兄になった日々
イリアが生まれてから、屋敷の中にはこれまでになかった音が増えた。
泣き声だ。
昼でも夜でも関係なく聞こえてくるその声に、クロードは最初の数日こそ何度も手を止めた。
本を読んでいるときも、石を水に沈めているときも、廊下の向こうから泣き声が聞こえると反射的に顔を上げてしまう。
妹が泣いている。
そう思うと気になった。
ある日の午後もそうだった。
机の上には『石の記録』と、町の工房で作ってもらった細いガラス容器が置かれている。
水面の位置を書き留めようとしたところで、遠くからイリアの泣き声が聞こえてきた。
クロードの手が止まる。
しばらく待ってみる。
泣き声は止まらない。
もう一度数字を書こうとして、やはり手が止まった。
「……」
結局、クロードはペンを置いた。
部屋を出て声のする方へ向かうと、エリスがイリアを抱いていた。
「母さま」
「あら、クロード」
「イリア、どうしたの?」
「お腹が空いたみたい」
「お腹?」
「ええ」
理由が分かると少し安心した。
どこか痛いのかもしれない。
具合が悪いのかもしれない。
泣き声を聞いている間にいくつか考えていたが、どれも違ったらしい。
クロードがイリアを見ると、小さな顔を真っ赤にして泣いている。
「赤ちゃんって、お腹が空くとこんなに泣くの?」
「泣くわよ。まだ言葉で教えられないもの」
「そっか」
言われてみれば当然だった。
喋れないのなら、泣くしかない。
「泣き方で分かるの?」
「いつも分かるわけじゃないわ。お腹が空いていることもあるし、眠いこともあるし、暑かったり寒かったりすることもあるわね」
「じゃあ、どうやって分かるの?」
「一つずつ確かめるのよ」
クロードは少し目を瞬いた。
「確かめる?」
「お腹は空いていないかしら、着ているものは大丈夫かしら、眠いのかしらって。全部当たるわけじゃないけれどね」
エリスはそう言って笑った。
「どうしても分からなくて困ることだってあるのよ」
クロードは泣いているイリアを見た。
理由が分からないから、一つずつ確かめる。
どこかで何度も聞いたような考え方だった。
ただ、相手は機械でも石でもない。
イリアにはイリアなりの理由があって泣いている。ただ今は、それを言葉にできないだけだ。
「難しいね」
「難しいわよ」
エリスはあっさり答えた。
母親なら何でも分かるものだと、どこかで勝手に思っていたのかもしれない。
けれどエリスだって、分からないことはある。
それでも毎日イリアを見て、少しずつ知っていくのだ。
クロードが部屋を出ようとすると、エリスが呼び止めた。
「クロード」
「なに?」
「心配して来てくれたの?」
クロードは少し考えてから頷いた。
「泣いてたから」
「ありがとう」
エリスが笑った。
その日の石の記録には、水面の数字を書く途中で少し間が空いた。
◇
それからしばらくして、クロードは初めてイリアを抱かせてもらった。
もちろん一人でではない。
椅子に深く座らされ、エリスがすぐ隣についた状態で腕の中へ預けられた。
「首をちゃんと支えてね」
「うん」
「力を入れすぎないように」
「うん」
「でも落とさないでね」
「……難しい」
思わずそう言うと、エリスが吹き出した。
「なに?」
「いいえ。昔、同じようなことを言っていた人がいたなと思って」
誰のことなのかはすぐに分かった。
クロードが生まれたばかりの頃、ガルディオもこうして自分を抱いたのだろう。
そのときのことをクロード自身は覚えていない。
けれど今なら、父が「難しい」と言った理由が少し分かる。
腕の中のイリアはあまりにも小さかった。
自分より小さなものなら、石だって何度も持ったことがある。
けれど当然ながら、それとはまるで違う。
少し姿勢が変わるだけで気になる。
呼吸しているのか確かめたくなる。
力を入れすぎていないか、逆に弱すぎないかも気になる。
「母さま」
「なあに?」
「これで大丈夫?」
「大丈夫よ」
それでもクロードはほとんど動かなかった。
やがてイリアが小さく身じろぎし、目を開いた。
まだ何を見ているのか分からないような瞳がクロードの方を向く。
「……イリア」
呼んでみる。
返事はない。
当然だ。
それでももう一度呼んだ。
「イリア」
