知っていること、知らないこと
「では、まずこれを解いてみましょう!」
ターマニー・トビーダースが黒板に問題を書き終えると、教室のあちこちから紙に数字を書き込む音が聞こえ始めた。
クロードも黒板を見て、手元の紙に答えを書いていく。
難しくはなかった。
入学試験の算術もそうだったが、このくらいならほとんど迷わずに答えが出る。三次関数なんかと比べれば、黒板に並んでいる数字はずいぶん素直だった。
答えを書き終え、途中の計算をもう一度確かめる。
間違ってはいない。
周りではまだ鉛筆を動かしている生徒が多かった。すでに終わって見直している者もいれば、教本を戻っている者もいる。
クロードは自分の教本を何頁か先までめくった。
そういえば、小数はいつ習うんだろう。
今のところ、それらしいものは出てきていない。もう少し先なのかもしれないと思いながら頁を戻したところで、近くから声がした。
「クロード」
顔を向けると、今日はすぐ近くに座っていたノーゼスが自分の紙を見ていた。
「なに?」
「もうできた?」
「うん」
「早くないか?」
「そう?」
「俺、まだここなんだけど」
ノーゼスが紙を少しこちらへ向ける。
途中までは数字が並んでいた。
「ここまでは分かるんだけど、その次が分からない」
クロードが紙を見ようとしたところで、教室の前から声が飛んできた。
「ノーゼス・ダグドラスタ!」
「はい!」
ノーゼスが勢いよく顔を上げる。
「分からないところを友達に聞くのはいいことです! ただし、答えだけ聞いてはいけません!」
「まだ聞いてません」
「そうでしたか!」
ターマニーは一度頷いた。
「では続けてください!」
「いいんだ……」
ノーゼスが呟く。
クロードは少し笑って、もう一度紙を見た。
「ここまでは合ってるよ」
「じゃあ、この次は?」
「その前に、ここはどうやった?」
ノーゼスが自分で書いた数字を見る。
少し考えてから説明を始めた。
聞いてみると、途中までは分かっている。ただ、その先で何をすればいいのか迷っているらしい。
クロードが紙の一か所を指した。
「これ、まだ使ってないよ」
「あ」
ノーゼスの鉛筆がまた動き始める。
その時、少し離れた席から手が上がった。
「先生」
「はい!」
カイル・ノルディアだった。
「こっちを先に計算してもいいんですか?」
「試してみましたか?」
「まだです」
「では、やってみましょう!」
「今?」
「今です!」
カイルが紙へ視線を落とす。
しばらくすると別の生徒が手を挙げ、答えを聞いたターマニーが今度は理由を尋ねた。合っている者もいれば途中で間違えている者もいて、同じ問題を解いているのに考え方は少しずつ違う。
クロードには答えが分かる。
昔はもっと複雑な計算もしていたし、仕事で数字を扱うこともあった。
それでも、誰かが自分とは違うところで迷っているのを見ると、自分では気にもしなかったところへ目が向く。
知っていることを習うのも、思っていたより退屈ではない。
やがて鐘が鳴った。
「では今日はここまでです! 次までに今日やったところをもう一度確認して――」
ターマニーは教本を閉じ、そのまま扉へ向かった。
話しながら扉を開け、廊下へ出ていく。
教室が静かになった。
数秒して、ターマニーが戻ってきた。
「……まだ終わっていませんでした!」
教室のあちこちから笑い声が上がった。
クロードもつられて少し笑った。
◇
次の魔法基礎が始まると、ナターシャ・ミナルトアは教本を開く前に教室を見渡した。
「前回、皆さんには印について話しましたね」
何人かが頷く。
「では今日は、その前から考えてみましょう」
ナターシャはそのまま問いかけた。
「皆さんは魔法を使う時、何をしていますか?」
すぐに一人の手が上がる。
「魔力を使います」
「そうですね」
別の席からも手が上がった。
「印を使います」
「それも必要です」
さらに何人かが手を挙げ、ナターシャは一つずつ答えを聞いていった。
クロードも自分が雷を使う時のことを思い返す。
印を使う。
魔力を使う。
触れているものへ魔力を流す。
それから――何をしているんだろう。
いつもやっていることなのに、改めて聞かれるとすぐには言葉にならなかった。
「では、もう一つ聞きます」
ナターシャが教壇に手を置く。
「印を覚えて、魔力があれば、それだけで魔法を上手に扱えますか?」
教室が少し静かになった。
何人かが顔を見合わせ、やがて一人が首を横に振った。
「たぶん、無理です」
「なぜそう思いましたか?」
「最初に魔法を使った時、うまくできなかったからです」
「どのように?」
「すぐ消えました」
別の席からも声が上がる。
「僕はうまく出せませんでした」
「私は出すまでに時間がかかりました」
少しずつ声が増えていく。
ナターシャはそれを止めなかった。
「では、今はどうですか?」
「前よりできます」
「私も」
「印は変わりましたか?」
また教室が静かになった。
クロードも考える。
変わっていない。
父上から最初に教わった印と、今使っている印は同じだ。
それなのに、最初の頃と今ではできることが違う。
「変わってません」
誰かが答えた。
「僕も」
「私もです」
ナターシャが頷く。
「では、同じ印を使っているのに、なぜ最初と今では違うのでしょう」
クロードは自分の手を見る。
父上との訓練を思い出した。
雷を出す。
出した状態を保つ。
崩さないようにする。
うまくいかなければ何度もやり直した。
印そのものを変えていたわけではない。
「練習したから」
前の方から声がした。
ナターシャがそちらを見る。
「練習すると、何が変わりますか?」
答えた生徒が少し考える。
「……上手くなります」
