いかないで。
ミーニャの畑へ行ってから、数日が過ぎた。
帰省してから続いていた日々も終わり、明日の朝には王都へ向けて出発することになっている。
王都までは途中で一泊しながら二日かけて戻る予定だった。
学園が始まるまではまだ少し余裕があるものの、屋敷ではすでに出発の準備が進んでいた。
夕食を終えたクロードは自分の部屋へ戻り、机や棚の周りを確認していた。
持って帰るものはほとんど使用人がまとめてくれているが、ノートだけは自分で確かめておきたかった。
机の上に残っていた一冊を手に取り、鞄へ入れる。
これで忘れ物はないはずだ。
クロードが鞄を閉じようとした時、扉が小さく叩かれた。
「はい」
返事をすると、扉が少しだけ開く。
そこからイリアが顔を覗かせた。
「おにいちゃん」
「どうしたの?」
「はいっていい?」
「いいよ」
イリアは扉を開けて部屋へ入ってきた。
そのままクロードのところまで来ると、閉じかけていた鞄を見る。
「これ、もってくの?」
「うん」
「ぜんぶ?」
「必要なものはね」
「ふーん」
イリアは鞄を見たまま返事をした。
いつもなら何か気になるものを見つければすぐに聞いてくるのに、今日はそれ以上何も言わない。
クロードは鞄を閉じてからイリアを見る。
「もう寝る時間じゃない?」
「まだ」
「もう結構遅いよ」
「まだねむくない」
そう言うと、イリアは部屋の中を見回した。
机へ行くでもなく、何かで遊ぶでもなく、そのままクロードのベッドの近くへ座る。
クロードは少し首を傾げた。
「何かしたいの?」
「べつに」
「じゃあ、どうしたの?」
「べつに」
同じ答えが返ってくる。
クロードはそれ以上聞かず、机の上を片づけ始めた。
イリアは黙ってその様子を見ている。
少しして、クロードが別のノートを棚へ戻すと、後ろから声がした。
「おにいちゃん」
「なに?」
「あした、いくの?」
手が止まった。
「うん」
「ほんとに?」
「うん」
イリアは俯いた。
「いかなくてもいいじゃん」
「そういうわけにはいかないよ」
「なんで?」
「休みが終わったら学校に戻らないといけないからね」
「ここでもおべんきょうできるよ」
「それはできるけど」
返事に困った。
確かに勉強だけなら屋敷でもできる。
けれど王立学園へ通っている以上、休みが終われば戻らなければならない。
そんなことはクロードには分かっている。
十歳の子供に説明するほど難しい話でもない。
けれど、今のイリアが聞きたいのは理由ではない気がした。
「イリア」
呼ぶと、イリアが顔を上げる。
「また帰ってくるよ」
「いつ?」
「次のお休みになったら」
「すぐ?」
「すぐじゃないかな」
「やだ」
イリアは小さく言った。
「おにいちゃん、ここにいて」
クロードは何も言えなくなった。
困る。
本当に困る。
行かなければならないのは変わらないのに、イリアがこうして嫌がっているのを見ると、それだけを言って終わらせる気にもなれない。
クロードはイリアの前へしゃがんだ。
「寂しい?」
イリアは少し黙ってから頷いた。
「うん」
「僕も寂しいよ」
「ほんと?」
「ほんと」
イリアはクロードをじっと見る。
嘘をついていないか確かめているようだった。
「じゃあ、いかない?」
「それは……行かないと駄目なんだ」
「やだ」
今度は少し強く言われた。
クロードがどう返そうか考えていると、扉の外から足音が聞こえた。
開いたままだった扉からエリスが顔を出す。
「イリア、ここにいたのね」
「おかあさま」
「そろそろ寝る時間よ」
イリアはクロードのそばから動かなかった。
エリスは部屋の中を見て、鞄とイリアを順番に見る。
それだけで事情が分かったのか、すぐには戻るように言わなかった。
「明日、クロードが行ってしまうのが寂しいの?」
「うん」
イリアは素直に頷いた。
「おにいちゃん、いかないでっていってもいくの」
「学校があるものね」
「やだ」
エリスは困ったように笑った。
「そうね」
それからクロードを見る。
「クロードも困ってるでしょう?」
「少し」
「少し?」
「かなりです」
エリスが笑った。
イリアだけは笑わない。
しばらく黙っていたが、やがてクロードの服の袖を掴んだ。
「きょう、おにいちゃんとねる」
「え?」
「いっしょにねる」
突然言われ、クロードは瞬きをした。
「僕の部屋で?」
