知るための1歩
魔法はまだ使えない。
《鉱物生成》も試さない。
五歳になるまでは待つ。
そう決めてしまえば、クロードが次にやることは自然と決まった。
知らなければならない。
魔法のことも、この世界のことも、自分がこれから生きていく場所のことも。
そして知るためには、まず言葉が必要だった。
前世の記憶があるからといって、この世界の文字まで読めるわけではない。
会話については、生まれてから毎日のように耳にしていたおかげで随分と理解できるようになっていた。自分でも簡単な言葉なら不自由なく話せる。
だが文字は別だった。
屋敷の中には本がある。
それを初めて知ったのは、アルトが一冊の本を抱えて歩いているところを見かけたときだった。
「アルト兄さま」
呼び止めると、アルトが足を止めた。
「ん? どうした、クロード」
クロードの視線は兄ではなく、その腕の中にある本へ向いていた。
厚い表紙に挟まれた何十枚もの紙。その表面には、当然ながら見覚えのない文字が並んでいる。
「それ、なに?」
「これか? 歴史の本だ」
「れきし?」
「昔のことが書いてあるんだよ」
その説明だけで、クロードの興味は一気に跳ね上がった。
「見たい」
「見ても読めないだろ」
「見る」
「いや、だから読めないって」
「見る」
アルトが困った顔をした。
その反応を見ても、クロードは引かなかった。
読めないから見ないという選択肢はない。読めないなら、何が読めないのかを確かめればいい。
「……分かったよ」
根負けしたアルトが近くの椅子に座り、クロードを隣へ呼んだ。
机の上で本が開かれる。
紙は前世で使っていたものより少し厚く、表面も滑らかではない。印刷された文字ではなく、一文字ずつ書き写されたものらしく、よく見ると線の太さにも僅かな違いがあった。
クロードは文章より先に紙そのものへ指を伸ばした。
「これ、なにでできてるの?」
「え?」
「かみ」
「紙は紙だろ」
「どうやって作るの?」
「……知らない」
アルトが少し悔しそうな顔をする。
クロードは紙から兄へ視線を移した。
「アルト兄さまも知らない?」
「知らないことくらいある」
「そっか」
「なんでちょっと嬉しそうなんだよ」
知らないのが自分だけではないと分かったから、というわけではない。
知らないことを見つけたら、そこには調べる余地がある。
ただそれだけで少し楽しかった。
アルトがページをめくる。
そこには文章だけでなく、大きな地図のようなものも描かれていた。
クロードの目が止まった。
「これ」
「地図だよ」
「どこ?」
「俺たちが住んでる国」
アルトが地図の一角を指差した。
「ラクレシア王国」
何度か耳にした名前だった。
自分たちアインハルト家が仕えている国。
けれど名前しか知らない。
クロードは地図へ顔を近づけた。
「ここにいる?」
「もっと細かい地図じゃないと分からないな」
「じゃあ、ここから外にも国がある?」
「あるぞ」
「どんな国?」
「えっと……」
アルトの指が止まった。
しばらく地図を眺めたあと、気まずそうにクロードを見る。
「そこまでは俺もよく知らない」
「じゃあ調べよう」
「なんで俺もなんだよ」
そう言いながらも、アルトは本を閉じなかった。
その日の夜、クロードはエリスに文字を教えてほしいと頼んだ。
「文字を?」
「うん。本、読みたい」
エリスは少し驚いたようだった。
まだ幼い息子が本を読みたいと言い出したのだから当然なのかもしれない。
「どんな本が読みたいの?」
「いっぱい」
「いっぱい?」
「魔法の本と、国の本と、石の本」
最後の一つを聞いて、エリスが小さく笑った。
「クロードは本当に石が好きね」
「いっぱい違うから」
庭で拾った石だけでも色や重さ、硬さが違う。
前世の知識から正体を推測できるものもあれば、まったく分からないものもあった。
むしろ分からないものの方が面白い。
「分かったわ。じゃあ明日から少しずつ始めましょうか」
「今日から」
「もう寝る時間です」
「ちょっとだけ」
「駄目です」
即答だった。
クロードが何か言おうとすると、エリスは笑顔のまま首を横に振った。
「勉強するなら、きちんと休むことも覚えましょうね」
前世でも似たようなことを部下に言った記憶がある。
疲れた状態で作業を続ければ、判断力も集中力も落ちる。
理屈は分かる。
分かるのだが、自分が止められる側になると少し納得しづらかった。
「……はい」
翌日から、エリスによる文字の勉強が始まった。
最初に教えられたのは、この国で一般的に使われている文字だった。
