新しい家族
第2話 新しい家族
クロード・アインハルトとして生まれて、最初に思い知ったことがある。
赤ん坊というものは、とにかく不自由だった。
手を動かそうとしても思った場所へ伸びない。首はまともに支えられず、視界も最初のうちはぼんやりとしている。何か伝えようとして口を開けば、出てくるのは言葉ではなく泣き声だった。
前世では何十年も使ってきた身体が自分の意思通りに動くことなど当たり前だった。それが今は寝返り一つにも苦労する。
転生という言葉から漠然と想像していたものとは、ずいぶん違った。
もっとこう、目を覚ましたらある程度成長していて、すぐに異世界を歩き回れるものだと思っていたのだ。
現実は甘くない。
まずは首が据わるところからだった。
もっとも、そのおかげで分かったこともある。
自分が生まれたアインハルト家は、どうやらそれなりの家らしい。
天井は高く、部屋には前世では見たことのない意匠の家具が置かれている。身の回りの世話をする使用人もいて、母親の服装を見ても少なくとも貧しい家庭ではない。
そして何より、自分の名前には家名があった。
アインハルト。
イリシアから転生先の細かな事情までは聞いていなかったため、最初はそれ以上のことは分からなかった。
言葉もそうだ。
不思議なことに、周囲で交わされる言葉は理解できた。
転生の影響なのか、それとも別の理由があるのか。考えても答えは出ない。
分からないなら、とりあえず観察する。
クロードはそうすることにした。
「クロード。今日はご機嫌ね」
自分を抱き上げた女性を見上げる。
母、エリス・アインハルト。
艶のある黒髪と穏やかな目をした女性だった。
クロード自身の頭にも、母とよく似た黒い髪が生えている。
屋敷で見かける者たちの中に黒髪はほとんどいない。どうやらこの辺りでは珍しい色らしいということくらいは、赤ん坊のクロードにもなんとなく分かってきた。
母親譲りか。
そう考えると、自分の髪も少し気になった。
もっとも、鏡を自由に覗くことすらできない今は確かめようもない。
「どうしたの? そんなに見つめて」
エリスが微笑む。
「あぅ」
「ふふ、何か言いたいの?」
言いたいことはいくらでもある。
ここはどこなのか。
ラクレシアとはどんな国なのか。
この家は何をしているのか。
魔法はどうやって使うのか。
イリシアから聞いたGiftというものを、この世界の人間はどれくらい知っているのか。
質問だけなら一日中できそうだった。
しかし今の口から出てくるのは「あぅ」か泣き声くらいである。
クロードは諦めてエリスの服を掴んだ。
「はい、ここにいますよ」
優しい声とともに身体を抱き直される。
前世の記憶があるせいで、最初の頃はこうして赤ん坊として扱われることに妙な気恥ずかしさがあった。
だが今では、それも随分薄れている。
この身体では一人でできることなどほとんどない。
腹が減っても自分で食事はできないし、暑くても服を脱げない。眠る場所さえ誰かに用意してもらわなければならない。
頼れる相手がいるなら頼るしかない。
それに。
エリスに抱かれていると、不思議と安心した。
理由まで考える必要はないのかもしれない。
今の自分にとって、この人は母親なのだから。
「クロード」
低い声が聞こえた。
エリスが振り返る。
少し離れたところに、一人の男が立っていた。
ガルディオ・アインハルト。
クロードの父親だ。
大柄な身体に鍛えられた腕。表情は硬く、口数も多くない。
初めて見たときは、随分と怖そうな父親だと思った。
だが最近、一つ気づいたことがある。
「あなた」
「ああ」
「クロード、起きていますよ」
「……そうか」
ガルディオがこちらを見る。
クロードも見返した。
「…………」
「…………」
無言の時間が続く。
何なんだ、この時間は。
クロードがそう思っていると、エリスがくすりと笑った。
「抱いてみます?」
「いや」
「どうして?」
「俺が抱く必要はないだろう」
「昨日もそう言っていましたよ」
「…………」
ガルディオの視線がわずかに逸れる。
クロードは気づいた。
もしかして。
怖いのか?
