↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『異世界転生した製鉄所主任、雷魔法と鉱物生成で成り上がる ~未知の世界は面白いことだらけでした~』  作者: 黎明の星


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/22

兄になった日々

イリアが生まれてから、屋敷の中にはこれまでになかった音が増えた。

泣き声だ。

昼でも夜でも関係なく聞こえてくるその声に、クロードは最初の数日こそ何度も手を止めた。

本を読んでいるときも、石を水に沈めているときも、廊下の向こうから泣き声が聞こえると反射的に顔を上げてしまう。

妹が泣いている。

そう思うと気になった。

ある日の午後もそうだった。

机の上には『石の記録』と、町の工房で作ってもらった細いガラス容器が置かれている。

水面の位置を書き留めようとしたところで、遠くからイリアの泣き声が聞こえてきた。

クロードの手が止まる。

しばらく待ってみる。

泣き声は止まらない。

もう一度数字を書こうとして、やはり手が止まった。

「……」

結局、クロードはペンを置いた。

部屋を出て声のする方へ向かうと、エリスがイリアを抱いていた。

「母さま」

「あら、クロード」

「イリア、どうしたの?」

「お腹が空いたみたい」

「お腹?」

「ええ」

理由が分かると少し安心した。

どこか痛いのかもしれない。

具合が悪いのかもしれない。

泣き声を聞いている間にいくつか考えていたが、どれも違ったらしい。

クロードがイリアを見ると、小さな顔を真っ赤にして泣いている。

「赤ちゃんって、お腹が空くとこんなに泣くの?」

「泣くわよ。まだ言葉で教えられないもの」

「そっか」

言われてみれば当然だった。

喋れないのなら、泣くしかない。

「泣き方で分かるの?」

「いつも分かるわけじゃないわ。お腹が空いていることもあるし、眠いこともあるし、暑かったり寒かったりすることもあるわね」

「じゃあ、どうやって分かるの?」

「一つずつ確かめるのよ」

クロードは少し目を瞬いた。

「確かめる?」

「お腹は空いていないかしら、着ているものは大丈夫かしら、眠いのかしらって。全部当たるわけじゃないけれどね」

エリスはそう言って笑った。

「どうしても分からなくて困ることだってあるのよ」

クロードは泣いているイリアを見た。

理由が分からないから、一つずつ確かめる。

どこかで何度も聞いたような考え方だった。

ただ、相手は機械でも石でもない。

イリアにはイリアなりの理由があって泣いている。ただ今は、それを言葉にできないだけだ。

「難しいね」

「難しいわよ」

エリスはあっさり答えた。

母親なら何でも分かるものだと、どこかで勝手に思っていたのかもしれない。

けれどエリスだって、分からないことはある。

それでも毎日イリアを見て、少しずつ知っていくのだ。

クロードが部屋を出ようとすると、エリスが呼び止めた。

「クロード」

「なに?」

「心配して来てくれたの?」

クロードは少し考えてから頷いた。

「泣いてたから」

「ありがとう」

エリスが笑った。

その日の石の記録には、水面の数字を書く途中で少し間が空いた。



それからしばらくして、クロードは初めてイリアを抱かせてもらった。

もちろん一人でではない。

椅子に深く座らされ、エリスがすぐ隣についた状態で腕の中へ預けられた。

「首をちゃんと支えてね」

「うん」

「力を入れすぎないように」

「うん」

「でも落とさないでね」

「……難しい」

思わずそう言うと、エリスが吹き出した。

「なに?」

「いいえ。昔、同じようなことを言っていた人がいたなと思って」

誰のことなのかはすぐに分かった。

クロードが生まれたばかりの頃、ガルディオもこうして自分を抱いたのだろう。

そのときのことをクロード自身は覚えていない。

けれど今なら、父が「難しい」と言った理由が少し分かる。

腕の中のイリアはあまりにも小さかった。

自分より小さなものなら、石だって何度も持ったことがある。

けれど当然ながら、それとはまるで違う。

少し姿勢が変わるだけで気になる。

呼吸しているのか確かめたくなる。

力を入れすぎていないか、逆に弱すぎないかも気になる。

「母さま」

「なあに?」

「これで大丈夫?」

「大丈夫よ」

それでもクロードはほとんど動かなかった。

