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最終話

アタカマ砂漠。決断の日。


2041年10月12日、現地時間午前6時。夜明けとともに、世界の注目がこの何もない砂漠に集まった。現地入りした人間は約一万人。国連要人、軍関係者、科学者、ジャーナリスト、そしてただの興味本位の一般人もいた。上空には各国のドローンと衛星がひしめき合い、ライブ中継が世界中に流れていた。


しかし、橘夏海は現れなかった。


代わりに現れたのは、鈴木健一だった。あの元ホームレス。三個体と共生する男。彼は歩いてきた。砂漠の地面を、確かに歩いて。そして中央の岩の上に立ち、咳払いを一つした。


「えーと、彼女は来られない。彼女はもう『境界』そのものになっちまったから、特定の場所にはいられないんだ。だから代理で俺が来た。適当に聞いてくれ」


緊張が走った。アメリカG部隊の指揮官が声を荒らげた。「ふざけるな! あの少女が人類を二分すると言ったんだ。説明しろ!」


鈴木はゆっくりとその指揮官を見た。目が合った瞬間、指揮官の体がふわりと浮いた。悲鳴を上げる指揮官。鈴木は手を振って元に戻した。


「説明するよ。簡単な話だ。ここにいる全員が、これから順番にこの石に手を触れる。石はここにあるこの黒い石だ」


彼の足元には、誰も気づかなかった黒い石があった。直径一メートルほどの、まるで磨かれた黒曜石のようなもの。しかし表面は波打ち、まるで生きているようだった。


「触れた瞬間、お前の中のUSLが——いや、正確にはUSLの『ネットワーク』が——お前の意識を読み取る。お前が本当に『重力からの自由』を望むなら、USLはお前と共生する。拒むなら、しない。ただそれだけだ。強制はない。騙しもない」


西条薫が割り込んだ。「鈴木さん、それは個人の『願望』で決まるのか? 遺伝的要因や環境的要因は?」


「ない。ただの願望だ。ただし、本当に心の底から願っているかどうかは、USLにはお見通しだ。偽ることはできない。自分自身を偽れない人間は、共生できない」


会場がざわついた。


「では、始めるぞ」


最初に手を触れたのは、地元チリの農夫だった。彼はただ「浮いてみたいから」と笑って石に触れた。一瞬の後、彼の体は十センチ浮いた。彼は子供のように喜んだ。


次に手を触れたのは、アメリカG部隊の兵士。彼の顔には恐怖と野心が混ざっていた。触れた瞬間——何も起こらなかった。彼は地面に立ったままだった。兵士は何度も石を触ったが、変わらなかった。


「拒否された」と鈴木は淡々と言った。「お前の心の奥では、本当は『力を欲している』んじゃない。『他人より優位に立ちたい』だけだ。USLはそれをごまかしとは見抜く」


兵士は青ざめた。指揮官が彼を引き下がらせた。


次々と人が石に触れた。浮く者、浮かない者。比率は半々だった。驚くべきことに、宗教家たちはほとんどが浮かなかった。ある牧師は「これは悪魔の業だ」と叫び、石に唾を吐きかけたが、唾は空中で止まり、そのまま彼の顔に返ってきた。会場がどっと笑った。


ある老人は浮いた。彼は末期癌だった。「もう何も失うものがない。せめて一度、鳥のように空を飛びたい」と言った。浮いた瞬間、彼の癌は消えていた。医師が駆け寄り検査したが、腫瘍は跡形もなかった。


その知らせは瞬時に世界中に広まった。もはやUSLは「兵器」ではなく「救済」に見え始めた。


しかし問題も起きた。浮いた人間の中に、突然狂ったように笑い出し、空中で回転し始める者がいた。鈴木がすぐに彼を地面に引き寄せた。


「これは何だ?」西条が訊いた。


鈴木は苦い顔をした。「心の準備ができていない者が無理に願うと、USLは与えるが、制御できない。その男は『自由』を願ったが、『責任』を願わなかった。ただの本能のままに浮いてしまう。そういう者は——戻れない。人間の形を保てなくなる可能性がある」


その言葉の意味を理解する者は、その場にほとんどいなかった。


夕方までに、約八千人に選別が終わった。残りはまだだった。その時、砂漠の空が暗くなった。日食ではない。無数のUSLが太陽を覆ったのだ。


橘夏海の声が、全員の頭の中に響いた。


「ここで選別は終わりではない。これからが始まりです。浮かぶことを選んだ者たちは、私についてきなさい。浮かばなかった者たちは、今まで通り生きなさい。ただし——」


沈黙。


「二度と、私たちの世界に干渉しないでください。あなたたちの重力は、あなたたちだけのものです。私たちの無重力は、私たちだけのものです。二つの人類は、同じ星の上で決して交わらない二つの線になる」


そして、浮かぶことを選んだ約四千人の体が、一斉に空へと舞い上がった。彼らは羽根も翼も持たない。ただ、重力から解き放たれただけだった。


地上に残された者たちは、見上げることしかできなかった。


彼らがどこへ向かうのか——誰も知らない。しかし、鈴木だけは最後にこう言い残した。


「彼らは地上を捨てるわけじゃない。ただ——別の視点を得るだけだ。宇宙から地球を見るように、今度は『重力の外』から人間を見る。それがどんな世界なのか、俺にも想像がつかない」


空に浮かぶ四千の影は、やがて小さな点になり、消えた。


アタカマ砂漠には、選ばれなかった六千人の人類と、黒い石だけが残された。


その石は、今もそこにある。次の決断の日のために。いつかまた、誰かが触れる日まで。


そして彼らは知らない。


あの浮かび上がった四千人のうち、最も高い場所へと昇っていった一人の少女が、大気圏の端で振り返り、こう呟いたことを。


「これでよかったのかな、ママ」


橘夏海は、最後まで人間だったのだ。

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