浮遊と静止
週の二日目、一限目と二限目はナターシャ・ミナルトアの魔法基礎だった。
昨日の魔術実習で《丸くする》の練習は一区切りになったが、クロード自身は最後まで雷を丸い形にはできていない。
それでも授業は先へ進む。
クロードは席につくと魔法基礎の教本を開き、昨日までに習ったところを眺めていた。
やがて魔導の鐘が鳴り、ナターシャが教室へ入ってくる。
教壇へ教本を置いたナターシャは、教室を見渡してから口を開いた。
「前回までに《丸くする》と《放つ》を学びましたね」
何人かが頷いた。
クロードも自分の教本へ目を落とす。
《放つ》は使える。
《丸くする》はまだできない。
「今日は、その先にある《印》を二つ学びます」
教室のあちこちで頁をめくる音がした。
「一限目は《空中浮遊》です」
クロードも雷属性の指定された頁を開いた。
そこには見たことのない《印》が載っている。
「《空中浮遊》は、手元で作った魔法を手から離し、空中へ浮かせるための《印》です」
クロードは自分の右手を見る。
手から離すだけなら《放つ》でもできる。
けれど《放つ》は狙った方向へ魔法を進ませるためのものだった。
今度は遠くへ飛ばさず、手を離したあとも空中に浮かせる。
「飛んでいったら失敗ですか?」
ガレスが手を挙げた。
「《空中浮遊》としては失敗ですね」
ナターシャが答える。
「今回は遠くへ進ませるのではなく、空中に浮いている状態を作ります」
ガレスは自分の教本へ視線を戻した。
クロードも雷属性の《空中浮遊》を見る。
やることは分かった。
実際に雷がその通り動くかどうかは、試してみなければ分からない。
ナターシャは続けて、属性による難しさの違いを説明していった。
火と光、それから闇は比較的扱いやすい。
水と風は少し難しくなり、土はさらに難しい。
「《丸くする》はやりやすかったのに」
ノーゼスが土属性の教本を見ながら言った。
「今回は空中へ浮かせますからね」
ナターシャが答える。
「土には質量があります」
ノーゼスは少し考えた。
「……じゃあ、落ちる?」
「うまく操作できなければ落ちます」
近くから小さな笑い声が上がり、ノーゼス自身も少し笑った。
クロードは雷属性の頁へ目を戻した。
ナターシャの説明の中に、まだ雷は出ていない。
「先生、雷は?」
「雷属性にも《空中浮遊》の《印》は登録されています」
ナターシャも教本へ目を落とした。
「ただ、実際に使われた記録は多くありません」
クロードは《印》を見る。
《丸くする》の時と同じだった。
教本には載っている。
《印》としても登録されている。
けれど、どこまで実際に確かめられているのかは分からない。
「今日は魔法そのものは使いません」
ナターシャが教室全体へ声をかけた。
「まずは自分が使う属性の《印》を覚えてください」
生徒たちがそれぞれ教本へ向き直り、手を動かし始めた。
クロードも雷属性の《空中浮遊》を見ながら、一つずつ手順を追っていく。
途中で分からなくなり、一度手を止めた。
教本を確認して最初からやり直す。
今度は最後まで進めることができた。
それでも、もう一度やると途中で指が止まった。
クロードはまた教本へ戻る。
隣ではノーゼスも土属性の《印》を何度も繰り返していた。
少し離れたところでは、エクリアが水属性の《印》を一通り確認したあと、風属性の頁を開いている。
二属性を持つエクリアは、同じ《空中浮遊》でも水と風の両方を覚えなければならない。
「もう水の方はいいの?」
ノーゼスが聞いた。
「今は間違えずにできたわ」
「もう?」
「風がまだ残ってるの」
エクリアはそれだけ言うと、すぐに自分の教本へ戻った。
ノーゼスも少しだけエクリアを見てから、土属性の頁へ視線を戻す。
クロードも雷属性の《印》をもう一度組んだ。
覚える量が倍なら、その分だけ手を動かさなければならない。
それでもエクリアは慌てず、一つずつ進めている。
クロードは自分の《印》へ集中し直した。
何度か繰り返しているうちに、教本を見る回数が少しずつ減っていく。
やがて一限目の終わりを告げる魔導の鐘が鳴った。