やがてイリアが小さく身じろぎし、目を開いた。

まだ何を見ているのか分からないような瞳がクロードの方を向く。

「……イリア」

呼んでみる。

返事はない。

当然だ。

それでももう一度呼んだ。

「イリア」

小さな手が動き、クロードの服に触れた。

その瞬間、胸の奥が少しくすぐったくなった。

「ぼくだって分かるかな」

「今はまだ難しいかもしれないわね」

「そっか」

少し残念だった。

するとエリスが続けた。

「でも、何度も声を聞いていたら覚えるかもしれないわよ」

クロードは腕の中の妹を見る。

「じゃあ、いっぱい話したらいい?」

「そうね」

何を話せばいいのだろう。

考えて、クロードは最近調べている石の話をしようとした。

「今日ね、前に拾った黒い石を――」

「クロード」

「なに?」

「もう少し大きくなってからにしてあげたら?」

「どうして?」

「イリアにはまだ少し難しいと思うわ」

クロードは妹を見る。

確かに難しいかもしれない。

「じゃあ何を話せばいい?」

「何でもいいのよ」

何でもいいと言われる方が難しかった。

しばらく考えてから、クロードは今日の天気のことを話した。

それから庭で鳥を見たこと。

朝食のパンがおいしかったこと。

途中から自分でも何を話しているのか分からなくなった。

イリアはもちろん答えない。

それでもクロードが話している間、泣くことはなかった。



季節が変わる頃には、イリアはクロードの声に反応するようになっていた。

少なくともクロードにはそう思えた。

「イリア」

名前を呼ぶ。

すると寝台に横になっていたイリアが顔を動かす。

「母さま、今こっち見た」

「見たわね」

「ぼくの声、分かるのかな」

「分かるようになってきたのかもしれないわね」

クロードは嬉しくなって、もう一度呼んだ。

「イリア」

今度は別の方を見た。

「……見ない」

エリスが笑う。

「いつも思い通りにはいかないわよ」

それもそうだった。

それからさらに時間が経つと、イリアは寝返りをするようになった。

初めて見たとき、クロードはしばらく黙っていた。

横向きになり、途中で止まり、手足を動かし、何度か失敗して元へ戻る。

また挑戦する。

そしてようやく身体がひっくり返った。

「……できた」

なぜか自分のことのように嬉しかった。

その姿を見ながら、クロードは自分が歩き始めた頃のことを思い出した。

立とうとして転び、歩こうとして転び、それでも何度も繰り返した。

今のイリアも同じなのかもしれない。

できない。

それでも動く。

少しずつ身体の使い方を覚えていく。

「頑張れ」

思わず声が出た。

イリアには言葉の意味など分からないだろう。

それでも兄の声が聞こえたのか、小さな足が元気よく動いた。



やがてイリアが自分で床を移動するようになると、クロードの日常にも新しい変化が生まれた。

その日、クロードは床に座って木箱の中身を整理していた。

以前エリスからもらった、石を入れるための箱だ。

新しい石を入れるなら、どれか一つを戻す。

その約束は今も守っている。

どれを残すか考えるため、箱から石をいくつか取り出して床へ並べていた。

灰色。

黒。

白い筋の入ったもの。

表面がざらついたもの。

川辺で拾った丸いもの。

記録と見比べながら考えていると、床を擦る小さな音がした。

顔を上げる。

少し離れたところにイリアがいた。

「イリア?」

イリアは床に手をつきながら、ゆっくりこちらへ近づいてくる。

クロードはしばらくその様子を見ていた。

以前は寝返りだけであれほど苦労していたのに、今では自分で行きたいところへ動けるようになっている。

「こっち来るの?」

返事の代わりに、イリアはさらに進んだ。

クロードの前まで来る。

そして迷うことなく、床に並べられた石へ手を伸ばした。

「あ」

小さな手が灰色の石を掴む。

「イリア、それは――」

次の瞬間、石を口へ運ぼうとした。

「待って」

クロードは慌てて石を受け取った。

イリアの手から石がなくなる。

数秒の沈黙。

イリアの顔が歪んだ。

「……あ」

泣いた。

「待って、違うんだ。意地悪したんじゃなくて」

もちろん説明しても通じない。

「これ、口に入れたら危ないから」

泣き声が大きくなる。

クロードは困った。

返すわけにはいかない。

けれど泣かせたいわけでもない。

「クロード?」

エリスが部屋を覗いた。

「母さま」

