畑の向こう側
五歳の誕生日が近づいたある朝、クロードは食堂へ向かう途中で父と母の声を聞いた。
普段ならそのまま通り過ぎるところだったが、耳に入った言葉に足が止まる。
「やはり今年は厳しいか」
ガルディオの声だった。
「ええ。昨日届いた報告でも、南側の畑は特に良くないみたい」
答えたのはエリスだ。
「北側は?」
「そちらも平年より少ないそうよ。ただ、南ほどではないって」
何の話だろう。
クロードは開いていた扉から中を覗いた。
「父さま、母さま」
二人がこちらを見る。
「どうした?」
「何が少ないの?」
ガルディオとエリスが顔を見合わせた。
先に答えたのはエリスだった。
「作物よ。今年はあまり育ちが良くないの」
「畑の?」
「ええ」
クロードは少し考えた。
領地を出るとき、畑なら何度も見ている。
町へ行ったときも馬車の窓から眺めたし、屋敷の周囲にもある。
けれど、育ちが良くない畑というものを意識して見たことはなかった。
「どうして?」
「それが一つの理由ではなさそうなの」
エリスは椅子を引き、クロードをそばへ呼んだ。
「雨の降り方も良くなかったし、場所によっては虫も増えているみたい。土が良くないんじゃないかと言っている人もいるわ」
「土が?」
「作物は土から水や必要なものをもらって育つでしょう? だから同じ種を植えても、どこでも同じように育つわけじゃないの」
クロードは黙って聞いた。
水。
土。
虫。
天気。
一つではない。
「どれが原因なの?」
「分かっていない」
ガルディオが答えた。
その一言で、クロードの視線が父へ向いた。
「分からないの?」
「ああ」
「調べてる?」
「当然だ」
短い答えだった。
けれどクロードには、それで十分だった。
原因が分からない。
だから確認している。
ただ、クロードの頭には別の疑問が生まれていた。
「育ちが悪いって、どんなふうになるの?」
エリスが少し困ったように笑った。
「そうね……いつもより小さかったり、葉の色が悪かったり。うまく実らないこともあるわ」
「全部?」
「全部ではないわよ」
「同じ畑でも違う?」
「あるでしょうね」
「場所で違うなら、土も違うの?」
「クロード」
エリスが笑いながら名前を呼んだ。
クロードは口を閉じた。
また質問が増えていたらしい。
けれど、一度気になると止まらなかった。
話を聞いているだけでは、どうにも形が浮かばない。
育ちが悪い。
土が違う。
場所によって状態も違う。
「……見てみたい」
ガルディオの眉がわずかに動いた。
「畑をか」
「うん」
「遊びに行く場所ではないぞ」
「遊ばないよ」
クロードはすぐに答えた。
「育ってないって聞いても、どんなのか分からないから見たい」
ガルディオはしばらくクロードを見た。
「一人では駄目だ」
「うん」
「仕事の邪魔もするな」
「うん」
そこまで聞いて、エリスが小さく息を吐いた。
「私が連れていくわ」
「いいの?」
「近くの畑ならね。私も様子を見ておきたいし」
クロードの顔が明るくなった。
「行く」
「今すぐとは言ってないわよ」
「いつ?」
「朝食を食べてから」
「分かった」
答えてから、クロードは食堂へ向かおうとした。
「クロード」
ガルディオに呼び止められる。
「なに?」
「走るな」
クロードは今まさに走り出そうとしていた足を止めた。
「……うん」
エリスが笑った。
◇
屋敷を出てしばらく歩くと、景色は少しずつ変わっていった。
道の両側に広がる畑そのものは、これまでにも見たことがある。
けれど今日は、いつもとは見方が違った。
クロードはエリスと、付き添いの使用人から離れすぎないように歩きながら、畑を見比べていく。
最初は何が悪いのか分からなかった。
作物は生えている。
土もある。
遠くから見れば、普通の畑にしか見えない。
「母さま」
「なに?」
「どこが悪いの?」
「近くで見てみましょうか」
畑で働いていた者にエリスが声をかけ、入っても構わない場所を確認する。
許可をもらってから畑の端へ入った。
近づいてみると、ようやく違いが見え始めた。