クロードは手を下ろし、覚えたばかりの《空中浮遊》を頭の中でもう一度辿った。
◇
二限目が始まると、ナターシャは教本の次の項目を開いた。
「次は《静止》です」
クロードも指定された頁を開く。
《空中浮遊》とは別の《印》が載っている。
「《静止》は、対象をその位置から動かさないための《印》です」
ナターシャはそのまま説明を続けた。
「《静止》は空中だけで使うものではありませんが、今日は《空中浮遊》の続きとして覚えます」
クロードは一限目の内容を思い出した。
まず手から離して浮かせる。
そのあと、動かないようにする。
「《空中浮遊》で浮かせた魔法を、今度はその位置から動かないようにするということですね」
「そうです」
クロードは自分の《静止》の頁へ目を戻した。
昨日まで習っていたものから、さらに二つ増えた。
ナターシャは《静止》についても属性ごとの難しさを説明した。
火、光、闇は比較的扱いやすい。
水と風は少し難しく、土は簡単ではない。
ノーゼスはさっきより真剣な顔で土属性の頁を見ていた。
「浮かせるだけでも難しいのに、そのあと止めるのか」
「まず《空中浮遊》ができないと、その使い方には進めませんね」
ナターシャが答える。
ノーゼスは小さく息を吐いた。
クロードは雷属性の《静止》を見る。
こちらにも《印》は登録されていた。
「雷も記録は少ないんですか?」
「そうですね」
ナターシャが頷く。
「《静止》についても、雷属性で確認されている例は多くありません」
《空中浮遊》と同じだった。
《丸くする》も同じだった。
《印》はあるのに、その先の記録が少ない。
「登録されてるなら、誰かは使ったんじゃないんですか?」
ガレスが聞いた。
「登録されるまでに何らかの根拠はあったはずです」
ナターシャは少し考えてから答えた。
「ですが、今ここにある資料だけでは、どれだけ試されて、どの程度同じように使えたのかまでは分かりません」
クロードはその答えを聞きながら教本を見る。
分かっていないことは多い。
だからといって、使えないと決まったわけでもない。
「では《印》を覚えましょう」
教室の中で再び生徒たちが手を動かし始めた。
クロードも雷属性の《静止》を最初から組んでいく。
一限目に覚えた《空中浮遊》とは別の《印》なので、新しく覚え直さなければならない。
途中で手順が分からなくなり、教本を見る。
もう一度やり直す。
今度は最後まで進めることができた。
少しして、隣からノーゼスの声がした。
「俺、《空中浮遊》と混ざってきた」
クロードも一度手を止める。
「僕も少し」
「覚えるの増えるとややこしいな」
「うん」
それぞれ使う属性も《印》も違うので、どこで間違えたのかを比べても仕方がない。
二人ともそれ以上は話さず、自分の教本へ戻った。
クロードは雷属性の《静止》だけを見て、もう一度最初から組み直す。
少し離れたところでは、エクリアが水属性の《静止》を確認していた。
何度か繰り返したあと、水属性の教本から視線を上げ、今度は風属性へ移る。
「水は覚えた?」
ノーゼスが聞いた。
「たぶん大丈夫」
「早いな」
「まだ風があるの」
エクリアは風属性の《印》へ視線を戻した。
ノーゼスは少しだけ黙ったあと、自分の土属性の《静止》をまた最初からやり直す。
クロードも手元へ意識を戻した。
エクリアは一属性だけの自分たちより覚えるものが多い。
それでも一つずつ確実に進めている。
こういうところを見ると、やっぱりエクリアは勉強が得意なのだと思う。
クロードも《静止》を繰り返した。
最初は何度も教本へ戻ったが、少しずつ見る回数が減っていく。
一度最後まで組んだあと、少し間を置いてもう一度やってみる。
今度も途中で止まらなかった。
できるようになったのは《印》だけだ。
実際に雷を使ったわけではない。
教室の中でも、まだ教本を見ながら何度も手を動かしている生徒がいる。
すでに手を止めている生徒もいた。
同じ授業を受けていても、覚える速さまで同じではない。
やがて二限目の終わりを告げる魔導の鐘が鳴った。
「今日覚えた《空中浮遊》と《静止》は、次の魔術実習でも扱います」
