父の背中
文字を覚え始めてから、クロードの世界は目に見えて広がった。
まだ難しい本を一人で読めるほどではない。
それでも以前なら意味のない模様にしか見えなかった文字が、少しずつ言葉として頭に入ってくるようになった。
読めるものが増えれば、知りたいことも増える。
そして知りたいことが増えるほど、自分が知らないことの多さも分かってきた。
「……これも分からない」
クロードは開いていた本から顔を上げた。
子供向けに書かれた魔法の本だった。
火、水、風、土、光、闇、雷。
この世界で知られている七つの属性について簡単に説明されている。
とはいえ内容は、クロードが期待していたものとは随分違った。
火は熱を生み、物を燃やす。
水は水を操り、風は空気を動かす。
土は大地に働きかけ、光は癒しや浄化に優れ、闇は光を遮り力を弱める。
そして雷は、雷を生み出す。
そこまで読んで、クロードは首を傾げた。
「雷を生み出すって……そのままだな」
もっと詳しい仕組みが書かれていると思っていた。
魔力をどう動かすのか。
印がどうやって魔法の形を決めるのか。
同じ火魔法でも温度や範囲をどう変えるのか。
知りたいことはいくらでもあるのに、子供向けの本にはほとんど載っていない。
考えてみれば当然だった。
これは魔法を使えるようになった者が読む専門書ではなく、魔法とは何かを子供に教えるための本なのだ。
クロードは少し考えてから本を閉じた。
分からないなら、知っている人に聞けばいい。
屋敷の中で最初に思い浮かんだのは父だった。
ガルディオは火魔法を使う。
しかもただ火を灯せるだけではない。
アインハルト家に仕える者たちの話を聞く限り、父は剣と魔法の両方を使って戦うらしい。
ならば実際に使っているところを見せてもらうのが一番早い。
問題は、ガルディオが忙しいことだった。
領地を治める貴族であり、自ら鍛錬も欠かさない。
クロードが自由に歩けるようになってからも、昼間に顔を見る機会はそれほど多くなかった。
そこで翌朝、クロードは父を探した。
庭を抜けた先から、何かが空気を切る音が聞こえてくる。
近づくと、開けた訓練場にガルディオの姿があった。
剣を振っている。
ただそれだけなのに、クロードは足を止めた。
速い。
前世でも映像や演武で剣術を見たことはある。
しかし目の前にいる父の動きは、それとはまるで違って見えた。
大きな身体が驚くほど滑らかに動く。
踏み込みと同時に剣が走り、止まったと思った次の瞬間には別の方向へ刃が向いている。
力任せに振っているようには見えない。
足の位置、腰の回転、肩から腕への力の伝わり方。
身体全体が一つの動きとしてつながっている。
クロードはいつの間にか剣ではなく、父の足元を見ていた。
「何をしている」
声を掛けられ、クロードは顔を上げた。
いつの間にかガルディオが剣を下ろしてこちらを見ている。
「見てた」
「それは分かる」
「父さまの足」
「足?」
ガルディオが僅かに眉を動かした。
クロードは自分の足で真似をしてみる。
右足を前へ出し、腰を回そうとして身体が傾いた。
慌ててもう片方の足を出す。
「……違う」
「何がしたい」
「父さま、剣を振るとき、腕だけじゃなかった」
ガルディオが黙った。
「足から動いて、ここが動いて」
クロードは腰を触る。
「それから剣」
少しの沈黙のあと、ガルディオが剣を鞘へ収めた。
「よく見ているな」
褒められたらしい。
クロードは嬉しくなったが、今日の目的を思い出した。
「魔法も見たい」
「魔法?」
「うん」
ガルディオの表情が少し険しくなる。
「使いたい、ではないだろうな」
「まだ使えない」
「分かっているならいい」
クロードは少し考えた。
「でも見られる」
その言葉にガルディオが目を細めた。
やがて訓練場の端を指差す。
「そこから動くな」
「うん」
クロードが言われた場所まで下がると、ガルディオは周囲を確認した。
人がいないことを確かめてから剣を抜く。
左手が動いた。
クロードはその指先を凝視した。
以前、廊下の灯りをつけたときにも見た火魔法の印。
だが今回は少し違う。
指の形だけではない。
切り替わる順番も、動かす速度も違っていた。
次の瞬間、剣の周囲に火が生まれた。
「おお……」
思わず声が漏れた。
炎は剣そのものから燃え上がっているように見える。
だが刃が溶ける様子はない。
柄まで火が回ることもなく、ガルディオの手も焼けていない。
クロードの頭に疑問が一気に浮かんだ。
どうして剣だけを包める。
火の温度はどれくらいだ。
燃料は何だ。
空気中の酸素を使っているのか。
魔力そのものが熱へ変換されているのか。
それとも魔力が燃焼を起こしているのか。
「父さま」
「なんだ」
「剣、熱くない?」
「熱い」
予想外の答えだった。
「熱いの?」
「当然だ。火だからな」
「でも持ってる」
「柄までは燃やしていない」
クロードは炎を見る。
「どうやって?」
「印で範囲を決めている」
「火の形も?」
「そうだ」
「強さも?」
「ある程度はな」
「温度も?」
ガルディオが一瞬止まった。
「温度?」
クロードは言葉を選ぶ。
この世界に温度という概念自体はある。だが幼い子供が細かく気にするようなものではないらしい。
「熱い火と、もっと熱い火」
「ああ。変えられる」
「どうやって?」
「流す魔力と印を変える」
「どっちを変えたら、どれくらい変わる?」
「……」
ガルディオが黙った。
クロードは答えを待つ。
「感覚だ」
「感覚?」
「訓練すれば分かる」
クロードは眉を寄せた。
分からない。