背丈が揃っていない。
葉の大きなものもあれば、その隣には明らかに小さなものがある。
黄色くなっている葉もあった。
「これ?」
「そうね」
クロードはしゃがみ込んだ。
同じ場所に植えられているのに、全部が同じではない。
「こっちは大きい」
「ええ」
「隣は小さい」
「そうね」
「なんで?」
「だから、それを大人たちも調べているのよ」
エリスに言われ、クロードは口を閉じた。
すぐに答えが返ってこない。
それが少し嬉しいと思ってしまった自分に気づいて、クロードは畑で困っている人たちのことを思い出した。
面白い。
けれど、これは誰かが困っていることでもある。
その二つは別に考えなければならない。
クロードは葉には触れず、今度は足元を見た。
土の色。
乾き方。
小さな虫。
落ちている葉。
見ようとすると、さっきまでただの畑だった場所に違うものが次々と現れる。
もちろん、見えたからといって意味が分かるわけではない。
「これだけ見ても分からないな」
思わず呟く。
「だから農家の人たちは毎日畑を見るのよ」
エリスが言った。
「毎日?」
「昨日と今日で違うこともあるでしょう?」
その言葉にクロードは顔を上げた。
一度だけ測って分かったつもりになるな。
石の記録を始めてから、自分でも何度か似たことを経験している。
畑なら、それが毎日変わる。
「記録してる人はいる?」
「いると思うけれど、みんなが同じやり方で残しているわけではないでしょうね」
また聞きたいことが増えた。
何を記録するのか。
天気はどう残すのか。
雨の量は測っているのか。
土の違いはどう見分けるのか。
虫が増えたというのは何と比べたのか。
けれど今日は、調べに来たのではない。
まず見るために来た。
クロードは立ち上がった。
「もう少し見てもいい?」
「畑の人の邪魔をしないならね」
「うん」
畑の端に沿って歩く。
少し進んだところで、クロードの足が止まった。
作物ではなかった。
土の上に転がっているものが目に入ったのだ。
「……あれ?」
しゃがみ込む。
小さな石だった。
家の近くで拾うものより少し色が濃い。
表面には細かな粒が見え、光の当たり方によってわずかに違って見える。
手に取ってみる。
「クロード?」
「母さま、この石」
エリスが覗き込む。
「石?」
「家の近くのと違う」
指で表面をなぞる。
硬さは分からない。
重さも比べるものがなければ判断しづらい。
それでも見た目は違う。
もう一つないかと周囲を探す。
あった。
少し離れたところにもある。
その先にも。
「いっぱいある……」
クロードは一つ拾って隣に並べた。
形は違う。
色も完全には同じではない。
けれど似ている。
もう一つ。
あと一つだけ。
そう思って手を伸ばしたところで、後ろから声がした。
「何してるの?」
クロードは振り返った。
知らない女の子が立っていた。
自分と同じくらいの年だろうか。
服の裾には土がついていて、片手には小さな籠を持っている。
クロードは手の中の石を見てから答えた。
「石を見てる」
女の子が石を見る。
それからクロードを見る。
「……石?」
「うん。この辺の石、家の近くのと少し違うから」
「それ、いっぱいあるよ」
クロードは顔を上げた。
「ほんと?」
「うん」
女の子は当たり前のように畑を指した。
「畑にあると邪魔だから拾うけど」
「邪魔なの?」
「邪魔だよ?」
クロードは石を見る。
女の子も石を見る。
二人の間に、少しだけ沈黙が落ちた。
「こんなにあるのに?」
クロードが聞く。
女の子はますます不思議そうな顔をした。
「こんなにあるから困るんだよ?」
どうやら同じものを見ているのに、まったく違うものに見えているらしい。
クロードはもう一度、手の中の石を見た。
そして少しだけ笑った。
知らない石を見つけた。
そのうえ、その石を邪魔だと思う人にも出会った。
畑へ来る前には、どちらも知らなかった。
「ぼく、クロード」
女の子が瞬きをする。
「ミーニャ」
それが、クロードとミーニャの最初の出会いだった。