一つずつ発音を聞き、それに対応する形を覚える。
最初は簡単だと思った。
前世で長い間仕事をしてきた経験もある。覚えるという行為そのものには慣れている。
だが実際に書こうとすると、話は違った。
「……曲がった」
クロードが書いた文字は、見本とは似ても似つかない形になっていた。
「最初はそんなものよ」
エリスが隣で笑う。
クロードは自分の指を見た。
原因は分かっている。
手が小さい。
指先の力も弱い。
筆記具を一定の力で保持することすら難しい。
頭では線の動きが分かっているのに、手がその通りに動いてくれない。
歩く練習をしていた頃と同じだった。
知っていることと、できることは違う。
「もう一回」
「ええ」
もう一度書く。
また曲がる。
今度は握る力を少し弱める。
途中で筆記具が滑った。
「……違う」
三度目。
四度目。
五度目。
少しずつ形が近づいていく。
エリスは答えを急かさなかった。
間違ったところをすぐに直すこともあれば、クロードが自分で気づくまで待つこともある。
その教え方は不思議と心地よかった。
数日が過ぎる頃には、いくつかの文字を自分で書けるようになった。
数週間が過ぎれば、短い単語なら読める。
もちろん本を自由に読めるほどではない。
だからクロードは、読める文字を探した。
廊下を歩けば飾られている札を見る。
食事のときには容器に刻まれた文字を見る。
アルトが本を開いていれば横から覗き込む。
分からない文字があれば聞く。
「これなに?」
「昨日教えただろ」
「忘れた」
「お前でも忘れるんだな」
「忘れるよ」
「なんか安心した」
以前とは逆のことを言われた。
そんなある日、クロードは庭でアルトと一緒に本を開いていた。
最初に見せてもらった歴史の本ではない。子供向けに書かれた、この世界の簡単な地理の本だった。
まだ文章の大半は読めない。
それでも地図の横に書かれた国名なら、いくつか拾えるようになっていた。
「ラクレシア」
「正解」
アルトが指を動かす。
「じゃあこれは?」
クロードは文字を一つずつ追った。
「……ザクラス」
「正解」
「どんな国?」
「鉱山が多いらしいぞ。ドワーフが住んでる」
「ドワーフ?」
知らない言葉が出てきた。
アルトが説明しようとして、少し考える。
「人間より背が低くて、力が強くて、鍛冶が得意な種族」
「人間じゃない?」
「違う」
クロードは地図を見た。
魔法がある。
自分の知らない鉱物がある。
人間とは違う種族がいて、その種族が暮らす国まである。
知識として聞くだけなら、一つの情報にすぎない。
けれど地図の上に場所が示されると、それが急に現実味を帯びた。
この屋敷の外に町がある。
その先に王都があり、さらに先には国境がある。
そして国境の向こうにも人が暮らしている。
前世とはまったく違う世界が、本当にどこまでも続いている。
「行ってみたい」
クロードが呟くと、アルトが笑った。
「ザクラスに?」
「うん」
「遠いぞ」
「じゃあ大きくなってから」
「気が早いな」
アルトはそう言ったが、クロードにとっては少しも早くなかった。
今すぐ行けないなら、行けるようになるまでに知ればいい。
文字を覚える。
地図を読む。
この世界の常識を知る。
魔法を見る。
身体を育てる。
できることは、いくらでもある。
その日の勉強が終わったあと、クロードは庭へ出た。
いつもの場所にしゃがみ込み、地面から小さな石を一つ拾う。
灰色で、ところどころ白い粒が混じっている。
何度も見た石だった。
けれど名前は知らない。
この世界の分類も知らない。
前世の知識だけで決めつければ、間違えるかもしれない。
クロードは石を手のひらで転がした。
知らない文字。
知らない国。
知らない種族。
知らない魔法。
そして、知らない石。
少し前まで、それらは全部ただの「分からないもの」だった。
けれど文字を一つ覚えれば、本の中にある情報へ手が届く。
言葉を一つ知れば、誰かに尋ねられる。
地図を読めれば、自分のいる場所と知らない場所をつなげられる。
知るためにも、順番があるのだ。
クロードは手の中の石を握った。
いつか、この石のことも分かるだろう。
その先には、もっと分からないものが待っているはずだ。
そう考えると、不思議なくらい楽しみだった。
五歳になるまで魔法は使えない。
《鉱物生成》もまだ試せない。
けれど、何もできないわけではない。
今できることを一つずつ増やしていけばいい。
知らないものへ近づくための一歩は、もう始まっていた。