「うん」
「イリアの部屋じゃなくて?」
「ここ」
どうやら決定事項らしい。
クロードはエリスを見る。
エリスも少し考えたあと、イリアを見る。
「クロードがいいと言うなら、今日はそうしましょうか」
「母さま」
「明日にはしばらく会えなくなるでしょう?」
そう言われると断りづらい。
もともと断るつもりもなかった。
クロードはイリアを見る。
「分かったよ」
「ほんと?」
「今日は一緒に寝よう」
さっきまで沈んでいたイリアの顔が少しだけ明るくなる。
「うん!」
「じゃあ、一度お部屋へ戻って寝る準備をしていらっしゃい」
「はーい」
ようやくイリアがクロードの袖を離した。
部屋を出ていく姿を見送り、クロードは息を吐く。
「ずっとあんな感じなんですか?」
「今日は特にね」
エリスが答える。
「明日になれば本当にクロードがいなくなるって、分かっているんでしょうね」
「そうですか」
「たくさん遊んでもらったもの」
街へ出かけたことを思い出す。
それ以外にも、帰ってきてからイリアとは何度も顔を合わせた。
ずっと一緒にいたわけではない。
研究をしていた日もあったし、ミーニャの畑へ出かけた日もある。
それでもイリアからすれば、屋敷の中に兄がいるというだけで違ったのかもしれない。
「クロード」
「はい」
「今日は少しくらい、甘えさせてあげて」
「分かりました」
エリスが部屋を出ていく。
しばらくすると寝る準備を済ませたイリアが戻ってきた。
クロードも着替えを済ませ、二人でベッドへ入る。
ベッドは一人で使うには十分広いが、二人並ぶとさすがにいつもより狭く感じた。
「せまい?」
イリアが聞く。
「少しね」
「イリアちっちゃいよ」
「それでも二人だからね」
「おにいちゃん、もっとあっち」
「僕のベッドなんだけどな」
言われるまま端へ寄る。
イリアは満足したのか、すぐ隣へ横になった。
しばらくすると、部屋が静かになる。
もう眠ったのかと思った頃、小さな声が聞こえた。
「おにいちゃん」
「起きてるよ」
「あした、ほんとにいく?」
「うん」
昼間と同じ質問だった。
「またかえってくる?」
「帰ってくるよ」
「やくそく?」
「約束」
「ぜったい?」
「絶対」
イリアは少し黙った。
「いつ?」
「次のお休みになったら」
「ながい?」
「少し長いかもね」
「やだ」
「うん」
「いかないで」
クロードは暗い天井を見た。
何度聞かれても答えは変えられない。
それでも今回はすぐに返事をせず、隣へ顔を向ける。
イリアもこちらを見ていた。
「ごめんね」
クロードはそう言って、イリアの頭を撫でた。
「でも、また帰ってくるから」
「ほんと?」
「うん」
「わすれない?」
「忘れないよ」
「イリアのことも?」
「忘れるわけないでしょ」
イリアはようやく少し笑った。
「じゃあ、いい」
本当にいいのかは分からない。
けれど、それ以上は言わなかった。
しばらくして、イリアがクロードの腕へ寄ってくる。
クロードはそのまま頭を撫でた。
やがて小さな寝息が聞こえ始める。
「寝たか」
返事はない。
クロードは暗い部屋の中で目を閉じた。
明日から二日かけて王都へ戻る。
途中で一泊し、王都へ着いてもすぐに学園が始まるわけではない。
少し余裕を持って戻ることになっている。
それでも、この屋敷で過ごす休みは明日で終わる。
学校へ戻り、授業を受け、ノーゼスやエクリアたちともまた会う。
それを嫌だと思っているわけではない。
むしろ楽しみにしていることもある。
それでも、家を離れることが何ともないわけではなかった。
隣で眠るイリアの体温を感じながら、クロードもゆっくり眠りについた。
◇
翌朝、クロードが目を覚ますと、すぐ隣にイリアの顔があった。
まだ眠っている。
昨夜よりさらに近くへ寄ってきたらしく、クロードの服を片手で掴んでいた。
起こさないようにその手を外そうとすると、イリアが僅かに動いた。
「ん……」
「ごめん、起こした?」
イリアがゆっくり目を開ける。
少しぼんやりしたままクロードを見る。
「おにいちゃん」
「おはよう」
「おはよう」
イリアはもう一度目を閉じかけ、それから突然開いた。
「きょう?」
何のことかすぐに分かった。
「うん」
「いくの?」
「うん」
イリアの顔から眠気が消えた。
「やだ」
「イリア」
「きょうじゃなくていいじゃん」
