5歳の誕生日
目を覚ますと、いつもと同じ天井があった。
クロードはしばらくそれを眺めてから、布団の中で両手を開いた。
右手も左手も昨日までと変わらない。
指を一本ずつ曲げてみても、何か特別な感覚が増えたわけではなかった。
「……五歳」
今日で五歳になった。
この世界に生まれてから、もう五年が経ったことになる。
赤ん坊だった頃のことは、今ではかなり曖昧だった。
目を開けたときの光や、大きな腕に抱かれていた感覚が断片的に浮かぶことはある。けれど、歩き始めた頃からの記憶と比べれば、どれも輪郭がぼやけている。
それでも五年の間に、ずいぶん色々なことを知った。
家族のこと。文字のこと。この国のこと。
魔法のこと。
石のこと。
そして、知れば知るほど分からないことが増えていくことも知った。
五歳は、この世界では大きな節目になる。
五歳になった子供は《啓示》を受ける。
そこで魔法があると分かる者もいれば、Giftがあると分かる者もいる。どちらも示されない《持たざる者》もいる。
ただし、今日すぐに《啓示》を受けるわけではない。
この辺りでは、その月に五歳になった子供たちが月の終わりに教会へ集まり、まとめて《啓示》を受けることになっている。
自分に何があるのか分かるのは、もう少し先だ。
「おにいちゃん!」
扉の向こうから声がした。
続いて小さな足音が近づき、開いた扉からイリアが顔を出す。
「ごさい!」
「うん。五歳」
「おにいちゃん、ごさい!」
何がそんなに嬉しいのか、イリアは満面の笑みでもう一度言った。
その後ろからエリスが姿を見せる。
「おはよう、クロード。お誕生日おめでとう」
「ありがとう、母さま」
「みんな待っているわ。着替えたらいらっしゃい」
「うん」
エリスに連れられていくイリアを見送り、クロードは寝台から降りた。
五歳になって最初にすることは、いつもと同じ着替えだった。
そんなことが少しおかしくて、クロードは一人で笑った。
着替えを済ませて食堂へ向かうと、いつもより多くの声が聞こえてきた。
扉を開けば、すでに家族が揃っている。
父のガルディオと母のエリスだけではない。
第一夫人のクラリッサと、その息子であるブラインとザナン。第二夫人のセレナと、その息子であるアルトもいる。
ブラインとザナンは十歳から王都の王立学校へ通っているため、普段は屋敷にはいない。今日はクロードの五歳の誕生日に合わせて、二人とも王都から帰ってきていた。
家族全員で一つの食卓を囲むのは久しぶりだった。
「クロード、誕生日おめでとう」
クラリッサが微笑む。
「ありがとうございます、クラリッサ様」
「もう五歳なのね。大きくなったわ」
「まだ小さいけどな」
と横からザナンが口を挟む。
「お前と比べれば誰でも小さく見えるだろ」
ブラインが返した。
「兄上だって大きいじゃないか」
「二人とも大きいよ」
クロードが答えると、セレナが笑った。
その横でイリアが椅子の上から身を乗り出す。
「おにいちゃん、ごさい!」
「三回目だよ」
「ごさい!」
どうやら今日は何度でも言うつもりらしい。
食卓には普段より少し豪華な料理が並んでいた。
食事が始まってしばらくすると、ブラインがクロードを見る。
「五歳か。お前が生まれた日のこと、覚えてるぞ」
「ぼくは覚えてない」
「そりゃそうだろ」
「少しは覚えてる気もする」
ブラインが眉を上げた。
「本当か?」
「父さまに抱かれてたような気がする。でも、はっきりしない」
それが本当に残っている記憶なのか、あとから聞いた話と混ざっているのか、クロード自身にも分からない。
「ぼく、よく泣いてた?」
「普通じゃないか?」
「なんで泣いてたか分かった?」
「そこまでは知らん」
クロードはエリスを見る。
「母さまは?」
「私だって全部分かっていたわけじゃないわよ」
エリスは笑った。
「イリアのときにも言ったでしょう?」
「うん」
赤ん坊は言葉で伝えられないから泣く。
けれど、その理由を周囲が必ず分かるわけではない。
自分もそうだったはずなのに、今のクロードにはその頃なぜ泣いていたのか思い出せなかった。
「あなた、赤ちゃんの頃のクロードを抱くときは、あんなに固まっていたのにね」
エリスが言った。
ガルディオの表情がわずかに動く。
「固まってはいない」
「首を支えるだけで、ずいぶん慎重だったでしょう」
「小さかったからな」
「肩の力も入れすぎていました」
「加減が難しい」
「落とさないようにって、ずっと緊張していましたものね」
「当然だ」
クロードはガルディオを見る。
「父さま」
「なんだ」
「今なら抱いても難しくない?」
一瞬、食卓が静かになった。
ガルディオはクロードを見たあと、立ち上がる。
「来い」
クロードも椅子から降りた。
近づくと、大きな両腕が体を持ち上げる。
赤ん坊の頃とは違い、今は自分で姿勢を保てる。