教室に小さな笑いが起きた。
ナターシャは否定しなかった。
「そうですね。では、何が上手くなったのでしょう」
また静かになる。
クロードは考えた。
雷を出すこと。
出した状態を崩さないこと。
必要な時に使うこと。
父上から言われたことを一つずつ思い返してみても、それらをまとめて何と呼ぶのかは知らなかった。
ナターシャはしばらく待ってから黒板へ向いた。
白い文字が書かれる。
魔術操作。
「皆さんが今まで感覚でやってきたことの中には、こう呼ばれているものがあります」
クロードはその文字を見つめた。
魔術操作。
聞いたことのない言葉だった。
けれど、中身まで知らないわけではない。
父上とずっとやってきた。
言葉を知らなかっただけだ。
「あれが……」
小さく声が漏れる。
近くのノーゼスがこちらを見る。
「知ってたのか?」
「言葉は知らなかった」
「俺も」
ナターシャは黒板の文字を指した。
「魔法を使う時、皆さんはただ魔力を使っているだけではありません。自分では意識していなくても、魔法を扱うための操作をしています」
クロードは紙に魔術操作と書いた。
今までやっていたことに名前がついた。
それだけなのに、少し見え方が変わった。
「では」
ナターシャが教室を見渡す。
「ここで、もう一度印に戻りましょう」
クロードも教本を開いた。
雷属性の頁には、いつもの印が載っている。
「皆さんは魔術操作を行っている。そして魔法を使う時には印も必ず使う。では、印は何をしているのでしょう」
さっきより長く、誰も答えなかった。
クロードは印を見る。
これを使うと、雷を使う時の感覚へ自然に入っていける。
ずっとそうだった。
でも、それがどうしてなのかは分からない。
リーゼ・シュトラールが手を挙げた。
「魔術操作をするために使うんですか?」
「そう考えた理由は?」
「印がないと魔法を使えないからです」
「なるほど」
ナターシャはすぐに正解とも間違いとも言わなかった。
「印と魔術操作は無関係ではありません。印は魔術操作を行うために使われています」
そこで一度言葉を切る。
「では、なぜその形の印を使うことで、その魔術操作へ繋がるのでしょう」
誰も手を挙げなかった。
クロードも挙げられない。
目の前の印を見る。
なぜ、この形なんだろう。
前回から気になっていた疑問が、少し形を変えた。
なぜこの印なのか。
なぜこの印を使うと、自分は雷を扱う時の感覚へ繋がるのか。
一つ分かったはずなのに、分からないことが増えた。
「分からなくても構いません」
ナターシャが言う。
「ただし、自分が何を分かっていて、何を分かっていないのかは区別してください」
クロードは紙にもう一つ書き足した。
印と魔術操作の関係。
「先生」
レクシア・オルフェリアが手を挙げた。
「参考書に載っている印なら、同じ属性の人は全部使えるんですか?」
「同じ属性の者が同じ印を使えば、同じ魔法を使うことができます」
レクシアが教本を見る。
「じゃあ、印を覚えれば使えるんですか?」
「今の話を思い出してください」
レクシアは少し黙った。
「……魔術操作も必要です」
「そうです。それに魔力も必要になります」
ナターシャが黒板に魔力と書き加える。
「印を知っていても、その魔法を扱うために必要な魔力や魔術操作が備わっているとは限りません」
「強い魔法ほど難しいんですか?」
「必要になる魔力も増えますし、求められる魔術操作も高くなります」
クロードはその言葉を聞きながら、昔のことを思い出した。
棒に雷を留めようとした時のことだ。
印は知っていた。
雷も出せた。
今知った言葉で言えば、魔術操作だって何もしていなかったわけではない。
父上と何度も訓練していた。
それでも、できなかった。
じゃあ、あの時の僕には何が足りなかったんだろう。
答えは出なかった。
今はまだ、分からない。
「先生」
今度はノーゼスが手を挙げた。
「なんですか?」
「許可証を取ったら、クロードの雷は見られますか?」
教室が一瞬静かになった。
ナターシャがノーゼスを見る。
「クロードさんが指定された場所で使い、あなたがそこにいるのであれば、見る機会はあるでしょう」
ノーゼスの顔が少し明るくなる。
「じゃあ頑張ります」
「あなたはまず、自分の土魔法をきちんと学んでください」
教室のあちこちから笑い声が上がった。
ノーゼスも笑っている。
クロードも少し笑いながら、教本へ目を落とした。
魔術操作という言葉を一つ知った。
けれど、それだけで魔法について分かったわけではない。
むしろ今まで当たり前にやっていたことの中に、知らないことがいくつもあると分かった。
◇
魔法基礎が終わっても、その日の授業は続いた。
昼を挟み、残りの授業でも教本を開き、先生の話を聞いた。誰かが手を挙げれば授業が止まり、答えを間違えれば別の生徒が考え、そうしているうちに朝から始まった一日は少しずつ進んでいった。
算術のように、すでに知っていることもあった。
初めて知ることもあった。
魔術操作のように、やっていたのに名前を知らなかったこともあった。
最後の鐘が鳴る頃には少し疲れていたが、魔法基礎で書いた文字はずっと頭に残っていた。
魔術操作。
クロードは教本を鞄へしまいながら、今日の授業をもう一度思い返す。
雷を使うことはできる。
父上と訓練もしてきた。
けれど、自分がやっていたことについて知らないことはまだある。
印についてもそうだった。
そして、棒に雷を留められなかった理由もまだ分からない。
知ったことで、気になることが増えていた。
そこで昨日の日記に書いた一行を思い出す。
『参考書を探してみる。』
クロードは鞄を閉じた。
今日は図書館へ行こう。




