終わったと思いきや
鉄が焼ける匂いには、もう慣れていた。
耳を塞ぎたくなるような機械音も、肌を刺す熱気も、足元から伝わる重い振動も、黒木光哲にとっては日常の一部だった。
製鉄所で働き始めてから、もう随分と長い。
新人だった頃は工場へ入るたび、その巨大さに圧倒されたものだ。人間など簡単に飲み込んでしまいそうな設備が並び、赤く焼けた鋼材が流れ、いくつもの工程を経て形を変えていく。
鉄鉱石から鉄を取り出し、不純物を除き、成分を調整し、目的に応じた性質を与える。
同じ鉄でも、何を混ぜ、どう熱し、どう冷やすかで性質は大きく変わる。
知れば知るほど奥が深い。
主任になった今でも、それだけは変わらなかった。
「黒木主任、ちょっといいですか」
声をかけられて振り返ると、若い作業員が端末を手に立っていた。
「どうした?」
「ここの数値なんですけど、さっきから少し上がってるんです。基準内ではあるんですけど……」
「見せて」
端末を受け取り、表示された記録へ目を通す。
確かに異常と判断される値ではない。
だが、光哲は眉を寄せた。
「いつから?」
「十分くらい前です」
「前の工程は?」
「そっちは問題ないです」
「他に変わったことは?」
「特には……」
「音は?」
「音?」
「いつもと違う音しなかった?」
若い作業員が少し考える。
「あ……そう言われると、一回だけ変な音がしたような」
「どの辺?」
「あっちです」
指差された先を見る。
光哲は端末を返し、設備へ近づいた。
長く現場にいると、数字だけでは説明できない違和感に気づくことがある。
音、振動、温度、匂い。昨日までと同じように動いているように見えても、何かが違う。
機械が勝手に機嫌を悪くすることなどない。
いつもと違う結果が出たなら、必ずどこかに理由がある。
「念のため止めよう」
「え? でも、まだ基準値は――」
「基準内だから安全とは限らないだろ。原因が分からないなら確認した方がいい」
「あ……はい」
「周りにも声かけて。確認が終わるまで近づかせないように」
「分かりました」
若い作業員が走っていく。
光哲は設備を見上げた。
何だ?
いつもと違う。
目を凝らしていると、かすかな異音が耳に届いた。
金属が擦れるような音だった。
「……まずいな」
そう呟いた直後、甲高い音が工場内に響き渡った。
振動が一気に大きくなる。
「全員離れろ!」
光哲が叫ぶ。
周囲にいた作業員たちが設備から距離を取る。
光哲も下がろうとした。
そのときだった。
「主任!」
振り向く。
さっきの若い作業員がいた。
異常を起こした設備のすぐそばに。
「何やってる! 離れろ!」
叫ぶ。
だが轟音に掻き消されたのか、動かない。
いや、動けないのだ。
突然の事態に身体が固まっている。
「くそっ!」
考えるより先に走っていた。
若い作業員へ駆け寄り、その肩を掴む。
「主任――」
「走れ!」
力いっぱい押した。
若い身体が前へ倒れ込む。
同時に、背後から耳をつんざくような音がした。
何かが壊れる。
何かが飛ぶ。
次の瞬間、強烈な衝撃が光哲の身体を襲った。
視界が回転する。
身体が床へ叩きつけられた。
「――っ」
息ができない。
何が起きた。
身体を起こそうとする。
動かなかった。
耳鳴りの向こうで誰かが叫んでいる。
「主任!」
さっきの作業員だった。
無事らしい。
よかった。
そう思った。
不思議と、それが最初に浮かんだ。
視界が少しずつ暗くなっていく。
痛みはあるはずなのに、だんだん遠ざかっていった。
「主任! 黒木主任!」
そんなに叫ばなくても聞こえている。
そう言おうとしたが、声が出ない。
光哲はぼんやりと天井を見上げた。
巨大な工場。
何年も見てきた景色。
まさか最後に見るものまでこれとは。
もう少し綺麗なものがよかったな。
そんなくだらないことを思う。
やがて音も遠ざかる。
光も消えていく。
最後にもう一度、若い作業員の声が聞こえた。
生きている。
それならいい。
そこで黒木光哲の意識は途切れた。
◇
「――起きてください」
声が聞こえた。
女の声だった。
「……ん」
「起きてください」
もう一度。
光哲はゆっくり目を開けた。
最初に見えたのは、白だった。
天井ではない。壁もない。床すらどこまで続いているのか分からない。
ただ白い空間が、どこまでも広がっている。
「…………病院?」
「違います」
即答された。
光哲は身体を起こす。
動く。
痛みもない。
自分の胸や腹を触ってみるが、怪我をした感覚もなかった。
「ここは?」
