エピソード3
橘夏海の周囲で、事態は静かに、しかし決定的に動き始めた。
2041年9月12日。午前4時17分。世界中のすべての重力計が、同時に0.01%の変動を記録した。たったそれだけ。誰も気づかない。しかしその瞬間、地球上のUSLはすべて動きを止めた。浮遊していた個体も、人間に共生していた個体も、研究所で冷凍保存されていた標本までもが、同時に同じ方向——日本のある小さな町——を向いた。
西条薫はその現象を「集団定位」と名付けた。彼女は直感した。USLは群れる生き物ではない。しかし今、彼らは蜂群のように一つの意思に従っている。そしてその中心にいるのが、十三歳の少女だと。
橘夏海は学校に行かなくなった。必要がなかった。彼女がベッドに横たわるたび、天井すれすれに数十のUSLが集まり、光を放った。母親は泣きながら祈った。父親は無表情でテレビをつけた。そこには「反重力テロリストが日本の少女を洗脳」という見出しがあった。
防衛派の国々は即座に行動を起こした。アメリカはG部隊を日本に派遣すると通告。日本政府は慌てて「受け入れられない」と拒否したが、圧力は日増しに強まった。
その時、鈴木健一——元ホームレスで、三個体と共生する男——が西条のもとを訪れた。彼の顔色は青白く、目にはクマができていた。
「西条先生。彼らが言ってる。『時間がない』って。人間が自分たちで決めろって」
「何を?」
「この星に残るか、出て行くか」
鈴木は震える手でコーヒーカップを握った。カップは浮かなかった。彼は自分の能力を完全に制御できる唯一の人間だった。
「USLはもともとこの星の生き物じゃない。でも地球ができたときにはもういたんだ。彼らにとって、人間は『後から来た騒がしい隣人』にすぎない。何万年も無視してたけど、最近あんまりにも酷いから——兵器にしたり、体に詰め込んだり——『そろそろ線を引くか』って話になってるらしい」
「線って?」
「重力の境界線を引くってことだ。彼らは重力そのものを操れる。つまり、この惑星の『ルール』を書き換えられる。人間が重力に縛られたまま進化するか、重力から解き放たれて別の何かになるか——その選択を、人間自身に委ねるって」
西条は眉をひそめた。「選択ってどういうことだ? 人類全体で投票でもするのか?」
鈴木は首を振った。「個人レベルだ。一人ひとりが、自分で決める。USLを受け入れるか、拒否するか。受け入れた者は、重力から自由になる。拒否した者は、今まで通り重力に縛られて生きる。ただ——」
彼は言葉を切った。
「ただ?」
「どちらかを選んだら、もう戻れない。拒否した者は、今後一切USLに関われなくなる。逆に受け入れた者は、もはや『普通の人間』ではいられなくなる。二つの種に分かれるんだ。同じ星に住みながら、まったく異なる物理法則の下で生きる、二つの人類が」
その会話から一週間後、橘夏海が姿を消した。
彼女の部屋には、天井に刻まれた一つの文章だけが残されていた。浮遊するUSLが、体を擦り付けて文字を焼き付けたのだ。
「決断の日まで、あと三十日。場所はあなたたちが決めなさい。ただし——審判は逃げられない」
世界はパニックに陥った。国連は緊急総会を開き、三日三晩議論したが結論は出なかった。そんな中、一つの映像が世界中に流された。
橘夏海が、立っていた。空中に。
背景はエルサレムの岩のドーム。次に、バチカンのサンピエトロ広場。次に、京都の清水寺。次に、イースター島。次に、南極の昭和基地。同じ少女が同時に、世界中の聖地に現れていた。
彼女は言った。
「私は人類じゃない。私は——『境界』です。あなたたちがこれから向かう場所の、入り口に立つ者です。怯えないで。ただ選んでください。選ぶことが、あなたたちに残された最後の人間らしい行為ですから」
そして彼女は消えた。
三十日後、人類はそれぞれの答えを携えて、決断の地に集うことになる。それがどこになるのかは、誰も知らなかった。ただ、少女が言った。
「一番最初にUSLを見た場所にしなさい。そこが一番、公平だから」
チリのアタカマ砂漠。最初の望遠鏡が捉えた場所。
そこに、人類は集う。選択のために。分断のために。あるいは——かつてない統合のために。
砂漠の空には、すでに無数のUSLが輝き始めていた。星座のように。あるいは、審判の目玉のように。




