8.糸の専門家
糸を出せても。
結び方を知っていても。
上手に結べるかどうかは、まったく別の話である。
そんな当たり前のことに気がついたのは、二本の糸を結んで長くしようと思いついた翌日のことだった。
「……こう、だったよな」
右手に一本。
左手に一本。
二本の糸を交差させて、片方をくるっと回して――。
すん。
「あ」
消えた。
もう一度。
『糸』
『糸』
二本の糸を摘んで、今度はさっきより慎重に。
輪を作って。
こっちを通して。
引っ張――。
すん。
「…………」
消えた。
どうやら、床に落としても壊れなくなった程度では、結び目を作るにはまだ脆いらしい。
なら、もう少し強くしてから。
――と、考えたところで手が止まった。
「そもそも、どうやって強くするんだ?」
魔力操作を練習すれば、今より丈夫になることは分かった。
でも、それだけだ。
太くすれば強くなる?
何本か束ねたら?
捻ったら?
いや。
そもそも、普通の糸ってどうやって作るんだ?
「…………」
知らない。
糸くらい、前世にも当然あった。
服にも使う。
縫い物にも使う。
釣り糸もあるし、ロープだって細かく見れば繊維の集まりだったはずだ。
でも、それだけ。
僕は服を着ていただけで、服を作ったことはない。
家庭科で糸を使ったことはあっても、糸そのものを作ったことはない。
「前世知識、役に立たないなぁ」
いや。
知っているだけでは、役に立たないのか。
だったら――。
「先生」
「はい」
いつものように本を読んでいたテレシア先生が顔を上げる。
「糸って、誰に聞けばいいですか?」
「糸、でございますか?」
「はい。僕、糸のことを全然知らないみたいで」
先生は少し考えてから答えた。
「でしたら、仕立て職人でしょうか」
「仕立て屋さん」
なるほど。
言われてみれば当たり前である。
「それなら、私に心当たりがあるわよ」
「お母様?」
いつから聞いていたのか、母が部屋へ入ってくる。
「ちょうどテオのお祝いの一着を仕立ててもらおうと思っていたの。一緒に行きましょうか」
「行きます!」
即答した。
母が楽しそうに笑う。
「では、明日にでも使いを出しておきましょう」
「ありがとうございます!」
これで糸について教えてもらえる。
そして母は、久しぶりに僕を着せ替え人形にできる。
うん。
お互い得をしている。
◇ ◇ ◇
数日後。
僕は母と一緒に、王都の一角へやってきていた。
貴族向けの店が集まる区画らしく、並んでいる店も、歩いている人たちの服装も、普段目にするものとは少し違う。
そして目的の店は、その中でも少し変わっていた。
「ここですか?」
「ええ」
看板には、針と糸巻きを組み合わせた意匠。
大きな店ではない。
むしろ、公爵家が利用する仕立て屋と聞いて想像していたより、ずっとこぢんまりとしている。
「思っていたより小さいんですね」
「あら。不満?」
「いえ。ただ、周りのお店はもっと大きいので」
窓越しに中を見る。
飾られている服は、五歳児の僕でも分かるくらい綺麗だった。
大きさと腕の良さは、別らしい。
母に続いて店へ入る。
「いらっしゃ――」
奥から一人の女性が出てきた。
長い銀色の髪。
すらりとした身体。
そして。
髪の間から覗く、長く尖った耳。
「…………」
エルフだ。
エルフ!
本物のエルフ!
前世ではゲームと漫画とアニメの中にしかいなかった、あのエルフである。
うわぁ。
本当に耳、長いんだ。
触ってみたい。
いや、駄目だ。
初対面の人の耳を触る五歳児は、転生者じゃなくても普通に失礼である。
落ち着け。
僕はラルシーア公爵家の子供。
こういう時のために、散々礼儀作法を習ってきたのだ。
「初めまして。テオ・ラルシーアと申します。本日はよろしくお願いいたします」
完璧。
内心の『エルフだ!』は、一欠片も出ていないはずだ。
女性は僕を見る。
それから母を見る。
「……ルカ」
「なあに?」
「この子、本当に五歳?」
「失礼ね。私のかわいいテオは、ちゃんと五歳よ」
何が失礼なのかはよく分からない。
「それで、この子が例の?」
「ええ。《糸》を授かったの」
女性の視線が僕の右手へ落ちる。
「見せて」
「はい」
『糸』
するり。
十センチ。
女性は黙って僕の手のひらを見る。
「……短い」
「はい」
「細い」
「はい」
「脆そう」
「床に落としても壊れなくなりました」
「前は壊れたの?」
「はい」
「…………」
そこまで呆れた顔をしなくてもいいと思う。
「それで?」
「え?」
「その糸で何がしたい?」
聞かれて、少し困った。
服を作りたいわけではない。
戦いたいのかと言われても、今のところ床に落として喜んでいる段階だ。
「まだ、分かりません」
正直に答える。
「だから知りたいんです」
「何を?」
「糸を」
女性がわずかに眉を上げた。
「《糸》を持っているのに?」
「出せるだけですから」
僕は手のひらの十センチを摘む。
「僕、これをどうやって作るのかも知りません。どうして普通の糸がもっと丈夫なのかも、どうやったら上手く結べるのかも」
店内を見回す。
色とりどりの糸。
布。
そして、それを使って作られた服。
「だから、教えてほしいです」
しばらく返事はなかった。
何か変なことを言っただろうか。
女性は僕の手の中の《糸》を見ている。
やがて、近くにあった糸巻きを一つ手に取った。
「テオ」
「はい」
「これが、何本からできているか分かる?」
「え?」
一本じゃないの?
顔に出たらしい。
女性が少しだけ笑った。
「まずはそこからね」
糸巻きから少し糸を引き出す。
そして、その先端を器用にほぐしていく。
「おお……」
一本だと思っていた糸が、いくつもの細い繊維へと分かれていく。
「一本では弱いなら、合わせればいい」
女性の指が、ほぐした繊維をまとめる。
「合わせて、撚る。撚り方でも性質は変わる」
「撚る……」
知らなかった。
いや。
言葉くらいは知っていた気がする。
でも、こうして目の前で見るまで考えたこともなかった。
「他にも、結ぶ。編む。織る。縫う」
女性が店内を見回す。
「糸一本でも、扱い方はいくらでもある」
僕も店内を見る。
糸を見る。
布を見る。
服を見る。
そして、自分の手のひらにある、たった十センチの《糸》を見る。
さっきまでと同じもののはずなのに。
少し違って見えた。
「……面白い」
思わず声が漏れた。
女性がまた少し笑う。
「そう思う?」
「はい!」
「なら、少しくらいは教えてあげる」
「本当ですか?」
「ただし」
女性は僕の《糸》を指差した。
「まずは、そんな触っただけで壊れそうなものを、ちゃんと糸にしてから来なさい」
「……はい」
やっぱり、そこからか。
でも。
やることが、また一つ増えた。
「そういえば」
大事なことを聞いていなかった。
「お名前を伺っても?」
女性は一瞬きょとんとしてから、母を見る。
「ルカ。この子、私の名前も知らずに連れてきたの?」
「その方が面白いと思って」
「あなたは昔から……」
女性はため息をついてから、僕へ向き直った。
「ヲワよ。仕立て屋をやっているわ」
「よろしくお願いします!」
こうして。
十センチの《糸》しか出せなかった僕に。
糸の先生ができた。