クロードは少し困った。
確かに、学園が今日始まるわけではない。
明日出発したところで、すぐに授業へ遅れるという話でもない。
それでも今日は帰ると決めて、みんながそのために準備をしてくれている。
「今日は帰る日だからね」
「あしたでいい」
「そうしたら、また明日も同じこと言うでしょ?」
イリアは黙った。
たぶん言う。
クロードにも分かった。
「やだ」
イリアはクロードの服をもう一度掴んだ。
「おにいちゃん、いかないで」
クロードはしばらく黙ったあと、イリアの頭を撫でる。
「朝ごはん食べよう」
「たべたらいく?」
「……行くね」
「じゃあたべない」
今度は本当に困った。
「それは駄目だよ」
「やだ」
「ご飯は食べないと」
「おにいちゃんがいかなかったらたべる」
「それとこれは別でしょ」
「べつじゃない」
イリアなりには繋がっているらしい。
結局、クロードだけではどうにもならず、部屋へ来たエリスに助けてもらうことになった。
◇
朝食を終える頃には、イリアも一応は食事を済ませていた。
けれど機嫌が直ったわけではない。
クロードが立てばついてきて、部屋へ戻れば一緒に来る。
外では出発の準備が進んでいる。
荷物が運ばれ、馬車へ積み込まれていく。
その様子が窓から見えるたびに、イリアの表情が沈んでいった。
クロードも最後に部屋を確認してから廊下へ出る。
「忘れ物はない?」
エリスが聞く。
「大丈夫です」
「ノートも?」
「持ちました」
「ならいいわ」
エリスの隣にはイリアがいる。
さっきからクロードの手を握ったままだ。
屋敷の外へ出る。
馬車はすでに準備を終え、同行する使用人たちも出発を待っていた。
クロードが馬車を見ると、イリアの手に力が入った。
「おにいちゃん」
「うん」
「いくの?」
何度目か分からない質問だった。
「うん」
「……やだ」
イリアは俯いた。
クロードはその場にしゃがみ、顔を覗き込む。
「イリア」
「いかないで」
今度は昨夜よりはっきり聞こえた。
「おにいちゃん、いかないで」
目に涙が溜まっている。
クロードは胸の奥が少し痛くなるのを感じた。
王都へ戻る。
ただそれだけのことだ。
分かっている。
帰ってこられなくなるわけでもない。
それでも目の前で泣きそうになっている妹を見ると、その当たり前のことを言葉にするのが難しかった。
クロードはイリアを抱きしめた。
「ごめんね」
イリアもクロードの服を掴む。
「また帰ってくるから」
「すぐ?」
「お休みになったら」
「ながい」
「うん」
「やだ」
「うん」
否定せずに答える。
しばらくそのままでいると、イリアの手から少しずつ力が抜けていった。
クロードが身体を離す。
「約束したでしょ?」
「かえってくる?」
「帰ってくる」
「ぜったい?」
「絶対」
イリアは目元を拭った。
それでもまだクロードの袖は掴んでいる。
エリスは少し離れたところで何も言わずに見ていた。
クロードも急かさず待つ。
やがてイリアが、自分から手を離した。
「……いってらっしゃい」
小さな声だった。
クロードは笑う。
「行ってきます」
イリアの頭をもう一度撫でてから立ち上がった。
エリスの方を見る。
「母さま、行ってきます」
「ええ、気をつけてね」
「はい」
クロードは馬車へ乗り込んだ。
座席へ座って窓を見ると、エリスとイリアの姿が見える。
イリアはまだ寂しそうな顔をしていた。
それでもクロードと目が合うと、小さく手を上げた。
クロードも手を振り返す。
やがて御者が馬を進ませた。
馬車がゆっくりと動き出す。
屋敷の前に立つ二人の姿が少しずつ遠くなっていく。
イリアはずっと手を振っていた。
クロードも窓から離れず、見えなくなるまで手を振り続ける。
屋敷から続く道を進み、馬車が曲がる。
そこでようやく、家族の姿が見えなくなった。
クロードはゆっくり座席へ身体を戻した。
車輪が道を進む音が続いている。
今日一日走っても、王都には着かない。
途中で一泊して、王都へ着くのは明日になる。
学園が始まるまでにも、まだ少し時間がある。
それでも帰省は終わった。
クロードは窓の外を流れていく景色を眺めた。
さっきまでいた家はもう見えない。
それでも耳には、イリアの「いかないで」という声がまだ残っていた。
馬車はそのまま、王都へ続く道を進んでいった。