小さな手が動き、クロードの服に触れた。
その瞬間、胸の奥が少しくすぐったくなった。
「ぼくだって分かるかな」
「今はまだ難しいかもしれないわね」
「そっか」
少し残念だった。
するとエリスが続けた。
「でも、何度も声を聞いていたら覚えるかもしれないわよ」
クロードは腕の中の妹を見る。
「じゃあ、いっぱい話したらいい?」
「そうね」
何を話せばいいのだろう。
考えて、クロードは最近調べている石の話をしようとした。
「今日ね、前に拾った黒い石を――」
「クロード」
「なに?」
「もう少し大きくなってからにしてあげたら?」
「どうして?」
「イリアにはまだ少し難しいと思うわ」
クロードは妹を見る。
確かに難しいかもしれない。
「じゃあ何を話せばいい?」
「何でもいいのよ」
何でもいいと言われる方が難しかった。
しばらく考えてから、クロードは今日の天気のことを話した。
それから庭で鳥を見たこと。
朝食のパンがおいしかったこと。
途中から自分でも何を話しているのか分からなくなった。
イリアはもちろん答えない。
それでもクロードが話している間、泣くことはなかった。
◇
季節が変わる頃には、イリアはクロードの声に反応するようになっていた。
少なくともクロードにはそう思えた。
「イリア」
名前を呼ぶ。
すると寝台に横になっていたイリアが顔を動かす。
「母さま、今こっち見た」
「見たわね」
「ぼくの声、分かるのかな」
「分かるようになってきたのかもしれないわね」
クロードは嬉しくなって、もう一度呼んだ。
「イリア」
今度は別の方を見た。
「……見ない」
エリスが笑う。
「いつも思い通りにはいかないわよ」
それもそうだった。
それからさらに時間が経つと、イリアは寝返りをするようになった。
初めて見たとき、クロードはしばらく黙っていた。
横向きになり、途中で止まり、手足を動かし、何度か失敗して元へ戻る。
また挑戦する。
そしてようやく身体がひっくり返った。
「……できた」
なぜか自分のことのように嬉しかった。
その姿を見ながら、クロードは自分が歩き始めた頃のことを思い出した。
立とうとして転び、歩こうとして転び、それでも何度も繰り返した。
今のイリアも同じなのかもしれない。
できない。
それでも動く。
少しずつ身体の使い方を覚えていく。
「頑張れ」
思わず声が出た。
イリアには言葉の意味など分からないだろう。
それでも兄の声が聞こえたのか、小さな足が元気よく動いた。
◇
やがてイリアが自分で床を移動するようになると、クロードの日常にも新しい変化が生まれた。
その日、クロードは床に座って木箱の中身を整理していた。
以前エリスからもらった、石を入れるための箱だ。
新しい石を入れるなら、どれか一つを戻す。
その約束は今も守っている。
どれを残すか考えるため、箱から石をいくつか取り出して床へ並べていた。
灰色。
黒。
白い筋の入ったもの。
表面がざらついたもの。
川辺で拾った丸いもの。
記録と見比べながら考えていると、床を擦る小さな音がした。
顔を上げる。
少し離れたところにイリアがいた。
「イリア?」
イリアは床に手をつきながら、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
クロードはしばらくその様子を見ていた。
以前は寝返りだけであれほど苦労していたのに、今では自分で行きたいところへ動けるようになっている。
「こっち来るの?」
返事の代わりに、イリアはさらに進んだ。
クロードの前まで来る。
そして迷うことなく、床に並べられた石へ手を伸ばした。
「あ」
小さな手が灰色の石を掴む。
「イリア、それは――」
次の瞬間、石を口へ運ぼうとした。
「待って」
クロードは慌てて石を受け取った。
イリアの手から石がなくなる。
数秒の沈黙。
イリアの顔が歪んだ。
「……あ」
泣いた。
「待って、違うんだ。意地悪したんじゃなくて」
もちろん説明しても通じない。
「これ、口に入れたら危ないから」
泣き声が大きくなる。
クロードは困った。
返すわけにはいかない。
けれど泣かせたいわけでもない。
「クロード?」
エリスが部屋を覗いた。
「母さま」
「どうしたの?」