これだけ大きな男が、赤ん坊を抱くのを怖がっている。
「あぅ」
試しに手を伸ばしてみる。
もちろん狙った場所には届かない。
それでもガルディオの視線がこちらへ戻った。
「ほら。クロードもお父様に抱いてほしいみたいですよ」
「……そうなのか?」
いや、そこまでは言ってない。
当然、声にはならない。
結局エリスに押し切られ、ガルディオがクロードを抱くことになった。
ぎこちない。
明らかにぎこちない。
剣でも握るように腕へ力が入っている。
「あなた、もう少し優しく」
「分かっている」
「首を支えてください」
「支えている」
「力を入れすぎです」
「……難しいな」
真剣な顔で呟く父を見て、クロードは思った。
悪い人ではなさそうだ。
◇
時間が経つにつれて、家のことも少しずつ分かってきた。
アインハルト家はラクレシア王国に仕える男爵家。
父ガルディオがその当主であり、三人の妻がいる。
クロードの母エリスは第三夫人だった。
最初に知ったときは驚いた。
前世の日本では考えられなかった家族の形だ。
だが周囲の人間は誰も不思議に思っていない。
ならば、この世界では少なくとも珍しいことではないのだろう。
前世の常識をそのまま当てはめても仕方がない。
なぜそういう制度になっているのかは、もっと大きくなってから調べればいい。
そしてクロードには、母親の違う兄たちがいた。
まだ自分から会いに行けるわけではないので、顔を合わせる機会はそれほど多くない。
そんな中、一人だけ比較的よくクロードのところへやって来る兄がいた。
「エリス様、入ってもいいですか?」
扉の向こうから少年の声がする。
「ええ。どうぞ」
扉が開き、一人の少年が顔を覗かせた。
アルト・アインハルト。
ガルディオの第二夫人セレナの息子で、クロードにとって三番目の兄にあたる。
「起きてます?」
「ええ。ちょうど今起きたところですよ」
アルトが寝台へ近づいてくる。
そしてクロードを覗き込んだ。
「…………」
クロードも見返す。
「…………」
またか。
父親といい、この家の男は赤ん坊を見ると黙る決まりでもあるのか。
「アルト?」
「いや……」
アルトが少し困ったような顔をする。
「何を話せばいいのかなって」
「普通に話しかけてあげればいいんですよ」
「でも、まだ分からないでしょう?」
分かるぞ。
少なくとも言葉は。
もちろん伝えられない。
「それでもいいんです」
エリスに促され、アルトはもう一度クロードを見る。
「……俺はアルト」
知ってる。
何度か名前を聞いている。
「お前の兄だ」
それもだいたい分かってる。
「…………」
そこで会話が止まった。
エリスが口元を押さえている。
笑ってるな。
クロードにも分かった。
アルトは少し考え込んだあと、クロードの頭を見た。
「エリス様と同じ髪ですね」
「ええ」
「黒い髪って、やっぱり珍しいな」
やっぱり珍しいのか。
クロードは頭の中で一つ情報を追加した。
こういう何気ない会話も今は貴重だった。
自分から質問できない以上、周囲の会話から情報を拾うしかない。
「触ってもいいですか?」
「もちろん」
アルトが恐る恐る手を伸ばしてくる。
その指がクロードの頬に触れた。
「柔らかい」
そりゃ赤ん坊だからな。
「手も小さい」
クロードは目の前にあるアルトの指を見た。
掴めそうだ。
手を伸ばす。
狙いをつけたつもりだったが少しずれた。
もう一度。
今度は指先に触れる。
そのまま握った。
「あ」
アルトの表情が変わった。
「握った」
「気に入られたみたいですね」
「俺のこと分かってるのかな」
さて。
そこまでは分からない。
ただ、少なくとも嫌いではない。
クロードが指を握ったままでいると、アルトは嬉しそうに笑った。
その顔はガルディオよりずっと分かりやすかった。
「早く大きくなれよ」
アルトが言う。
「そうしたら色々教えてやるから」
色々。
それはありがたい。
特に魔法について教えてほしい。
クロードは返事の代わりに指へ少し力を込めた。
「今、強く握った」
「返事をしたのかもしれませんね」
「本当に?」
エリスが楽しそうに笑っている。
クロードは二人を眺めた。
家族。
前世にも家族はいた。
それでも一度人生を終えた自分にとって、新しい家族というものは不思議な存在だった。
この人たちは黒木光哲を知らない。
製鉄所で働いていたことも、どんな人生を送ってきたのかも知らない。
彼らにとって自分は、最初からクロード・アインハルトなのだ。
なら、今度の人生ではこの人たちと生きていくことになる。
まだ知らないことばかりだ。
父のことも。
母のことも。
兄たちのことも。
この家のことも。
それでも、今のところ悪くない。
クロードはアルトの指を握ったまま、ゆっくりと目を閉じた。
◇
生後数か月も経つと、視界もかなりはっきりしてきた。
身体も少しずつ動くようになる。
すると今度は、この世界そのものが気になり始めた。
窓の外には前世とそれほど変わらない青空が広がっている。
庭には草木があり、鳥も飛んでいる。
少なくとも何もかもが未知というわけではない。
木は木だ。
石は石。
水もある。
火もある。
だが、決定的に違うものも存在するはずだった。
イリシアから聞いた、この世界に存在するという魔法。
生まれてから今日まで、クロードはまだそれらしいものを自分の目ではっきり見ていなかった。
本当にあるんだよな。
神を名乗る相手を今さら疑っているわけではない。
ただ、実際に見てみたかった。
そんなことを考えていた日のことだった。
クロードはエリスに抱かれ、屋敷の廊下を移動していた。
前方からガルディオが歩いてくる。
腰には剣を提げていた。
「あなた、お出かけですか?」
「ああ。少し訓練場へ行く」
「今日はお休みでは?」
「身体を鈍らせたくない」
「相変わらずですね」
エリスが苦笑する。
そのとき、廊下の窓から吹き込んだ風が壁際の燭台を揺らした。
小さな炎が消える。
ガルディオが足を止めた。
何気なく片手を上げる。
その指が動いた。
奇妙な形を作り、次の形へ移る。
何をしている?