いや、父が分かっていないわけではない。
身体で理解しているのだ。
前世の熟練工にも似た人はいた。
機械の音を聞いただけで異常に気づく。
鋼の色を見て状態を判断する。
本人に理由を尋ねれば、長年の経験だと答える。
それは決して間違いではない。
積み重ねた経験によって身についた感覚も立派な技術だ。
ただ、それだけでは他人へ同じものを渡しにくい。
「もう一回見たい」
ガルディオが炎を消した。
「今見ただろう」
「印が早くて分からなかった」
「覚えるつもりか?」
「覚えるだけ」
「使うなよ」
「使えない」
「そうだったな」
少しだけ困ったような顔をして、ガルディオがもう一度左手を構えた。
今度は先ほどよりゆっくり動かす。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
クロードも自分の手を見ながら同じように指を動かした。
形は作れる。
だが当然何も起こらない。
魔力を制御できないのだから当たり前だ。
それでも構わない。
今は知ることが目的だ。
「そこは違う」
ガルディオが言った。
クロードは止まった。
「どこ?」
「二つ目だ。指を開きすぎている」
もう一度やる。
「こう?」
「もう少し閉じろ」
「こう?」
「そうだ」
三つ目まで進む。
今度は最後の形で小指が上手く曲がらなかった。
「……できない」
「今のお前の手では難しいだろう」
「父さまはできる」
「何年やっていると思っている」
それを言われれば何も返せない。
クロードは自分の小さな手を見た。
歩くこともそうだった。
文字を書くこともそうだった。
印も同じなのだろう。
頭で理解しているだけでは身体は動いてくれない。
「毎日やったらできる?」
「毎日やれば必ずできるとは言わん」
ガルディオの答えは意外だった。
「どうして?」
「間違った動きを毎日繰り返せば、間違った動きが上手くなる」
クロードは目を瞬いた。
その言葉は妙に納得できた。
ただ繰り返せばいいわけではない。
何をしているのか確認し、間違っているなら直さなければならない。
製鉄所でも同じだった。
間違った手順に慣れてしまうことほど危険なものはない。
「じゃあ、見てもらう」
「俺が?」
「うん」
あまりにも当然のように答えると、ガルディオが困った顔をした。
クロードは知っている。
父がこういう顔をするときは、本気で嫌がっているわけではない。
「仕事がある」
「仕事ないとき」
「鍛錬もある」
「見てる」
「……」
「邪魔しない」
長い沈黙のあと、ガルディオが息を吐いた。
「毎日は無理だ」
「うん」
「俺がいいと言ったときだけだ」
「分かった」
「勝手に魔法を試すな」
「できない」
「分かっている」
今度はガルディオの方が先に言った。
それから数日、クロードは父の鍛錬を見るようになった。
毎日ではない。
ガルディオが仕事で屋敷を離れる日もあるし、クロード自身がエリスと文字を勉強する時間もある。
それでも機会があれば訓練場へ行った。
最初は魔法を見るつもりだった。
だが見続けているうちに、それ以外のことにも気づき始めた。
ガルディオは何度も同じ動きを繰り返す。
速く振ることだけを練習しているわけではない。
ゆっくり剣を動かすこともある。
途中で止めることもある。
足の位置を僅かに変えて、また同じ動きをする。
火魔法も同じだった。
大きな炎ばかり作るのではない。
小さな火を一定の大きさに保つ。
剣の先だけを包む。
途中で消す。
再び灯す。
クロードには、その意味が少しずつ分かってきた。
「父さま」
「なんだ」
「強くする練習じゃないの?」
「強くする練習でもある」
「火、小さい」
「大きな火を出すだけなら簡単だ」
ガルディオは剣の先に小さな炎を灯した。
風が吹いても形はほとんど変わらない。
「必要な場所に、必要なだけ使う方が難しい」
クロードは炎を見つめた。
以前、父が言っていた言葉を思い出す。
力は、使えることより制御できることの方が大事だ。
その意味が少しだけ見えた気がした。
大きな力を出せることが強さではない。
狙ったところへ、狙った量を、必要なときに使える。
それが制御なのだ。
クロードは自分の手を見る。
まだ魔力は動かせない。
印もまともに作れない。
それでも今なら練習できることがある。
指を一本ずつ動かす。
ゆっくり形を作る。
違っていたら直す。
できなければ、なぜできないのか考える。
急ぐ必要はない。
五歳になるまで時間はある。
クロードが黙って指を動かしていると、ガルディオが剣を鞘へ戻した。
「クロード」
「なに?」
「焦るな」
クロードは父を見上げた。
「力は逃げん」
短い言葉だった。
けれどクロードには十分だった。
「うん」
今はまだ使えない。
だから見る。
聞く。
覚える。
身体を動かす。
そして使える日が来たとき、そこからまた失敗すればいい。
訓練場を出る前に、クロードは振り返った。
ガルディオはもう次の鍛錬を始めていた。
同じ動きを何度も繰り返している。
けれど今のクロードには、それが同じことを繰り返しているようには見えなかった。
少しずつ確かめ、少しずつ直し、少しずつ自分のものにしている。
父の背中から教わったのは、魔法の印だけではなかった。
知ることと、できることの間には、何度も試す時間がある。
クロードは自分の小さな手を開き、覚えたばかりの印をゆっくりと作った。
やはり最後の指が上手く曲がらない。
「……もう一回」
何も起こらない手の中で、クロードはもう一度最初から指を動かした。