それでも父の腕はやはり大きかった。
「重くなったな」
「大きくなったから」
「そうだな」
ガルディオはクロードを床へ戻した。
「もう難しくない?」
「今はな」
エリスが吹き出し、兄たちも笑った。
ガルディオだけが少し納得していないような顔をしていた。
朝食が進むにつれて、話題は自然と月末の《啓示》へ移った。
「クロードは何が出ると思う?」
ザナンに聞かれ、クロードは首を傾げる。
「分からない」
「予想くらいないのか?」
「予想しても《啓示》が変わるわけじゃないでしょ?」
「まあ、そうだけど」
自分に何があるのかは気になる。
けれど、それとは別にクロードには聞いてみたいことがあった。
家族がどんな魔法やGiftを持っているのかは、これまで何度も尋ねて知っている。
けれど、五歳でそれを知ったときのことまでは、詳しく聞いたことがなかった。
「父さまは、火魔法が使えるって分かったとき、すぐ使えた?」
「使うことはできた」
ガルディオは答えた。
「だが、上手く使えたわけではない」
「失敗した?」
「何度もな」
クロードは少し身を乗り出す。
「どんな?」
「最初は、大きな火を出せれば強いと思っていた」
「違った?」
「大きくするだけなら難しくない。必要な場所に、必要なだけ使う方が難しい」
以前、訓練場で聞いた言葉と同じだった。
力があることと、それを思い通りに扱えることは違う。
「クラリッサ様は?」
「私?」
クラリッサは少し懐かしそうに目を細めた。
「私は水属性だと分かったとき、嬉しかったわ。家に帰ったら、すぐに水を動かしてみたの」
「できた?」
「少しだけね」
クラリッサは指先で小さな輪を描いた。
「器に入った水を動かすくらいなら、思っていたより簡単にできたの。それで、自分は水魔法が得意なんだと思ってしまったわ」
「違ったの?」
「次の日に、もっとたくさん動かそうとして失敗したのよ」
クラリッサは苦笑する。
「少しできたからといって、何でもできるわけではなかったのね。どれくらいなら動かせるのか、どう動かせばいいのか。それはあとから少しずつ覚えたわ」
最初からできないこともある。
最初からできることもある。
けれど、できたからといって、その力を全部知ったことにはならないらしい。
「ブライン兄さまは?」
「俺か?」
ブラインは笑った。
「最初に風を強く出したとき、自分でひっくり返った」
「自分が?」
「ああ。前に飛ばすことしか考えてなかったからな」
「立ち方も必要?」
「必要だ。どこから力を出して、どこへ逃がすかもな」
「ザナン兄さまは?」
「俺の《一点突破》は、もっと分かりにくかったぞ」
ザナンは自分の胸を指差した。
「《啓示》で名前が分かって、なんとなく使える感覚もあった。でも、それだけだ」
「どう使うかは?」
「試した」
「失敗した?」
「当然」
ザナンは笑った。
「名前が分かっただけで全部分かるなら、苦労しない」
「アルト兄さまは?」
「俺?」
アルトは少し嫌そうな顔をした。
「お前、それ何回も聞いてるだろ」
「でも最初の頃の話はあんまり聞いてない」
「……火はまだ分かりやすかった。闇は難しかった」
「今も?」
「今もだよ」
アルトはそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「二つあるからって、二つとも上手く使えるわけじゃない。だからお前が見せろって言っても、近くではあんまり使いたくないんだ」
「父さまに止められてるから?」
「それもある」
アルトはガルディオを見る。
「人の近くで使うなら、ちゃんと止められるようになってからにしろって言われてる」
ガルディオは否定しなかった。
クロードはエリスを見る。
「母さまは?」
「私も最初から上手だったわけじゃないわよ」
エリスは答えた。
「光を出そうとしても、思ったところに集まらなかったり、すぐ消えてしまったりしたわ」
「母さまも失敗した?」
「もちろん」
「いっぱい?」
「いっぱい」
エリスは笑った。
「でも、昨日より少しできるようになったら嬉しかった。それでまたやってみる。その繰り返しだったわ」
クロードには、その感覚が少し分かる気がした。
文字を書くときもそうだった。
歩くときもそうだった。
石を調べるときだって、一度で全部分かったことなどない。
そして最後に、クロードはセレナを見る。
「セレナ様は?」
セレナは少し目を丸くしたあと、穏やかに微笑んだ。
「私は《持たざる者》よ」
それはクロードも知っていた。
「《啓示》を受けたとき、どう思った?」
セレナの笑みが少しだけ変わった。
「悲しかったわ」
「悲しかった?」
「ええ。周りの子には魔法やGiftがあって、私には何もなかったから。自分だけ何もないような気がしたの」
クロードは少し考える。
「何も出なくても?」
「ええ」