「イリアが石を口に入れようとしたから取ったら泣いた」
状況を聞いたエリスは床の石を見て、それからクロードを見た。
「まず石を片づけましょうか」
「……うん」
言われてみればその通りだった。
イリアに触ってほしくないものを、手の届く場所に並べていた自分にも問題がある。
クロードは急いで石を箱へ戻した。
その間にエリスがイリアを抱き上げる。
「今まで届かなかったから」
「でも、届くようになったでしょう?」
「うん」
「イリアができることも増えているのよ」
クロードは箱の蓋を閉じた。
自分が昨日までと同じことをしていても、イリアは昨日までと同じではない。
寝返りができるようになった。
移動できるようになった。
手を伸ばして物を掴めるようになった。
できることが増えれば、危ないことも増える。
「じゃあ、石は机の上で見る」
「その方がいいわね」
クロードは頷いた。
少しして泣き止んだイリアが、エリスの腕の中からこちらを見ていた。
「ごめんね」
何に対する謝罪なのか、自分でも少し分からなかった。
石を取ったことではない。
危ない場所に置いていたことだろうか。
たぶん、そちらだ。
「今度から気をつける」
イリアは答えなかった。
代わりにエリスの服を掴んだ。
◇
イリアが生まれてから、クロードの生活そのものが大きく変わったわけではなかった。
本を読む。
文字を書く。
石を拾う。
記録する。
ガルディオの訓練を見せてもらうこともある。
できることを増やしながら、まだできない魔法について考える日々も続いている。
ただ、その中にイリアがいるようになった。
本を読んでいる隣で眠っていることがある。
庭へ出れば、エリスに抱かれたイリアがこちらを見ていることがある。
声をかければ笑うことも増えた。
泣いていれば理由が気になる。
危ないものへ手を伸ばせば止める。
自分が何かをできるようになるのとは違う変化が、すぐそばで毎日少しずつ起きていた。
そしてクロード自身の時間も進んでいる。
ある日、ガルディオの訓練を眺めていたクロードは、自分の手を開いた。
以前より指が長くなった。
思った通りに動かせることも増えた。
何度も真似してきた印を、空中でゆっくり形にする。
もちろん何も起きない。
まだ《啓示》を受けていない。
魔力を自分の意思で動かすこともできない。
分かっている。
それでも以前よりずっと正確に指は動いた。
「もうすぐだな」
ガルディオの声がした。
クロードは顔を上げる。
「なにが?」
「五歳だ」
その言葉に、クロードの指が止まった。
五歳。
《啓示》。
ずっと待っていたものが、いつの間にかそこまで近づいていた。
「五歳になったら、ぼくも魔法を使える?」
「《啓示》を受ければ、お前が何を持っているか分かる」
ガルディオはそう答えた。
「魔法を持っていれば、そこからだ」
そこから。
すぐに使いこなせるとは言わなかった。
ガルディオらしい答えだった。
クロードはもう一度自分の手を見る。
何が分かるのだろう。
どんな属性を持っているのか。
そして女神イリシアから与えられた《鉱物生成》は、どうなるのか。
鑑定で見つかるのか。
それとも見つからないのか。
分からない。
だからこそ、その日が待ち遠しかった。
「焦るな」
考えていることが顔に出ていたのか、ガルディオが言った。
「力は逃げん」
以前にも聞いた言葉だった。
クロードは笑った。
「うん」
その日の夕方。
部屋へ戻る途中でイリアの声が聞こえた。
覗いてみると、床に座ったイリアがこちらへ両手を伸ばしている。
「お兄ちゃん」
エリスが隣でそう言いながらクロードを指した。
「ほら、クロードお兄ちゃんよ」
イリアが口を動かす。
「あー」
「まだ無理よ」
クロードは笑いながら近づいた。
「あー、じゃなくてクロード」
「あぅ」
「ク、ロー、ド」
「うー」
「……難しいな」
それでもクロードは笑った。
自分にも、まだできないことがたくさんある。
イリアにも、これから覚えることがたくさんある。
どちらが先に何を覚えるのかは分からない。
分からないなら、そのとき一緒に覚えていけばいい。
窓の外では、季節の風が庭の木々を揺らしていた。
五歳の誕生日まで、あとわずかだった。




