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9.お母様と刺繍

ヲワさんの店を訪れてから、僕の《糸》を見る目は少し変わった。

『糸』

するり。

手のひらに十センチの糸が現れる。

長さは変わらない。

太さも、たぶん変わっていない。

床に落としても壊れなくなったとはいえ、少し強く引っ張れば相変わらず消えてしまう。

それでも。

「一本では弱いなら、合わせればいい、か」

ヲワさんが見せてくれた糸を思い出す。

一本の糸だと思っていたものが、ほぐしてみれば何本もの細い繊維からできていた。

撚る。

結ぶ。

編む。

織る。

縫う。

僕にとって《糸》とは、手のひらから出てくる十センチの白い物体でしかなかった。

でも、ヲワさんにとって糸は違った。

糸そのものだけじゃない。

どう扱うか。

僕はまだ、その入口に立ったばかりらしい。

「とりあえず、結べるようにならないとな」

右手に一本。

左手に一本。

慎重に重ねて――。

「テオ」

「はい!」

びっくりして指先に力が入った。

すん。

「あ」

消えた。

「ご、ごめんなさい。お母様、邪魔をしてしまったわね」

「大丈夫です」

『糸』

するり。

もう慣れたものだ。

壊れたら、また出せばいい。

「それより、どうしたんですか?」

「テオが糸のことを知りたいと言っていたでしょう?」

「はい」

母が後ろ手に持っていた物をテーブルの上へ置く。

丸い木枠。

布。

色とりどりの糸。

そして針。

見覚えはある。

「刺繍?」

「正解」

母は嬉しそうに椅子を僕の隣へ運んできた。

「ヲワに糸を教えてもらうのもいいけれど、あの子は教えるのが上手な方ではないのよ」

「ああ……」

なんとなく分かる。

『見れば分かるでしょう?』

とか言いそうだ。

「だから、お母様が教えてあげる」

「母上、刺繍できるんですか?」

「テオ?」

にっこり。

いつもの温かな笑みなのに、なぜだろう。

部屋が少し涼しくなった気がする。

きっと母は、歴史上でもいるか分からない《氷使い》に違いない。

「貴族の女性にとって、刺繍は嗜みの一つよ」

「なるほど」

「それに、お母様は結構上手なのよ?」

そう言って母が取り出したハンカチには、小さな花が刺繍されていた。

「おお……」

普通に上手い。

いや、公爵夫人なのだから当然なのかもしれないけれど。

母と刺繍という組み合わせが、なぜか僕の中で繋がっていなかった。

「やってみる?」

「はい!」

糸について知りたい。

それに、前世でも刺繍なんてやったことがない。

普通に面白そうだ。

「では、まず糸を針に通してみましょうか」

「はい」

針と糸を受け取る。

小さな穴。

細い糸。

なるほど。

これくらいなら――。

「…………」

入らない。

「…………」

もう一度。

入らない。

「…………」

穴、小さくない?

「ふふ」

「母上」

「なあに?」

「笑いました?」

「笑ってないわよ」

絶対笑った。

三度目。

慎重に糸の先を近づける。

ぷるぷる。

「テオ、力を抜いて」

「抜いてます」

「手まで一緒に動いているわよ」

「…………」

どこかで聞いた台詞だ。

魔力操作を始めた頃、テレシア先生にも同じことを言われた気がする。

深呼吸。

力を抜く。

針を見る。

穴を見る。

糸の先を見る。

ゆっくり。

「入った!」

「上手よ」

たった糸を針に通しただけなのに、ちょっと嬉しい。

「では次は、糸の端を結びましょう」

「はい」

母が見本を見せる。

指に巻いて、先端を絡めて、小さな結び目を作る。

「……もう一回お願いします」

「あら」

「速くて分かりませんでした」

母が嬉しそうに笑った。

「もちろん」

今度はゆっくり。

僕も真似する。

失敗。

もう一度。

失敗。

三度目。

それらしいものができた。

「できた?」

「ええ。初めてなら上出来よ」

結び目を見る。

小さい。

当たり前だけど、糸そのものより太くなっている。

指先で触ってみる。

「母上」

「なあに?」

「結ぶと、ここだけ太くなるんですね」

「そうね」

「だから僕の《糸》は、結ぼうとすると壊れるのかな」

母の手が止まった。

「どういうこと?」

「結び目って、糸を曲げて、重ねて、最後に引っ張るでしょう?」

実際に結び目を触りながら考える。

「真っ直ぐ引っ張るより、いろんなところに力がかかってそうだなって」

「そういうものなの?」

「分かりません」

分からない。

だから、今度テレシア先生にも聞いてみよう。

でも、一つだけ分かった。

実際に触ってみると、見ているだけでは気づかなかったことがある。

「次はどうするんですか?」

「ようやく刺繍よ」

母が布を張った木枠を渡してくれる。

「最初はお母様のやり方を真似しながら、この線に沿って縫ってみましょう」

「はい」

針を刺す。

裏から表へ。

糸を引く。

「いたっ」

「テオ!」

「大丈夫です。ちょっと刺しただけ」

「もう。気をつけなさい」

「はい」

今度は慎重に。

針を通して。

糸を引く。

ぎゅっ。

布が少し歪んだ。

「あ」

「引っ張りすぎよ」

「緩くても駄目ですよね?」

「ええ。糸が浮いてしまうわ」

強すぎても駄目。

弱すぎても駄目。

ちょうどいいところで止める。

「……難しい」

「だから面白いのよ。少し見てて」

母が隣で針を動かす。

僕よりずっと速い。

それなのに、布は歪まず、糸も綺麗に並んでいく。

「ね。まずは一刺し一刺し、きちんとやってみなさい」

僕も真似をする。

刺して。

引いて。

止める。

また刺す。

少しずつ。

「母上」

「なあに?」

「これ、毎日やってもいいですか?」

母の手が止まった。

「毎日?」

「はい。糸の扱い方も覚えられるし」

それに。

単純に楽しい。

「もちろん」

なぜか母は、とても嬉しそうに笑った。

その日、初めて作ったものは。

花らしきナニカが暴風雨に曝されているような、前衛的なナニカだった。

「母上。これは捨てましょう」

「嫌よ」

「いや、でも……」

「お母様の宝物にするの」

「…………」

前世の記憶まである身としては、さすがにちょっと恥ずかしい。

でも。

嬉しそうに僕の刺繍を眺めている母を見ていたら。

まあ、いいかと思った。

それから。

午後のお茶を終えると、母と一緒に刺繍をするのが僕の日課になった。

「テオ、今日は何を刺しましょうか」

「アップルパイ」

「お花にしましょうね」

「はい」

刺して。

引いて。

止める。

昨日より、ほんの少しだけ布が歪まなくなった。

母の隣で、もう一度針を刺す。

今は、それで十分だった。

なお。

前世の家庭科で使った糸通しの存在を思い出すのは、もう少し先のことである。



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