セレナは頷いた。
「私は悲しかったけれど、だからって何もしないで生きてきたわけじゃない。できることを覚えて、やれることをやってきたの」
そう言って、セレナは食卓を見渡した。
「そうして今は、こうしてみんなの隣にいるでしょう?」
クロードもつられるように周りを見る。
父も、母も、兄たちもいる。
魔法を持つ者もいれば、Giftを持つ者もいる。
その中にセレナもいる。
「みんなは魔法やGiftを持っているわ。でも、だから私は何もできないのかしら?」
「……違う」
「でしょう?」
セレナは笑った。
「《啓示》で何も出なかった。それは本当。でも、それだけで私の全部が決まったわけじゃないのよ」
クロードは少し考えた。
「じゃあ、《啓示》で分かることは、その人の全部じゃない?」
「ええ。もちろんよ」
《啓示》で何が分かるのか。
それはクロードにも、もうすぐ分かる。
けれど、そこで示されたものだけで、その人の全部が決まるわけではない。
家族の話を聞いていると、そんな当たり前のことが少しだけ分かった気がした。
「クロード」
ガルディオに呼ばれ、顔を上げる。
「《啓示》で何かしらの力があると分かっても、すぐに一人で試そうとするな」
「魔法でもGiftでも?」
「そうだ」
「使えるようになっても?」
「使えることと、安全に使えることは別だ」
その言葉には覚えがあった。
魔法を教えてほしいと頼んだときも、父は似たようなことを言っていた。
力は、使えることより制御できることの方が大事だと。
「父さまがいるところなら?」
「まずはな」
「いっぱい試してもいい?」
ガルディオが黙った。
エリスが笑いを堪えるように口元へ手を当てる。
「あなた。この子、本当にいっぱい試すつもりよ」
「分かっている」
ガルディオは小さく息を吐いた。
「失敗するなとは言わない」
クロードは父を見る。
「失敗しなければ分からんこともある。だが、取り返せる失敗にしろ」
クロードはすぐには答えなかった。
失敗したことなら、これまでにもたくさんある。
歩こうとして転んだ。
文字を書こうとして上手く書けなかった。
石を調べようとして、測るための道具すら足りなかった。
けれど、そのたびに考えて、もう一度やってきた。
もし、もう一度ができない失敗をしたら。
そこから先を知ることもできない。
「うん」
クロードは頷いた。
「父さまがいるところで使う」
「そうしろ」
「安全にいっぱい試す」
「……それならな」
今度こそエリスが笑った。
午後になると、クロードは自分の机へ戻った。
五歳の誕生日だからといって、一日中何か特別なことをしているわけではない。
机の上には、これまで集めた石と『石の記録』、それからガラス職人に作ってもらった細長い器がある。
いつもの景色だった。
クロードは一つの石を手に取った。
黒っぽく、表面が少しざらついた石。
畑でミーニャからもらったものだ。
家の近くで拾った石と比べてみたいことが、まだいくつも残っている。
「おにいちゃん」
振り向くと、イリアが机の横から顔を出していた。
「どうしたの?」
「いし」
机の上を指差している。
「石が見たい?」
「みたい」
クロードは少し迷ってから、尖った部分のない大きめの石を選んだ。
以前、イリアが石を口へ入れようとしたことがある。
あれ以来、石は床へ置かないようにしている。
「持ってもいいけど、ぼくも持ってるからね」
「うん」
クロードが片側を持ったまま、イリアにも触らせる。
イリアは嬉しそうに石を撫でた。
「くろい」
「これは黒っぽいね」
クロードは別の灰色の石を見せた。
「これは?」
「くろい」
「こっちは?」
「くろい」
「全部?」
「ぜんぶ!」
クロードは二つの石を見比べた。
自分には違って見える。
けれど、イリアには同じなのかもしれない。
畑でミーニャと石を見たときのことを思い出した。
ミーニャには同じに見えた石の違いを、自分は気にした。
代わりに彼女は、クロードには見分けられなかった作物と草を簡単に見分けた。
同じものを見ても、気づくところは人によって違うらしい。
「おにいちゃん」
「なに?」
「ごさい」
「うん」
今日何度目だろう。
イリアはにこっと笑った。
「おめでと」
クロードは少しだけ目を見開いた。
「ありがとう」
イリアは満足したように、また石を撫で始めた。
五歳になった。
けれど、昨日までの自分が消えて、今日から別の何かになったわけではない。
分からないことは相変わらず多い。
机の上の石も、魔法も、Giftも、《啓示》のことも。
自分に何があるのかも、まだ分からない。
月の終わりになれば、そのうちの一つは分かる。
けれど、それで全部が分かるわけではない。
クロードは『石の記録』を開いた。
《啓示》の日が来るまで、まだ少しある。
それまでは、今できることをして待てばいい。




