた。
「そういうことじゃないだろ」
「そう?」
「三流って決めつける理由にはならないってこと」
エクリアが料理に手をつけながら言った。
「火と雷じゃ条件も違うし、先生が止めたのだって危ないからでしょ」
「でもザナトスは《空中浮遊》できてたよ」
「だから何でそっちを認めるんだよ」
ノーゼスが呆れた顔をする。
「できてたものはできてただろ」
「クロードってそういうところあるよね」
エクリアが言う。
「どういうところ?」
「自分ができてないことは普通にできてないって言うところ」
「できてないからね」
「ほら」
クロードには何がおかしいのか分からなかった。
ノーゼスは一口食べてから、まだ納得していない顔で口を開く。
「そもそも、なんであいつあんなに首席にこだわってんだ?」
「知らない」
エクリアも首を横に振る。
クロードも考えてみたが、ザナトスとは今日までほとんど話したことがなかった。
「僕も分からない」
「本人に聞けば?」
エクリアが言う。
「俺が?」
「気になるんでしょ?」
「なんで俺が聞きに行くんだよ」
「じゃあ気にしなければいいじゃない」
「気になるけど聞きに行くほどじゃない」
「どっちなの」
二人のやり取りを聞きながら、クロードは食事を続けた。
首席だから。
ザナトスはそう言っていた。
それだけで、あそこまで気にするものなのだろうか。
「クロード」
「ん?」
「また考えてたでしょ」
エクリアがこちらを見ている。
「ちょっとだけ」
「飯食えよ」
ノーゼスに言われ、クロードは自分の料理を見る。
いつの間にか手が止まっていた。
「食べてるよ」
「止まってただろ」
「今から食べる」
エクリアが小さく笑った。
そのまま話は別のことへ移り、三人は昼食を終えると食器を返して教室へ戻った。
◇
昼休みが終わり、四限目は文学だった。
午前中ずっと魔法を使っていたせいか、教室の中は朝より少し静かだった。
クロードも文学の教本を開き、先生の話へ意識を切り替える。
《丸くする》はまだできていない。
《空中浮遊》と《静止》も試していない。
ザナトスのことも少し気にはなった。
それでも今は文学の授業だった。
クロードは教本へ視線を落とし、先生の話を聞いた。
やがて四限目が終わり、教室のあちこちで帰り支度が始まる。
クロードが文学の教本を鞄へしまったところで、机の横に誰かが立った。
顔を上げる。
ザナトスだった。
「クロード」
「なに?」
「お前、首席なんだろ?」
昼休みに話していたことを思い出す。
「そうだけど」
ザナトスは少しだけ顎を上げた。
「だったら俺は、お前より先に魔法をできるようになるからな」
クロードはザナトスを見る。
「なんで僕と?」
「首席だからだよ!」
「それだけ?」
「それで十分だろ!」
少し離れたところで、ノーゼスが吹き出した。
エクリアも口元を押さえている。
ザナトスが二人を見る。
「何だよ!」
「いや、昼にちょうど話してたから」
ノーゼスが笑いを堪えながら答える。
「何をだよ」
「なんでお前がそんなにクロードを気にしてるのかって」
ザナトスが一瞬黙る。
「だから首席だからだって言ってるだろ!」
「本当にそれだけなんだ」
エクリアまで言った。
「悪いかよ!」
クロードは三人を見ながら、ようやく少しだけ分かった気がした。
ザナトスは自分が何かしたから怒っているわけではない。
首席になった自分を、勝手に競う相手として見ているらしい。
「分かった」
クロードが言うと、ザナトスがこちらを見る。
「何が?」
「ザナトスが僕を気にしてる理由」
「気にしてるって言うな!」
「違うの?」
「違わねえけど、言い方が違う!」
ノーゼスがまた吹き出した。
ザナトスは顔を赤くしながらクロードを指す。
「とにかく覚えとけ! そのうち首席より俺の方が魔法うまくなるからな!」
それだけ言って、ザナトスは教室を出ていった。
クロードはその背中を見送る。
「忙しいな、あいつ」
ノーゼスが言う。
「でも理由は分かったでしょ」
エクリアが答える。
「首席だから?」
「うん」
クロードはもう一度、ザナトスが出ていった扉を見る。
まだよく分からないところはある。
ただ次の魔法実習でも、また何か言ってきそうだった。