「少し説明が難しい場所ですね」
声の方を見る。
一人の女性が立っていた。
長い髪に、白を基調とした衣服。年齢は若く見えるが、不思議と少女には見えない。
何より、普通の人間とは明らかに違う雰囲気があった。
光哲はしばらく女性を見たあと、自分の身体をもう一度確認した。
「俺、死にました?」
女性が少し驚いた顔をする。
「……随分あっさり聞くのですね」
「いや、最後の記憶があれなんで」
設備の異常。
後輩を押し出した。
衝撃。
そこから先がない。
それで目覚めた場所が、こんな訳の分からない白い空間だ。
病院よりは、死後の世界と考えた方がまだ納得できる。
「はい」
女性は静かに答えた。
「黒木光哲。あなたの人生は終わりました」
「……そうですか」
言われてみると、妙な感覚だった。
もっと取り乱すと思っていた。
死にたかったわけではない。やりたいことだって、まだあった。
それでも最初に確かめたかったことは一つだった。
「俺が押した奴は?」
「生きています」
すぐに答えが返ってきた。
光哲は息を吐いた。
「なら、まあ……」
「それで納得できるのですか?」
「納得はしてませんよ」
光哲は苦笑した。
「死ななくて済むなら、そっちの方がよかったです」
「それはそうでしょうね」
「でも、あいつまで死んだって言われるよりはいい」
女性は何も言わず、しばらく光哲を見つめていた。
「ところで」
光哲は周囲を見回す。
「あなたは?」
「申し遅れました」
女性がわずかに姿勢を正す。
「私はイリシア。この世界とは異なる世界を管理する神の一柱です」
「…………神?」
「はい」
「本当に?」
「疑いますか?」
「普通は疑うと思いますけど」
イリシアと名乗った女性は少し困ったように笑った。
その反応だけを見ると、とても神には見えない。
だが死んだはずの自分がここにいる時点で、常識にこだわる意味もなさそうだった。
「それで、神様が俺に何の用です?」
「あなたには、別の世界でもう一度生きてもらいます」
光哲は黙った。
「……もう一度?」
「はい」
「生まれ変わるってことですか?」
「あなたの言葉で表すなら、転生が最も近いでしょう」
さすがに理解が追いつかなかった。
死んだ。
神に会った。
別世界へ転生する。
突然、話の規模が大きくなりすぎている。
「断ったら?」
「その場合は、本来の魂の循環へ戻っていただきます」
「選べるんですね」
「無理強いするものではありませんから」
光哲は少し考えた。
元の世界へ戻れるわけではない。
それなら。
「どんな世界なんです?」
イリシアの表情が少し柔らかくなった。
「あなたがいた世界とは、かなり違います。魔法と呼ばれる力が存在し、人間以外の種族も暮らしています」
「魔法……」
その単語だけで、一気に現実味がなくなった。
「本当にあるんですか?」
「あります」
「どういう原理で?」
「…………」
イリシアが黙った。
「何です?」
「転生するかどうかより先に、そこが気になるのですね」
「気になりません?」
「普通は自分の次の人生について聞くと思います」
「それも気になりますけど」
魔法が存在する。
なら、どういう仕組みなのか。
何をエネルギー源として、どう現象を発生させるのか。
聞いた以上、気になってしまう。
イリシアは小さく息を吐いた。
「詳しいことは、実際にその世界で学んでください」
「教えてくれないんですか」
「すべて教えてしまっては、生きる意味がありませんから」
「なるほど」
それなら仕方ない。
光哲はあっさり引き下がった。
どうせ行けば分かる。
その考えが顔に出ていたのだろう。
イリシアが微妙な表情をしていた。
「転生する者には、一つだけ特別な力を与えることになっています」
「特別な力?」
「《Gift》と呼ばれるものです」
イリシアが説明する。
魔法とは異なる、生まれ持った特殊な能力。
その世界にもGiftを持って生まれる者はいるらしい。
「希望はありますか?」
「何でもいいんですか?」
「限度はあります」
「ですよね」
世界を滅ぼせる力をくれと言って通るなら、管理する神としてどうなのかと思う。
光哲は考えた。
剣。
魔法。
未来予知。
瞬間移動。
いくらでも思いつく。
だが、せっかくもう一度生きるのなら。
最後まで自分が関わっていたものが浮かんだ。
「鉱物」
「はい?」
「鉱物を作れる能力ってできます?」
イリシアが瞬きをした。
「鉱物……ですか?」
「鉄とか銅とか。そういうのを自分で作れたら面白そうだなって」
「もっと強力な能力でも構いませんよ?」
