静かな部屋
誰かが自分の名前を呼んでいる。
「クロード」
遠くから聞こえていた声が、少しずつ近くなる。
「クロード、聞こえるか」
クロードはゆっくりと目を開けた。
ぼやけていた視界に、父上の顔が映る。
「……父上?」
「ああ」
ガルディオの声を聞きながら、クロードは何度か瞬きをした。
身体が重い。
どうしてここにいるのか分からず辺りを見ようとして、その途中で意識を失う直前の光景が戻ってきた。
「アルト兄様!」
クロードは身体を起こした。
「アルト兄様は!?」
「クロード」
「黒い人が……アルト兄様を連れて……!」
「分かっている」
「追いかけないと!」
立ち上がろうとしたが、身体に力が入らない。
ガルディオが肩を支えた。
「もう探している」
「でも……!」
「お前は休め」
クロードは唇を噛んだ。
最後に見たアルト兄様の姿が頭から離れない。
黒い人影に担がれ、遠ざかっていく。
追いかけようとした。
手を伸ばした。
それなのに身体は動かなかった。
「……僕、見ました」
クロードはガルディオを見る。
「何を見た」
「アルト兄様を連れていった人です。黒い服で……顔は、よく見えませんでした」
「他には?」
クロードは記憶を辿った。
「ペンダント……」
「ペンダント?」
「アルト兄様が持ってました。町の工房で買ったって」
ガルディオは黙って聞いている。
「変わった印があって……アルト兄様が闇魔法を使ったら光ったんです」
「闇魔法を?」
「はい。最初はちゃんと使えてました。的が見えなくなって……アルト兄様も喜んでて……」
そこまで話して、クロードは俯いた。
「でも、そのあと止まらなくなって……」
声が小さくなる。
「あのペンダントも、ずっと光ってました」
「そうか」
「僕……父上を呼ぼうとしたんです」
クロードは自分の手を見る。
「アルト兄様を助けようとしたんです。でも……」
指を握る。
「何もできなかった」
ガルディオはしばらく何も言わなかった。
「クロード」
低い声に、クロードが顔を上げる。
「お前は休め」
「でも、アルト兄様が……」
「俺たちが探す」
ガルディオはそれだけ言った。
クロードは俯いたまま、何も答えられなかった。
◇
屋敷から人の出入りが絶えなくなった。
アルト兄様を探しに出ていた者が戻り、また別の者が出ていく。
何か分かったのかとクロードが尋ねても、アルト兄様が見つかったという知らせはなかった。
その日も、ガルディオは戻ってきた者から話を聞いていた。
クロードは少し離れたところから、その様子を見ていた。
「旦那様」
声をかけたのはジルドだった。
ガルディオが振り返る。
「どうした」
「屋敷の者を確認したところ、一人、所在の分からない者がおります」
「誰だ」
「メイドのミスパです」
ガルディオの表情が変わった。
「いつからだ」
「アルト様がいなくなられた頃から、姿を確認できておりません」
「部屋は?」
「確認しております」
「何か残っていたか」
「今のところ、手掛かりになるものは」
ガルディオは少し黙った。
「調べろ」
「かしこまりました」
ジルドが一礼して離れていく。
クロードはその名前を頭の中で繰り返した。
ミスパ。
屋敷にいたメイドが、アルト兄様と同じ頃からいなくなっている。
それが何を意味するのかは分からなかった。
ただ、アルト兄様がいなくなった日のことには、まだ自分の知らないことがある。
クロードはそう感じていた。
◇
それから何日経っても、アルト兄様は帰ってこなかった。
食事の時間になると、家族はいつものように席につく。
けれど、そこには誰も座らない椅子があった。
クロードは何度もその席を見てしまう。
いつもならアルト兄様がいる場所だった。
向かいでは、セレナもその椅子を見ていた。
食事にはほとんど手をつけていない。
「セレナ」
ガルディオが声をかける。
「……大丈夫です」
そう答えたものの、セレナの手は止まったままだった。
しばらくして、セレナは静かに席を立った。
「ごめんなさい。少し……」
それだけ言って、部屋を出ていく。
クロードは何も言えず、その背中を見送った。
アルト兄様がいなくなってから、屋敷の中は以前より静かになった気がした。
剣の稽古をしていても、隣から声は聞こえない。
廊下を歩いていても、アルト兄様とすれ違うことはない。
何かを見つけても、それを見せに行く相手が一人いない。
クロードは何度も、アルト兄様がいないことを思い知らされた。
ある日、クロードが廊下を歩いていると、少し先にセレナの姿が見えた。
アルト兄様の部屋の前だった。
セレナは扉に手をかけたまま、しばらく動かなかった。
やがて扉を開け、中へ入っていく。
クロードはその場で足を止めた。
声をかけようか迷った。
少しして、開いたままの扉の向こうにセレナの姿が見えた。
部屋の中は、アルト兄様がいたときのままだった。
セレナはベッドのそばに座り、そこに置かれていたものへ手を伸ばした。
クロードのいる場所からは、何を手にしたのか分からない。
ただ、その手が途中で止まった。
「……アルト」
小さな声だった。
クロードは動けなかった。
セレナはしばらく俯いていた。
やがて肩がわずかに震えた。
クロードはその姿を見て、そっとその場を離れた。
自分の部屋へ戻ると、机の上にノートがあった。
クロードは椅子に座り、ページを開く。
これまで調べてきたことが書かれている。
魔力のこと。
雷のこと。
何度も失敗して、少しずつ分かることが増えてきた。
けれど、アルト兄様のことは何も分からない。
どこにいるのか。
連れていった人は誰なのか。
あのペンダントは何だったのか。
ミスパというメイドがいなくなったことと関係があるのか。
答えは一つもなかった。
クロードはペンを持った。
『アルト兄様がいなくなった。』
その下へ、覚えていることを書いていく。
『黒い服の人。』
『顔はよく見えなかった。』
『ペンダントに変わった印があった。』
『闇魔法を使うと光った。』
『魔法が止まらなくなったあとも光っていた。』
『ミスパというメイドもいなくなった。』
一つずつ書いた。
書いたからといって、何かが分かったわけではない。
それでも、忘れたくなかった。
クロードはしばらくページを見つめる。
そして最後に、一つだけ書き加えた。
『アルト兄様を探す。』
ペンを置いた。
今はまだ、どこを探せばいいのかも分からない。
それでも、あの日届かなかった手を、そのままにしておくことはできなかった。
アルト兄様がいないまま、時間だけが過ぎていった。
それから、月日は流れ――
幼少期編終了