「どうしたの?」

「イリアが石を口に入れようとしたから取ったら泣いた」

状況を聞いたエリスは床の石を見て、それからクロードを見た。

「まず石を片づけましょうか」

「……うん」

言われてみればその通りだった。

イリアに触ってほしくないものを、手の届く場所に並べていた自分にも問題がある。

クロードは急いで石を箱へ戻した。

その間にエリスがイリアを抱き上げる。

「今まで届かなかったから」

「でも、届くようになったでしょう?」

「うん」

「イリアができることも増えているのよ」

クロードは箱の蓋を閉じた。

自分が昨日までと同じことをしていても、イリアは昨日までと同じではない。

寝返りができるようになった。

移動できるようになった。

手を伸ばして物を掴めるようになった。

できることが増えれば、危ないことも増える。

「じゃあ、石は机の上で見る」

「その方がいいわね」

クロードは頷いた。

少しして泣き止んだイリアが、エリスの腕の中からこちらを見ていた。

「ごめんね」

何に対する謝罪なのか、自分でも少し分からなかった。

石を取ったことではない。

危ない場所に置いていたことだろうか。

たぶん、そちらだ。

「今度から気をつける」

イリアは答えなかった。

代わりにエリスの服を掴んだ。



イリアが生まれてから、クロードの生活そのものが大きく変わったわけではなかった。

本を読む。

文字を書く。

石を拾う。

記録する。

ガルディオの訓練を見せてもらうこともある。

できることを増やしながら、まだできない魔法について考える日々も続いている。

ただ、その中にイリアがいるようになった。

本を読んでいる隣で眠っていることがある。

庭へ出れば、エリスに抱かれたイリアがこちらを見ていることがある。

声をかければ笑うことも増えた。

泣いていれば理由が気になる。

危ないものへ手を伸ばせば止める。

自分が何かをできるようになるのとは違う変化が、すぐそばで毎日少しずつ起きていた。

そしてクロード自身の時間も進んでいる。

ある日、ガルディオの訓練を眺めていたクロードは、自分の手を開いた。

以前より指が長くなった。

思った通りに動かせることも増えた。

何度も真似してきた印を、空中でゆっくり形にする。

もちろん何も起きない。

まだ《啓示》を受けていない。

魔力を自分の意思で動かすこともできない。

分かっている。

それでも以前よりずっと正確に指は動いた。

「もうすぐだな」

ガルディオの声がした。

クロードは顔を上げる。

「なにが?」

「五歳だ」

その言葉に、クロードの指が止まった。

五歳。

《啓示》。

ずっと待っていたものが、いつの間にかそこまで近づいていた。

「五歳になったら、ぼくも魔法を使える?」

「《啓示》を受ければ、お前が何を持っているか分かる」

ガルディオはそう答えた。

「魔法を持っていれば、そこからだ」

そこから。

すぐに使いこなせるとは言わなかった。

ガルディオらしい答えだった。

クロードはもう一度自分の手を見る。

何が分かるのだろう。

どんな属性を持っているのか。

そして女神イリシアから与えられた《鉱物生成》は、どうなるのか。

鑑定で見つかるのか。

それとも見つからないのか。

分からない。

だからこそ、その日が待ち遠しかった。

「焦るな」

考えていることが顔に出ていたのか、ガルディオが言った。

「力は逃げん」

以前にも聞いた言葉だった。

クロードは笑った。

「うん」

その日の夕方。

部屋へ戻る途中でイリアの声が聞こえた。

覗いてみると、床に座ったイリアがこちらへ両手を伸ばしている。

「お兄ちゃん」

エリスが隣でそう言いながらクロードを指した。

「ほら、クロードお兄ちゃんよ」

イリアが口を動かす。

「あー」

「まだ無理よ」

クロードは笑いながら近づいた。

「あー、じゃなくてクロード」

「あぅ」

「ク、ロー、ド」

「うー」

「……難しいな」

それでもクロードは笑った。

自分にも、まだできないことがたくさんある。

イリアにも、これから覚えることがたくさんある。

どちらが先に何を覚えるのかは分からない。

分からないなら、そのとき一緒に覚えていけばいい。

窓の外では、季節の風が庭の木々を揺らしていた。

五歳の誕生日まで、あとわずかだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。