クロードが目を凝らした直後だった。
ガルディオの指先に小さな火が灯った。
「――!」
クロードの目が見開かれる。
ガルディオはその火で燭台へ再び火を灯すと、何事もなかったように手を下ろした。
指先の火が消える。
クロードは固まっていた。
今のは何だ。
火種は?
どこから着火した?
いや、その前に。
さっきの指の動き。
あれには意味がある。
「どうしたの、クロード?」
エリスが顔を覗き込む。
クロードは答えない。
答えられないという方が正しいが、それどころではなかった。
視線はガルディオの手へ釘付けになっている。
イリシアの言葉を思い出す。
魔法。
本当にあった。
知識として聞くのと、目の前で見るのではまるで違う。
何もないところから火が生まれたように見えた。
だが、本当に何もなかったのか。
燃焼なら何が燃えている?
熱はどこから生まれた?
魔力というものがエネルギーになるのか。
それとも魔力が周囲へ作用して現象を起こしている?
そもそも魔力とは何だ。
そして、さっきの指の動き。
あれは何のために必要なんだ?
疑問が一つ浮かぶたび、そこから新しい疑問が生まれてくる。
「あなた」
エリスが笑う。
「クロード、あなたの魔法が気になるみたいですよ」
「そうなのか?」
ガルディオがこちらを見る。
クロードも見返す。
もう一度。
もう一回やってくれ。
そんな思いを込めて見つめる。
「…………」
ガルディオが再び片手を上げた。
指が動く。
今度は見逃さない。
最初の形。
次の形。
指を動かす順序。
そして。
ぽっ、と小さな火が生まれた。
「あー!」
思わず声が出た。
エリスが楽しそうに笑う。
「やっぱり好きみたいですね」
「……そうか」
ガルディオの口元がほんの少しだけ緩んだ。
クロードはそんな両親の反応にも気づかず、火だけを見ていた。
もっと見たい。
どうやっている。
なぜ火が出る。
あの指の動きには、どんな意味がある。
知りたい。
自分にもできるのだろうか。
できるのなら、どうすればいい。
まだ自分で立つことさえできない赤ん坊の頭の中を、次々と疑問が駆け巡っていた。
イリシアは詳しいことを教えてくれなかった。
実際にその世界で学べ、と。
あのときは少しくらい教えてくれてもいいのにと思ったが、今ならほんの少しだけ分かる気がする。
最初から答えを聞いていたら、この火を見た瞬間にこれほど胸が躍っただろうか。
知らない。
だから知りたい。
クロードは父の指先に灯る小さな炎を、飽きることなく見つめ続けた。
このときのクロードは知らなかった。
自分を抱いている母もまた、かつて別の世界で人生を送り、この世界へ生まれ直した人間であることを。
そしてエリスもまた知らなかった。
腕の中で目を輝かせている息子が、自分と同じ秘密を抱えていることを。
二人の転生者は互いの過去を知らないまま、今はただ母と子として同じ時間を過ごしていた。
その秘密に気づくのは、まだずっと先のことだ。
今のクロードにとって大切なのは、目の前にある小さな炎だった。
知らない。
だから知りたい。
やっぱり、この世界は面白そうだ。