「強力じゃないですか?」
「……使い方によると思います」
「なら、それで」
迷いはなかった。
剣を極めたいわけでもない。
王になりたいわけでもない。
世界最強になりたいわけでもない。
知らない世界で、知らない物質に出会う。
それを調べる。
理解する。
もし自分の手で作れるなら、きっと面白い。
「分かりました」
イリシアが手を差し出した。
淡い光が生まれる。
「あなたへGift――《鉱物生成》を与えます」
光が光哲の身体へ吸い込まれた。
熱くはない。
ただ何かが自分の中へ入ってきたような、不思議な感覚だけが残る。
「ただし、この力には条件があります」
「条件?」
「あなたが理解していない鉱物は生成できません」
光哲の目がわずかに細くなった。
「理解って、どの程度?」
「組成、構造、性質など。対象について十分な理解が必要になります」
「なるほど……」
少し考える。
そして。
「面白いですね」
イリシアが目を丸くした。
「不便だとは思わないのですか?」
「何でも最初から作れたら、調べる必要ないじゃないですか」
「…………」
「知らないものを見つけて、調べて、理解したら作れるようになるんですよね?」
「そうなります」
「なら十分です」
光哲は笑った。
「そっちの方が面白そうだ」
イリシアはしばらく何も言わなかった。
やがて、どこか呆れたように微笑む。
「あなたは向こうでも、あまり変わらないかもしれませんね」
「そうですか?」
「ええ」
そしてイリシアがもう一度手を上げる。
「転生先では、あなたは赤子から人生を始めます。前世の記憶は保持されますが、身体はその年齢相応です」
「分かりました」
「そして、もう一つ」
今度は声が少し真剣になった。
「あなたは転生者です。本来その世界では成立しない例外が、あなたには起こる可能性があります」
「例外?」
「通常、魔法を持つ者とGiftを持つ者は分かれています」
「両方は持てない?」
「原則として」
光哲は自分へ与えられた《鉱物生成》を思い出す。
「じゃあ俺は?」
「転生者であるあなたには、その原則が完全には適用されません」
「つまり、魔法も使える可能性がある」
「はい」
イリシアは頷いた。
「もしそうなった場合――隠すことを勧めます」
「どうして?」
「存在しないはずのものは、それだけで人を惹きつけます」
研究対象。
政治利用。
宗教。
軍事。
いくつもの可能性が頭に浮かんだ。
「……面倒そうですね」
「非常に」
「分かりました。黙っておきます」
「ずいぶん素直ですね」
「面倒事は嫌いなんで」
その言葉に、イリシアがなぜか少し疑わしそうな目を向けた。
「何です?」
「いえ」
光哲には理由が分からなかった。
イリシアが手を伸ばす。
白かった世界に、淡い光が満ち始めた。
「では、黒木光哲。あなたの次の人生が、良きものであることを願っています」
「ありがとうございます」
身体が光に包まれていく。
意識が遠ざかる。
恐怖はなかった。
むしろ少しだけ、楽しみだった。
知らない世界。
魔法。
知らない種族。
知らない鉱物。
何があるのだろう。
何を知ることができるのだろう。
そして最後に、光哲は一つだけ思った。
今度はもう少し長く生きられるといい。
◇
暖かい。
最初に感じたのは、それだった。
次に声。
「――生まれました!」
知らない女性の声が聞こえる。
身体が重い。
いや、小さい。
目を開けようとしても、視界がぼやけている。
身体を動かそうとしても、思うように動かない。
どうやら本当に赤子らしい。
「男の子ですよ」
誰かに抱き上げられる。
そして別の、弱々しい女性の声が聞こえた。
「……よかった」
その声を聞いた瞬間、不思議と安心した。
顔はまだよく見えない。
それでも、自分を抱く腕が優しいことだけは分かった。
「あなた……」
「ああ」
今度は男の声。
低く、落ち着いた声だった。
「名前は決めていた通りでいいな」
「ええ」
女性が自分を抱き直す。
そして、初めてこの世界で自分を呼ぶ声を聞いた。
「クロード」
黒木光哲ではない。
「クロード・アインハルト」
その名前が、これから自分のものになる。
まだ何も知らない。
ここがどんな国なのか。
どんな人々が暮らしているのか。
魔法とは何なのか。
《鉱物生成》で何ができるのか。
この家族がどんな人たちなのかさえ知らない。
知らないことばかりだった。
だからこそ、これから知ればいい。
こうして黒木光哲の人生は終わり――クロード・アインハルトの人生が始まった。