ナターシャが教本を閉じる。
「それまでに、自分の属性の《印》を忘れないようにしてください」
クロードも教本を閉じた。
《空中浮遊》と《静止》。
新しく覚えた《印》が二つ増えた。
◇
三限目は文学だった。
クロードは魔法基礎の教本をしまい、文学の教本とノートを机へ出した。
授業が始まれば先生の話を聞き、必要なところを書いていく。
昼休みを挟んだ四限目は国史だった。
朝に覚えた二つの《印》が時々頭へ浮かんだが、その日の授業は魔法基礎だけではない。
クロードもそのたびに、今開いている教本へ意識を戻した。
四限目が終わると、教室のあちこちで帰る準備をする音が聞こえ始めた。
クロードも教本を片づけてから、ノーゼスのところへ向かう。
「ノーゼス」
「ん?」
「今日、放課後また壁の練習する?」
昨日は途中で疲れて終わった。
壁はまだクロードの膝より低く、完成にはほど遠い。
ノーゼスは少し考えてから首を横に振った。
「今日はパス」
「そっか」
「《空中浮遊》と《静止》、ちゃんと覚えたい」
ノーゼスは鞄へ入れた魔法基礎の教本を見る。
「土は難しいって言われたし、実習までにもうちょっとやっとく」
クロードは昨日、何度も土を動かしていたノーゼスの姿を思い出した。
壁はクロードが使いたくて始めたものだ。
ノーゼスにはノーゼスの授業があり、自分の魔法を覚える時間もいる。
「分かった」
「また今度な」
「うん」
ノーゼスは鞄を持って立ち上がった。
少し離れたところでは、エクリアも帰る準備をしていた。
今日だけでも水と風の二属性分、それぞれ《空中浮遊》と《静止》を覚えている。
クロードやノーゼスより覚えるものは多かったはずだ。
それでも授業中に慌てることなく、一つずつ進めていた。
クロードは改めて、エクリアはこういうことが得意なのだと思った。
三人は教室を出ると、途中まで一緒に歩いてからそれぞれ寮へ戻った。
◇
その夜、クロードは寮の自室で記録用のノートを開いた。
昨日の頁には、ノーゼスと練習した土の壁について書いた文字が残っている。
『土の壁』
『横に広げる → 低い』
『上に集める → 少し高くなった』
『ノーゼス → 疲れたので終了』
『まだ壁ではない』
今日は壁の練習をしていない。
クロードは次の頁を開き、今日覚えたものを書いた。
『《空中浮遊》』
その下へ続ける。
『手から離して、空中に浮かせる』
少し間を空け、もう一つ書いた。
『《静止》』
『対象をその位置から動かさない』
その下へ、
『今回は《空中浮遊》した魔法に使う』
と付け足した。
クロードは二つを見てから、少し前の頁へ戻った。
そこには《丸くする》について書いた記録が残っている。
雷を集めるところまではできる。
形を作ろうとすると途中で放電する。
昨日も最後まで丸くはならなかった。
クロードは今日の頁へ戻り、三つを順番に書いた。
『《丸くする》 → まだできない』
『《空中浮遊》 → 《印》は覚えた』
『《静止》 → 《印》は覚えた』
三つ並べてみる。
《丸くする》はまだできていない。
その次は、雷を手から離して空中へ浮かせる。
さらに《静止》を使えば、その位置から動かないようにする。
「……これ、本当にできた人いるのか?」
思わず声が出た。
どの《印》も雷属性用として登録され、教本に載っている。
けれど《丸くする》ですら、雷属性で十分に実証されているわけではない。
《空中浮遊》と《静止》についても、確認されている記録は少ない。
誰かが使えたから登録されたのかもしれない。
何度も同じように使えた人がいたのかもしれない。
今のクロードには分からなかった。
鉛筆を持ち直し、三つの下へ書き加える。
『雷 → 実証例が少ない』
その下へ、
『本当に使えた人はいる?』
と書いた。
少し考えてから、もう一つ続ける。
『どこまで確かめられている?』
答えはまだない。
だからこそ、実際にやってみれば分かることもあるはずだった。
クロードは今日覚えた《空中浮遊》と《静止》をもう一度見る。
次の魔術実習で試してみよう。
そう考えて、クロードはノートを閉じた。




